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いまだ出社してこない上長との会話を回顧する僕を気にせず、山本さんは渡辺くんに問うた。
「隣のレジの人を怒鳴りつけるの? やだぁ」
「いえ、『あの男性を黙らせろ、私が不快だから』とクレームをつけるんです。そうすれば、他のお客からクレームを受けたから、とその店員も動ける」
「へえ、そういうやり方があるんだねえ」
感心したふうに高橋さんが言う。中村さんも頷いた。
「他人から悪く思われてると分かるとすーぐ引くヤツ、いますよね。こじらせた正義漢ほど面倒くさい奴はいない。想像力がないんです」
「想像力?」
渡辺くんの反芻する声は、あたかも初めてその言葉を聞いたかのようだ。
想像力、そうぞうりょく、ソウゾウリョク。想像をする力。
「自分だけが損していると思っているわけ。怒鳴りつけている人たちが毎日どんな思いで働いているか想像しようとしない。この俺にマスクを売らない意地悪、とでも思ってんじゃない? ああ、前の職場のクレーマー思いだして腹立ってきた」
口をとがらせる中村さんに、山本さんがデスクから飴を取り出しなだめる。「嫌なことは忘れた方がいいわよ」
事務所のドアが開き、お疲れ、という声とともに小林課長が入ってきたのはそのときだった。各自はさも今まで真面目に仕事をしていましたよ、というように一斉に手を動かし始め、挨拶を返す。
「なんだよ、俺が来るなり話を止めるなよ」
「あれ、聞こえてましたあ?」高橋さんがとぼけてみせる。
「廊下から丸聞こえだった。クレームの話だろ」
中村さんは課長を見、彼が提げていたドラッグストアの袋に目をつけた。「今日は買えましたか?」
「買えなかった。今日こそある気がしたんだが」
「止めた方が良いですよ、不要不急の外出でしょ。感染リスク増やしてどうするんですかあ」
諫める高橋さんに、課長は首を振る。
「マスクが切れそうで困ってるのは事実なんだ、大目に見てくれ」荷物を置き、彼は手を洗いに席を外した。高橋さんが声を潜め、中村さんにぼやく。
「危機感ないなあ」
「課長は感染してもなんともなさそうじゃないですか」
「そういう人が一番危険だよねえ。知らずにばらまいちゃうからさあ」
同意を求める視線を投げかけられ、本心から頷いた。
「課長なら、たとえ自分がクラスター感染の元凶となっても理由をつけてすっとぼけそうですけどね」
「言えてる」
「佐藤くん、分かってるねえ」
しばらくして戻ってきた課長は、そんでなんの話してたんだ? とハンカチで手を拭きながら問いかけた。遅れて来たし急いで仕事を始めよう、という気配は皆無だ。
出社後15分は雑談をするかネットニュースのチェックをしている人が、なぜ本社の課長職なのだろうかとたまに考える。実は課長だというのは彼の虚言なのではないかと思ったが、さすがに面と向かっては言えない。
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