05「『魂』を賭ける価値があるのなら」

 ――俺のことを心の中で呼んで

 ――望みを叶えるために『魂』を奪われてもいいと思うのなら

 ――俺はその覚悟を受け入れて、君の望みを叶えてあげる


 七葉はひとり、大きな和室に座っていた。手にあるのは自分のスマートフォン。

 メッセージを送って返信を待っている。七葉のために用意されたのだという部屋には何もない。ただ畳と桜吹雪の舞う襖があるばかり。それでも心細く思わないのは、<紅姫>が守っていてくれていると感じるからだった。

 スマートフォンが通知を寄越す。開いて画面を確認するとそこには、


『わかった。すぐ向かうから待ってて』


 と書かれていた。ついでお茶目なスタンプが『ごめんね』と謝ってくる。


 やさしい人だった。正統派のイケメン、なんて鈴香からは言われていて、文美からはうさんくさいと評されていた。確かに嘘みたいにかっこよくて、嘘みたいに完璧な人だったな、と思う。


 もう過去形になっているのは、諦めがつきかけているのだろうか。それとも失恋に心が壊れてしまわないように予防線を張っているだけかもしれなかった。

 

 いずれにせよ、ここで全てが明らかにされたら七葉は傷つくだろう。七葉の座っているのは針のむしろだ。

 待っている時間もずきずきと七葉自身の心を苛んでいる。でも、これは七葉が決めた道だった。


「……知りてえと思うことは罪じゃない。……アンタは間違ってねえよ」


 部屋を去る際に、凛龍が残した言葉だった。

 知りたいと思うのは当然だ、好きな人のことならなおさら。

 ――七葉が勝手に深読みしただけだけれど、彼はそんな風に勇気づけてくれている気がした。


 暫くして足音が廊下から聞こえた。四つあるのは案内役の姫綺と『先生』のもの。足音が七葉の座る正面の障子戸で止まった。シルエットは確かに彼のものだ。


「七葉?」


 愛しい声が名前を呼んだ。


「……はい、『先生』」

「入っても?」

「……どうぞ」


『先生』が障子戸を開けて入ってくる。背後に見えた姫綺には狐の耳はついておらず、着ている服も裾の長い黒のワンピースだった。金色の髪はリボンで高く結い上げていた。


『先生』――本條ほんじょうは清潔感のある優男だ。柔和な笑みを常にたたえ、仕立てのいいスーツを身に纏ったサラリーマン。しかし実際何をしているのは七葉は知らなかった。頼りがいのある良い人――七葉の最初の印象だった。


「どうしたの?こんなところに呼び出して……あのひとたちは知り合い?」

「……」


 どう切り出すべきか迷った。けれどここは単刀直入に聞いた方がいい――長引かせても辛くなるだけだから。

 七葉は決心して口を開く。


「『先生』……私、『先生』に確認したいことがあるんです」

「え?確認したいこと?」

「はい。……『先生』……本條さんは、私のこと、どう思っているんですか」

「……え?」


 本條は困惑していた。周囲をきょろきょろ見渡して、落ち着きがない。それから頭を掻くと困ったように笑った。いつもの笑顔だったが、明らかに何か誤魔化しているのが七葉にはわかった。


「急にどうしたの?……ああ、長く会えなくて寂しいからそんなこと言ってるのかい?ごめんね、寂しくさせてもう終わったからたっぷりと――」


 腰を上げて近づこうとする本條に、本能が警告を鳴らす。いや、警告しているのは心の中の<紅姫>だ。七葉は身を引いた。

 その反応に、本條の顔が歪む。


「……なな?どうしたの?」

「……私の質問に答えてください」

「しつもん?」

「さっきの、私のことどう思っているかって……」

「そんなの……わからない?」


 本條が笑う。笑っているのに、何故か七葉は恐ろしかった。その笑顔が真っ白な仮面を半月型に繰り抜いたような、そんな無機質なものに感じたからだった。


「俺、ななのこと、ずっと――」


 アイシテルヨ。


「――!!」


 ずっとその言葉が聞きたかったのに。ずっと望んでいたことだったのに。

 本條の言い放った一言で、七葉はわかってしまった。わかろうとしていなかった事実に、指先が触れた。


「……うそ」


 本條は嘘をついていた。笑顔で、七葉に嘘の愛を語っている。


「え?なな?」

「うそ……本條さんの……その言葉はうそよ……」

「……なな」

「ずっと私にうそついていたのね……」

「……」


 本條が黙り込む。それが肯定だった。


 ――見えているけれど見ていない


 大きな溝は見えていた。でも見ないふりをして七葉は愛されていると思い込んだ。

 ひとりぼっちが嫌だったから。どうしようもなく寂しかったから。


 ――本当に、君はひとりなの?


 心の中で<紅姫>が問う。


 ――君はひとりぼっちで生きているの?


 頭の中で自分を心配する声が聞こえる。鈴香と文美――高校からの付き合いだったけれど、それでもかけがえのない友人だ。


「……別れましょう」


 七葉は言った。

 決別しよう、この夢と。

 本條をみつめて、もう一度七葉が宣言した。


「本條さん、ありがとうございました。……私はもう、大丈夫です。だから、別れてください」

「……」


 七葉が頭を下げた。

 ――静寂。沈黙。そして、


「――はあ?」


 誰の声だろう――そう思って、顔を上げると、本條が見たこともない顔をしていた。目を見開いて眉をあべこべに動かし、大きく口を開けている。


「……え?」

「はあ?別れましょう?何言ってんの?お前が?俺と?はあ?」

「ほ、本條さん……?」

「別れるわけ――ねえだろ!」


 本條の手が伸びて、七葉の肩を乱暴に押した。どん、と七葉は畳に臀部を打ち付けた。本條が覆い被さって七葉の襟元を掴んで引っ張った。恐ろしい形相だった。


「……っひ!」

「お前みてえなピチピチJK?簡単に手放すわけねえだろ?あぁ?出会い系なんざ使ってほいほいついてきたような尻軽がよぉ、俺以外で満足できんのか?」

「ほ、ほんじょ――」

「うるせえ!」


 頬が熱を帯びる。叩かれたのだと後から理解した。


「お前さあ、最高なんだよ……具合っての?ほんっと、処女でいてくれてラッキー?的な?」


 恍惚と本條は逢瀬の感想を語る。いつも整っていてかっこいいと眺めていた横顔はひどく歪んで見えた。


「な、何言って……」

「お前さ、ヤる前に俺が渡した飲み物、毎回飲んでたろ?」

「……!」


 まさか、と血の気が引く。案の定本條は下卑た笑みを隠そうともせずにぺらぺらと話し出す。身を火照らせたその正体を。


「あれさあ、結構ヤバめのクスリ入ってたんだよ……少量じゃあ別に変なモンとか見ねえんだけどさ……でも最高にぶっ飛ぶ感じの。お前のきったねえ喘ぎ声、全部録画してとってあんだけど……どうすんの?」

「え?」

「やべえクスリでガンギマリしてるお前のハメ撮りがあるって言ってんだよ!」

「……うそ」


 ――まさか、あの時の映像が?

 七葉は頭が真っ白になった。自分が喘ぐ醜態が友人――鈴香と文美に知られたら、本当にひとりぼっちになってしまう。


「たかだが性処理JKが自分の意思でご主人様から離れていいと思ってんのかよ!」


 唾を飛ばして叫ぶその言葉が、本條の全てだった。

 体の相性が最高だったというそれだけ。


(私のこと、性処理としてしか見てなかったんだ)

 ――気持ちよければどうでもいい、なんでもいい。そんな風に思ってセックスする連中だっているさ。悪いことではないけれど、悪用されることの方が多い思想だ


 <紅姫>の声が頭の中で反響する。絶望的な気持ちに炎が灯って怒りになった。


「……最ッ低……!!」

「うるせえ!!」


 激昂した本條の手が再び振りかぶった。殴られる、そう思って目を瞑ったが続いたのは痛みではなく呻き声だった。


「……ッ、なんだ!」

「……で、どうすんの」


 凛龍が本條の手を抑えている。部屋の入り口には<紅姫>を抱いた紅凱と紅錯が立っていた。


「あ?だ、誰だお前ら……!」

「……アンタ、どうしたいわけ」


 凛龍が訊く。


「……どう、したい……」

「――『魂』を賭ける価値があるのなら」


 ――望んで。

 <紅姫>が囁く。眼前にはかつて愛した人がいる。全部が嘘だったけれど、彼を想っていたことは本当だ。やさしい彼を頼っていて、やさしい彼が助けてくれたのも本当。

 だからこそ――


「……<紅姫>」

「うん」

「……彼を、」


 滑り落ちたその言葉を拾うように、<紅姫>の手が動いた。


「――<契りは交わされた>」


 七葉の胸元が熱くなる。何かが大きく剥がれていき、七葉のもとから飛びだっていく。光る球体――『魂』だろうかと目で追いながら七葉は考えていた。ふわふわと浮遊したそれが、<紅姫>の唇に触れた。彼女は口を開いて、それを食べると、ごくりと音を立てて嚥下した。


「――<汝が『魂』を以てその望みを叶えよう>」


 本條の手を掴んでいた凛龍が右手の手袋を口に咥えて外した。露わにされた掌には何か文字が浮かんでいる。七葉は呆然としていてその文字が読めなかった。


「<第壱結界だいいちけっかい>〝凛龍〟<紅姫>がため――彼の者に巣食う悪鬼滅却あっきめっきゃくを執行す」


 凛龍が本條の手首を返し、足払いをして倒す。受け身の取れない本條は派手に畳に背中を打った。


「……ッ痛え……!てめえら、俺を誰だと……!」

「――るせえな」


 いつの間にか凛龍の手にはいつの間にか刀が握られていた。それを見て本條が怯える。腰が引けて立つことも儘ならないようだった。


「……っな、なにすんだよ……やめろよ……俺は……俺のバックには……」

「あぁ?誰がいるんだ――教えてくれよ」


 刀を肩に担ぎながら挑発する凛龍に、半笑いで本條が申告した。


「お、おお俺のバックにゃあ、あの『蒼氷会そうひょうかい』がついてる!だからお前らこんなことして――」

「ああ、そう――。なら、問題ないね」


 彼の言葉を遮ったのは<紅姫>だ。本條が後ろを向く。少女の目は侮蔑の色に満ちていた。


「あ?……問題、ない?」

「『蒼氷会』は薬物は絶対のご法度。そしてかやは義なき規律違反を決して許さない……彼女のためにも君の粛清は必要みたい」

「……あ?なんでお前、姐御の――」

「凛龍」

「……はい」


 凛龍が刀を振り上げる。本條は問いかけるが、<紅姫>は閉口したままだった。


「お、おい!どういうことだよ、お前なんで、姐御のことを、知って」

「じゃあな」


 本條の問いに答えはない。彼が最後に見たのは、銀色の一筋だけだった。

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