06「おまえが望めばいつだって」
「……本條さんは……」
「死んじゃいないよ。君の希望通り、助けてあげた」
七葉は眠ったままの本條に視線を向けた。安らかに眠っていてどこか怪我をしている様子もない。後ろで見ていたが凛龍の刃は確かに本條の体を袈裟斬りにしていたが、彼の体が分解されることもなく、血が流れることもなかった。
「彼の心に巣食う悪鬼――悪いことを快感とする心を斬った。だから目覚めると彼は自分のしたことに対し激しい罪悪感を覚えて悶えることになる」
「……」
「悪いことって刺激的だけれど一線超えると罪を犯すことをなんとも思わなくなってしまうから……線引きは大切だね」
<紅姫>が言う。
あの後倒れた本條を凛龍が担いで、彼女の部屋へと戻ってきた。本棚のたくさん並んだあの部屋だ。湯気の立つ生姜湯の、その琥珀の水面を七葉は見つめているだけだった。
「彼のこと、好きだったんだね」
<紅姫>の言葉を七葉は首肯する。
「……あんなこと言われても嫌いになれませんでした……馬鹿、ですよね」
「馬鹿じゃないよ」
即座に<紅姫>が断じて、後ろを振り返った。凛龍が視線に気付いて近づき、体を密接させた。
「一度深く好きになってしまうとなかなか嫌いになれないものさ。――どんな相手でもね」
「……」
七葉は鞄を拾った。これからどうするか、考えていなかった。
念のため、とどこから持ってきたのか七葉のあられもない姿が撮影された動画の数々は全て彼女の目の前で焼却された。バックアップのデータもひとつ残らず消去したという。
立ち上がった七葉に紅凱が近づいた。その手に紙袋を持っていた。
「これをどうぞ」
手渡されたそれを開けてみると中には平べったい缶が入っていた。からからと中で音がしていた。
「……これは?」
「少量でも連続投与されれば体に悪いから。薬を抜くための薬だよ。大丈夫、悪いものは入ってない。飴にしてあるから食後に舐めてね」
開けてみると真っ黒な飴玉が七つほど入っていた。食後に一粒、と手書きのメモが添えられていた。本條は飲み物に薬を混ぜていた、と言っていた。体の火照りもあの胃の中の気持ち悪さも、恐らくその副作用なのだろう。
「……ありがとう……」
「お礼はいらない。――でも、どういたしまして」
<紅姫>は生姜湯と金平糖を口にしながら言う。
「……ねえ」
「うん?」
「私、『魂』がなくなったんだよね……私、死んじゃったの?」
「七葉、人は二度死ぬんだよ」
「……え?」
「一度目は肉体の死。二度目は――忘却という死」
「……ぼうきゃく……?」
「君を想う人がいる限り、君は外の世界で生きていける」
「……」
「君はひとりじゃないんでしょう?だったら――平気だよ」
七葉は<紅姫>を見つめた。夜空のような瞳が、自分を――見守っている。
「……<紅姫>」
「
不意打ちに言われた言葉に、七葉は戸惑った。
「……こう?」
「そう、俺の名前。にかわって書いてこうって読むんだ」
「……え」
「誰にも教えちゃだめだよ、俺と君の秘密」
<紅姫>膠は笑った。
つられて、七葉も笑った。
◇
「お帰りですか?」
皇龍が出て行く七葉の背中にそう問いかけた。
「……はい。……あの、」
「なんでしょう?」
「また――ここに来られますか?」
皇龍と影嗣が顔を見合わせた。
(へ、変な事を聞いたかな……)
「なんでもないです」、と言おうとした七葉の足元に、いつも影嗣の傍にくっついている白い大きな犬が近寄ってきた。
ふわふわの毛並みがいかにも触り心地が良いぞとでもいうように風に靡いた。
「……え」
「――望めばいい」
言ったのは影嗣――ではなく、白い犬だった。
「おまえが望めばいつだってここはおまえに門を開く」
目を疑ったが、しかししっかりと犬が発話していた。
「……そういうことだ」
今度こそ影嗣の声だった。ぶっきらぼうなそれがほんのわずかにやさしかった。
「……じゃあな」
「お元気で」
その時、犬が遠吠えをした。頭の中に鳴り響くその咆哮が聞こえなくなると、七葉の眼前から巨大な屋敷はなくなっていた。おろか建築などできそうな空き地ではなく、ただの細い路地だった。
「――ななっち!?」
七葉は素っ頓狂な声に驚いて振り返る。いたのは鈴香と文美だ。ふたりとも息が荒い。七葉を見つけると鈴香が二の腕を掴んで眼前まで迫ってくる。
「ちょ!ななっち!びっくりしたよ!家にもいないから!」
「……え?」
「すずのやつがひとりだから心配だーって。様子見に行ったら誰もいなくて。メッセ送ってもなな、既読になんないし。あっちこっち探してたんだよ」
文美が短い髪を払いながら言った。ふたりとも汗だくだった。七葉のために文字通り駆けずり回ってくれたのだろう。
「……ごめん」
「路地裏で、なにしてたの?」
「……あ、ううん。猫……犬、見つけたから遊んでた」
「え、どっち?」
文美が眉をひそめて妙な顔をする。
――君はひとりじゃないから
膠の言った言葉は、本当だ。
夢を見ていても、七葉はひとりぼっちではなかった。
ひとりぼっちにしていたのは――紛れもなく自分だった。
「ていうか、なな。それ、なに?猫か犬のえさ?」
「え?」
文美に訊かれ、七葉は自分の手元を見た。茶色の紙袋――中には平べったい缶が入っている。
確かにそこに存在していた。からからと缶の中で飴が転がる音がしていた。
「……ななっち?どったの?」
鈴香が黙り込んだ七葉を心配して声を掛ける。七葉は薄く笑った。
(だいじょうぶ、私はひとりじゃない)
「……ううん」
歩いていける。――夢はもうさめたから。
七葉はふたりを見て、笑った。
「ねえ、ふたりとも!なんか甘いもの食べに行かないっ?」
「え?ななからそんなこと言うのはじめてじゃない?」
「あれ?そうだっけ」
「そうだよーななっち、いっつも先帰っちゃうじゃん!」
「てかなな……あんた、具合悪いんじゃないの?」
「ふたりの顔見たら良くなった」
「なにそれー」
三人の少女が笑みを交わしながら歩いていく。
夕焼け空が照らす道に三つの影が長く伸びて、どこまでも一緒だった。
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