参のこと『本当のじぶん』

014「俺には荷が重いよ」

 こんな気分なのだな、と頭がやけに冷静だった。

 目の前の男は申し訳ないと言いつつも、頬が赤くなっていた。単に惚気話を聞かされているだけならよかった。周囲の目がなんとなく同情めいているような気がした。


「――済まない、りょう

「……」


 いいよ、ともわかった、とも言えなかった。

 付き合っておよそ十年――それほどまでに一緒にいたというのにこの様か。

 旗丹はたにりょうは、たった今十年連れ添った恋人から婚約破棄の申し出を受けていた。


 ◇


 涼と婚約者である稲架はざ啓吾けいごは所謂許嫁という仲だった。田舎の旧家で育った涼には時代錯誤な規則が未だ残っていて、その名残で涼は啓吾と顔を知らぬうちにそういう仲にされていた。

 涼は「あり得ない」と言って、反発していたが、啓吾もまた同様の気持ちを抱いていたようで、お互い親の顔色を伺いつつ良好な関係を築いているふりをしていた。

 だが、それが『ふり』ではなくなったのはお互いに上京した時だった。


 啓吾の方から「実はずっと」というお決まりの枕詞を置いて告白されたのだ。実を言えば涼だって啓吾のことを心の底から嫌っていたわけではない。こんな茶番じみた契約に嫌な顔ひとつもせず合わせてくれた彼にはとても感謝していた。


 しかし、涼の抱いている感謝の念が愛情だったとしても、啓吾と相思相愛である自信がなく、相手だって嫌々そうしているのだろうと思っていたから――真意を知るのを怖がってずっと隠していただけだった。

 押し殺さんとしていたその想いに啓吾はそっと手を添えて解放してくれた。

 自分でも構わないんだ、と許された気がした。


 ――が、しかし。


 連れ添って十年も過ぎてお互いに一人暮らしでは味気なかろうと同棲を視野に――というところで啓吾から突然距離を置かれるようになった。何かと思い何度か話し合いの場を提案したが啓吾の返事は常に歯切れが悪かった。


 嫌な予感のする涼のもとにある日差出人不明の封筒が届いた。同封されていた便箋には『確認してください』とだけ書かれていた。パソコンで作成されたものだったので、筆跡から男女を特定するのは困難だった。


 中には見知らぬ女と腕を組んで仲睦まじく寄り添う啓吾を納めた数枚の写真があった。仲良くしている写真であれば、涼だってくだらない悪戯だと一蹴して完結していたことだった。しかしうちの一枚、ホテルを出入りするふたりの写真もあった。全ての決定打だった。


 こめかみの痙攣と握りこぶしを作ろうとする腕を押さえながら涼は仕事から帰ってきた啓吾を捕まえ、説明を要求した。啓吾は顔を真っ青にしてしどろもどろになりながら事実関係を認めた。

 そして、一緒に映っていた女に会わせろ、と言った。見てみたくなった――こんな自分と共になる決意をした啓吾を骨抜きにした女はどんなものか、と。


(怖いもの見たさ……いいえ、本物を知りたかったっていうのが正解ね……)


 啓吾と一緒に映っていた娘――年齢は涼よりもふたつ年下の遙江はるかえあくるは啓吾の会社の後輩だという。

 会社の飲み会を通して仲良くなり、彼女の『庇護欲の駆られる愛らしい姿』につい魔がさしたと震えながら啓吾は言った。あくるは目に涙を溜めて、


「ごめんなさあい!でも、知らなかったんです……先輩いつも疲れているから癒してあげようと思っただけでぇ……」


 と甘ったるい声で擁護してきた。


(それは私といると疲れるってことかよ)


 涼は思わず顔面に拳を埋めるところだった。暫く会わないことを約束して、数日経ったある日。

 啓吾が涼と話がしたいと言い出したので応じると、なんとあくると付き合いたいから婚約を破棄してほしいというのだ。


「は?え?どういうこと?」

「済まない涼。君には本当に悪いと思っているんだが……でもやっぱりあの子の方が……」

「……今更気にする訳?」

「……ごめん、やっぱり俺には荷が重いよ」

「……」


 テーブルの下で握りこぶしを作って涼は激情に耐えた。耐えた結果、何も言えないまま婚約は破棄された。

 

 マンションはもともと涼の名義で借りていたため、啓吾が出て行くこととなり、ふたりで今後も暮らす予定だった広い部屋は涼がひとり、悠々自適に使うことになった。

 当面の家賃の支払いは啓吾も協力すると言ったが、涼が「腹立つからいい」と断った。


「え、でも」

「悪いけどアンタより私の方が稼いでいるから」

「……涼、もうそれは」

「っうるさい、早く出て行け!」


 自分のプライドを保つのに丁度いい女が傍にいたぐらいでほいほいついていくような男の援助など受けない。涼は昔から気が強かった。――それが敗因であったとしても涼は他人のために自分を変えることはしない。というよりも変えられなかった。


 ――自分の人生は自分のものだから


「……はあ」


 無駄な回想に肩を落とし、涼は会社の昼休みどこで済ますか考えて歩いていた。一時間しかない貴重な休みを昨晩の問答を思い返して気落ちするなど涼のプライドが許さない。


(……でもそういうところが負けているってことよね)


 啓吾の方がやや甘やかされて育ったきらいがある。そのせいもあって根拠のない自信が過剰なところがあるのだ。幼少期より涼よりも立場が上だなんてまことしやかに教え込まれていた啓吾にとって、涼の想像を越えた経済的な自立には自尊心を傷つけられたのだろう。

 だがまさか婚約破棄に至るほどだったとは思わなかった。

 ――もしかしたら『婚約』をしていると思っていたのは涼だけかもしれなかったが。


(あ~やめやめ!こういうの私のキャラじゃない!)


 ぱちん、と頬を両手で叩く。気を取り直したところで、涼の目にそれが留まった。


「……キッチンカー?」


 真っ白なキッチンカーの前には黒板の看板が立てかけられ、前に立った少女と少年がふたりで接客していた。そこそこ並んでいるし、あちこちで同じようなものを食べている。


「……ホットサンド、か」


 近づくとパンの焼けるいい匂いが鼻腔をくすぐった。それだけも食欲をそそる。気が付けば涼はキッチンカーの前に立っていた。

 看板には『DOKOMADEMOどこまでも』と書かれていた。


「どこまでも……?」

「そうだよー〝どこまでも行きますよ〟って感じのイミで」


 そう話しかけてきたのは脱色した髪をカラフルに染め直した可愛い顔をした少年だった。緑色のエプロンに身を包んだその姿はアルバイト中の高校生に見える。実際その下に着ている服は制服のようだった。ブレザーの下にはパーカーを着ていて、ズボンはチェック柄だった。裾を茶色のハーフブーツに入れ込んだ少しお洒落な着こなしだをしていた。

 校章があるであろう胸ポケットがエプロンで隠されているのでどこの高校かはわからなかった。


「おねーさんも食べてくー?今日のオススメは〝ローストビーフの和風ドレサンド〟でっす」


 他のひとが手渡されているのを覗き見ると、色鮮やかな野菜と共に美味そうなローストビーフが挟まっていた。その上にかかっているのが和風のドレッシングだろうか、細かく刻まれた玉ねぎがつやつやと輝いていた。


「……美味しそう」

「うんまいよ~どう? どう? セットはたったの五百円で~す」

「えっやす」

「――どうぞ、飲み物はこちらからお選びくださいませ」


 もう片方から少女がドリンクメニューを掲げて近づいてきた。金色の髪を靡かせ、一見すると人形のような美貌の少女だった。紫色と緑色のオッドアイはカラーコンタクトで変化させているようには見えない。制服も少年とは違うもののようだった。白いワイシャツに赤いネクタイ、ブレザーも白く襟や袖に赤いラインが施されていた。また、かなりスカートが短い。けれど肌色はなく、脚部は黒いタイツで覆われていた。

 少女の持つメニューをざっと眺めて――


「それじゃあアイスコーヒーで」


 と涼は言った。


「はあい、毎度ありっ」


 元気よく先程の少年がキッチンカーの中で調理している男たちに声を掛けた。応答はなかったが、程なくして白いトレイに乗せられた紙に包まれたサンドイッチと、紙コップに入ったアイスコーヒーが出てきた。受け取る際に少しだけ中を覗いたが、いるのは二人の男だけで、全ての注文を彼らがこなしているようだった。


(愛想はあんまりよくないみたいね)


 しかし提供されたそれらは絶品だった。しゃきしゃきと歯ごたえのある野菜とほどけるような柔らかさのローストビーフに絡む、玉ねぎの存在感を残した醤油の甘さが引き立つソース。アイスコーヒーもインスタントのそれよりも味わい深く、ワンランク上の喫茶店にでも来ているような心地だった。

 サンドイッチの包装紙と紙コップは備え付けのゴミ箱へ、トレイだけは返却式だ。返す際に涼が、


「すっごく美味しかったです」


 と声を掛けると、中にいた無愛想な料理人が「……それはよかった」と薄く笑った。

 笑うと端正な顔立ちが一層引き立つ――思わず涼が赤面するほどに。


「最近はだいたいここに来てるからヒマがあったらぜひ!また来てネ、おねーさん♡メニューは日替わりだから毎日楽しーよっ♡」


 甘えるような口調で少年が再来店を促した。あくるのように嫌味がなく、その気にさせる言い回しだった。


「ええ――またお願いすると思うわ」

「はあい、よろしくねっ♡」

「またお待ち致しております」


 涼は先程まで落ち込んでいた気分をすっかり取り戻していた。


 ◇


「あたり――かな?」

「さあ、どうでございましょう」

「お腹の足しになる子だといいね」

「そうでございますね」


 立ち去る涼の背中で、ふたりそんな会話をしていたことを当人は知らない。

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