013「そんなことしないよ」

 ――〝うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと〟

 この世の全ては嘘で。本当は眠っている時の夢が本当。

 どうかそうであるように、少年は願った。


 ◇


『――川で男子高校生の遺体が発見されました。男子高校生は都内の――に住む早川純太さんで彼が所持していたスマートフォンには遺書のようなものが書かれており、警察は自殺を図ったものと――』


 ラジオから流れてくる音声が唐突に途絶えた。ラジオのスイッチを押したのは空中に浮かぶ手袋だった。

 広い部屋に紅蓮と<紅姫>が向かい合って座っている。<紅姫>は黒いリボンで髪の毛を一房だけ束ね、全身を白と黒の着物で覆っていた。いつもよりも露出が少ない恰好だった。彼女は喪に服すような沈鬱な表情していた。

 一方の紅蓮の方は人の姿はしていなかった。額から真っ赤な角が二本伸びていて、ピアスで装飾の施された耳は尖っている。着物を二枚羽織っているがいずれも腕を通しておらず、彼の腕は半分から下が全て黒い翼で覆われていた。その代わりに周囲には切り離した手首が大量に浮かんでいる。


 部屋にいつもの三人の男たちはいない。<紅姫>が二人きりにしてくれるよう頼んだからである。

 <紅姫>が彼を見る。紅蓮の目には何の感情も浮かんでいない。気だるげに片膝を立てて、口を閉ざしたラジオを見つめた。


「紅蓮」


 <紅姫>の声に含まれた感情の機微を察して、紅蓮はふっと自嘲するように笑った。


「――残念ながら俺は何も思わない」

「……」

「茨の棘が刺さる痛みは、その道を歩いた者にしかわからない。水に飛び込んで死ぬほどの苦しみは純太にしかわからんさ」

「……まさか、水の中にまで呼ばれるとは思わなかったけれど」


『門番』の皇龍が「竜宮城ってこんな感じなんですかねえ」と言っていて影嗣が「もう二度とごめんだ」とぼやいていたそうだった。

 彼の『魂』をすくおうとした結果、『桜雲館』は水の中に現れることになった。


「本当に苦しい時はもう声も上げられないんだ。声を上げるよりも先に苦しさから解放されることを優先する……だから、死を選ぶ」


 <紅姫>が純太の遺品を拾い上げる。彼のスマートフォンだ――本来であれば警察の手の中にあるはずの彼の痕跡。割れた画面に映っているのは純太と茉奈。仲睦まじそうなふたりが画面の向こうに笑いかけている。


「……」


 <紅姫>はメモ帳を開いた。死の間際、彼がつづったと思われる最後の履歴があった。


「……」


 画面の文字を眺める<紅姫>の目が更に深く沈む。

 紅蓮が煙草の箱に手を伸ばす。しかしそのことを察した<紅姫>に睨まれた。


「紅蓮。ここ、禁煙」

「……」


 不服そうな顔をして紅蓮はもう一度ポケットにしまった。そして立ち上がり、襖を開いた。相変わらず薄暗い廊下には吊灯籠はなかった。代わりに壁に沿うように一列、蓮の形をした照明がずらりと並んでいた。廊下の木目が川のように見え、鎮魂のための流し灯籠を模している風である。


「今度風宮とかいう男に会ったら俺から伝えておこう」

「なにを?」

「――水辺には気を付けろ。引きずり込まれるぞ、ってな」

「純太は……そんなことしないよ」


 <紅姫>がそう断言すると、紅蓮は目を細めて笑った。


「……そうだな」

「紅蓮」

「ん?」

「――夜鴉たちにもありがとうって伝えておいて」

「ああ、勿論だ。……それじゃあな、母さん」


 紅蓮が一瞥を送り、襖が閉じられた。

 静寂のおりた部屋。<紅姫>はメモの文章をなぞった。そして、心の中にぽっかり空いた穴を確かめるように、彼女はそっと胸を押さえた。


 誰もしてやれなかったこと。

 だから最後に、強く望んだのだ。

 冷たい水底で、たったひとつのあたたかさを。


 >僕は生きているのが辛いです。息が苦しくてたまりません。

 >誰も僕を信じてくれません。ここは死ぬよりも辛い場所になってしまいました。僕にはどうすることもできません。

 >親不孝を許してください。僕はきっと地獄に落ちるでしょう。それがみんなの望みだから。

 >それでも僕は許されるなら、

 >誰かにやさしくしてほしかった。誰かと話をしたかった。誰かと一緒にいたかった。

 >僕は、ただ


 >お前は何も悪くないと言ってほしかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る