第27話





 林檎が有無を言わさぬ態度で、私にチケットを差し出す。私は仕方なく手に取る。そのまま何事もなかったかのように、私は自分の席に着く。


 教師は不在だった。恐らく帰りのホームルームの、ちょっと前の時間だ。教室の時計を見る。今は掃除の時間のようだ。教室の掃除は終わっていないらしく、数人の生徒達が、慌ただしく床のゴミを集めている。


 私の机は定位置にあったが、まだ机が定位置にない者もいる。ちょうど運んでいる最中のようだ。

 私の蹴られる、蹴った事件で、掃除を中断していたらしい。ご迷惑をおかけしました。すみません。


 暇なのか、私の席の隣に、林檎が突っ立っている。あ、私が日直だ。日誌を書かなくては。



「林檎、日直の仕事をしてくれたのか?」


「うん。葵ちゃんも一緒にしてくれた」


「そうか。すまん。日誌はどこにある? 残りは私が書くから」


「もう終ったよ。先生に渡した。傷は痛む?」


「日直してくれて、助かった。ありがとう。まあ、痛い。私が悪かったし、大丈夫だ」



 なんか忘れてないか? 私はズキズキと刺さるようなおでこの痛みに、顔をしかめる。



「神木くん、ライブ会場の場所、わかる?」


「え? いや。あ、林檎。それ、私の腕時計だ」


「はい♡ お返しします♡ 神木くんにチケットを渡すミッションが達成出来たから、いいよ♡」


「私の腕時計は人質だったわけだな」


「あは♡ このままライブまで、預かっていようか?♡」


「いや! すみません!」



 私は林檎に謝る。席に座ったまま、私は身体を動かし、横にいる林檎に向き合う。自分の顔の前で両手を合わせる。


 林檎は満足気に、腕時計を返してくれた。両手に渡された腕時計。その時に、林檎が少しだけ前屈まえかがみになる。林檎の白いブラウスの第一ボタンが無い。



「林檎、じっとしてくれ」



 林檎は前屈姿勢ぜんくつしせいのまま、ぴたりと止まる。林檎の鎖骨が見える。


 てか、後! 林檎の後のワンピースの丈が短くなって、なめらかな太腿ふとももあらわになる!


 現に今、男子達からどよめきが走る! 林檎の聖域である太腿を一目拝もうと、わらわらと集まる!


 ちょっ!!! 私も林檎の太腿を超絶見たい!!!



 ぢゃなああああああああいいい!!!



「すまん! 座ってくれえええ!」



 最早もはや、私は悲鳴を上げていた。林檎は頭に? を浮かべていた。私はすっと立ち、林檎を自分の席に押しやる。なすがままに、林檎は私の椅子に腰かけた。


 私はポケットからソーイングセットを取り出した。林檎の白いブラウスに付いているボタンは、白い洒落しゃれたものだ。生憎私は、同じボタンは持っていない。


 家にあった、昔祖母が着ていた品のあるワンピースに付いていた予備の白いボタンを持ってきた。ボタンのサイズはピッタリだった。



「第一ボタンが無かったから、代わりにつけた。気に入るといいが」


「……綺麗なボタンね。誰の?」


「祖母のものだ。気に入らないか?」



 林檎はワンピースのポケットから、鏡を出して、確認するようにボタンを見ていた。私が不安気に林檎にたずねると、林檎はにっこりと口元を緩めた。



「いいよ♡ ありがとう♡」



 さてさて。林檎さんのご機嫌も取れたし。チケット問題を解決しなくては。



「トイレに行ってくる」



 私は流れるように、チケットを机の上に置いたまま、教室から一歩出る。しかし。私の左腕は、がっちりと林檎にらわれていた。



「神木くん、チケット、忘れてる♡」


「いや、ちょっと、トイレ行くだけだし」


「あは♡ じゃあ、人質に、大切な腕時計を渡してくれる?♡」


「あはははは。嫌だなあ、林檎さん。何をおっしゃりますやら」


「あは♡ ほんとねえ♡」



 ぎりりりり……! 林檎さんが白雪姫のような可憐な微笑みを浮かべる!


 だがしかし!!! 林檎さんが握り締めた私の左腕は呻き声を漏らしていた!!!



「ぃ! 痛いんですけどっっ」


「やだ〜♡ 僕はただ、神木くんの腕を、優しく持っているだけだよ?♡ ねえ、神木くん♡ 『真実の口』って知ってる?♡」


「いだだだだ!!! ぉ、折れるぅ! 林檎さんの口ぢゃないだろおおお!!!」


「嘘や偽りがある人はね、真実の口に手を入れたら、どうなると思う?♡」


「すみませんでしたああああああああ!!! チケットが自然消滅して、ライブに行けないようにしたかったんです!!! 正直に白状しただろおおおお!!! 腕を折るなああああ!!!」


「あは♡ 神木くん?♡ 口が悪いよ?♡ ポキッといく?♡」


「ライブ行けなくなりますよおおおおおお」



 左腕の骨やけんがめちゃめちゃ痛い! 何もしてないけど、左腕が腱鞘炎けんしょうえんで超腫れてる!!!


 再起不能にする気か!!?


 私の左腕は、林檎に力いっぱいひねられて、血が通わない。しびれて痙攣けいれんしていた!


 林檎さん、容赦無いッスね! 一緒に打倒! マルコシアス! を誓った仲じゃああありやせんか!? もう少しねぎらってくだせええよお!



「これにりたら、僕の取り扱いには十分に気をつけてね♡」


「お嬢様、かしこまりました」



 とんだ毒リンゴだ! どこが白雪姫だ! 魔女じゃないか! いや、おぞましい女王だ!!!


 次に逆らったら、いよいよ首が飛びそうだ。



 私はそとづらは深々と、毒リンゴに忠誠を誓う。林檎は不満気に私の左腕を解放した。


 私も林檎も内面はちょっとだけ苛々していた。




 どうしてイライラする? 林檎はいつもこんな感じだ。私も普段通りだ。今更、お互いに腹立つなんて、可笑しなことだ。




 そうだ! 昼ごはんを食べてないからだ!


 いや、林檎さんは食べたかな? ホルモンバランスのせいか?



 それから、今日は朝から、予定外なことが山程あった。フラストレーションが溜まってるな。


 いかんぞ! 短気はそんだ! 苛立つことで、判断能力が下がる。よくない。





 『昼食抜き』は駄目だぞ?


 いくらお金が無くても、ダイエット中でも、仕事とかで忙しくても、『昼ごはんは食べる』に限る! 強いて上げるなら、『夕飯は抜いてもいい』だ。


 確かに。昼ごはん後の、授業はめちゃめちゃ眠い! 仕事なら尚更辛いだろう。お腹の調子も気になるだろう。社会人になると、自由にトイレに行く者と、トイレをひたすら我慢する者に別れる。



 イライラもお腹の調子も、すべて『ちょう』だ!


 一説によると、『腸』がいいと『幸せ』らしい!


 お肌が綺麗! それは腸が良いかららしい!

 メンタルが弱い! それは腸が悪いかららしい!




 身体と心は身心一如しんしんいちにょ




 しかし。何事にも例外はある。

 例えば、若く見えて肌もそこそこ綺麗。しかし、身心がめちゃめちゃ悪い。とか。


 老けて見えて、メンタルも弱い。しかし、身体はめちゃめちゃ元気!!! とか。



 そうだな。腸を鍛えつつ、質の良い睡眠と、質の良い食事。それから楽しむ。人生に生き甲斐がいがある。人生の目標がある。腹の底から本気でよく笑う。人生に充実感や満足感があって、自分が幸福だと心から思える。


 そんな仏様のような人間は、今はまだ余りいないだろう。




 時代は変わる。そして、人も変わる。過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる。

 土の時代。重苦しい我慢の時代は終った。

 風の時代。少しずつ、自由や個々が認められるようになってきた。




 水の時代。それは、様々な可能性が生まれる。奇跡が起きる時代になったのだ。


 今を変えることが出来る。





 だから、私も林檎も、仏様のような、楽しい人生を謳歌おうかしたいと思う。



 私と林檎は、人間界から、空界くうかいに行く予定だ。その先は何処どこか。



 まあ。林檎と一緒なら、きっと楽しい。




「林檎、お腹空いた」


「あは♡ 僕もお腹ペコペコだよ♡ 神木くんとお昼ごはんを一緒に食べたかったから、お弁当をまだ食べてない♡」


「それ、真夏に大丈夫なのか?」


「失礼ね! 保冷バッグに入れてるよ。レンジで温めないと冷たいけど。品質的には大丈夫だよ。神木くんの分もちゃんとあるからね」


「じゃあ、ホームルームが終ったら、一緒に食べようか」


「うん♡」




 担任の先生が教室に入ってくる。林檎は私に小さく手を振る。私は遠慮勝ちに頭を下げる。林檎は自分の席に戻り、教壇きょうだんに立つ教師を見る。


 私の席は、通路側の一番後だ。林檎は一番前の窓際の席だ。私と林檎の席は一番離れている。



 しかし、何故なぜか、心はつながっている気がする。

 もしかしたら、私の手の小指に赤い糸があって、林檎の手の小指に繋がっているのかもしれない。




 私と林檎を引き合わせたもの。それは私の腕時計だった。この腕時計は、ただの腕時計ではない。



 ――――私と林檎を繋ぐ、赤い糸だ。



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