012「だから僕は」

 扉を開くと、玄関先には黒づくめの男が立っていた。帽子を目深にかぶり、黒い外套に身を包んだ男は純太を見ると黙って踵を返した。呆然と立ち尽くしていると、彼の首元からにゅるりと蛇が這い出してしゅーしゅーと鳴きながら純太の眼前まで伸びてきた。


「ひっ」


 特別嫌いな訳でもないが、かといって好きではない。噛まれる、と反射的に声を上げた純太に蛇は――何故そう見えたのか純太にもわからない――少しだけ傷ついたような顔をして、男の首元へ戻っていった。


「……ついてこい」


 ようやっと男がそれだけ吐き出す。純太は聞き逃しかけたが再び歩きだす男の背を見失わないように、慌てて靴を脱いで後を追った。

 廊下は薄暗い。天井からは目の形をした照明が下がっていて、その目からは涙がこぼれている。なんとなく既視感を覚えながら、純太は目の前の男の、真っ黒な背中を追い続けた。

 不意に男が立ち止まる。軍隊のそれのように、体の向きを九十度変えるといつの間にか現れていた襖に向かって声を投げた。


「――おい、連れてきたぞ」

「――はあい」


 どうしてだろうか、初めて来る場所のはずなのに。その声に聞き覚えがあった。

 男は襖を開き、純太に道を譲る。純太はやや緊張しながら部屋を覗いた。


「……!」


 そこは水に満ちた部屋だった。声の主であろう少女は、水面に浮かぶ寝台に座っている。天蓋てんがいのある豪奢な寝台だった。棺桶のようだと、何故か純太は考えた。

 座る少女は帯も裾もとても長い、美しい着物に身を包んでいた。赤や金の色合いはまるで金魚のようだった。


「やあ、はじめまして」


 既視感が沸き上がる。その笑みを、知っている。

 惚けていると、背中を強く押された。


「わっ!」


 ばしゃん!


 純太は水の中に飛び込んでしまった。鞄から貰った缶と駄菓子がこぼれた。

 それを見て純太の脳裏に何かがかすめた。


(……あれ?)


 どうしてだろう、水に飛び込むのはこれで初めてではないような――


影経かげつね、やめてあげなよ」

「……っち」


 舌打ちだけ聞こえて襖が閉じた。純太が顔を上げる。


「俺が、<紅姫>だよ」


 座ったまま少女<紅姫>は緩やかに微笑んだ。


 ◇


 床一面水に覆われた部屋には、<紅姫>と一定の距離を保っている男が三人それぞれ椅子に座っている。

 警戒するような目付きの銀髪の男、柔和な笑みをたたえる男、無表情の男――思い思いの表情をする男たちは皆美しい顔立ちをしていた。

 彼女は丁寧にひとりずつ、名前を教えてくれた。銀髪の男が凛龍りんりゅう、笑みをたたえる男が紅凱こうがい、無表情な男が紅錯こうさく。名前を覚えるよりもその顔立ちの方に、純太は気を取られていた。


(……毒を持つ魚……)


 煌びやかな尾ひれには毒針を隠していて、うっかり触れようものなら毒が回ってなにもわからなくなる。そういう男に全てを奪われ、水底へ沈むだけの奇形の魚が自分なのだ。自分を抱く。

 水が染み込んだ制服は重かった。けれど脱ぐ気にはなれなかった。


「あまりにも苦しすぎると、ひとはその苦しみから逃れる方法を考える」


 <紅姫>が操るように指先を動かす。呼応して体を起こしたのは、寝台に一番近い椅子に座っていた凛龍だった。水を蹴って彼女に近づき、体を横に向けて寝台の上に座った。そのまま<紅姫>の真っ白な髪の毛に口づける。

 彼女は髪が長かった、それも寝台を滑って床の水面に浸かるほどに。長い髪の毛の一房だけ三つ編みにしていた。結わえているリボンには廊下に下がっていたランプと同じチャームがついていた。


「君はどうやって苦しみから逃れようとしたの?」


 <紅姫>が訊ねるのに、純太は考えた。

 世界に味方などひとりだっていないような孤立――息をしようとして吸えば吸うほど悪意を飲みこんで胃が焼けるように痛んだ。だから、


「……考えないように、した」

「そう――うまく、いった?」


 純太は首を振る。

 悪意は教室だけではなかった――風宮に言いくるめられてすっかり純太を見る目の変わった両親からも失望という空気を与えられていた。

 水の中に流れ込んでくるのはいずれも淀んだ空気ばかり、どこにいても純太は苦しかった。


「……誰も、助けてくれなかった」


 担任も「風宮がそんなことするわけがないだろう」と言って純太の言うことなど何も聞いてくれなかった。友人も離れていった。全ては楽園を牛耳る美しき魚によってもたされた毒のせいだ。

 甘い毒は誰も彼も虜にして――純太だけを追いやった。

 <紅姫>が寝台から降りる。着物の裾が濡れるのも構わず、彼女は膝をついた。<紅姫>の瞳には夜空が映っていた。


「君はすごく……すごく、がんばったんだね」

「……わから、ない……」


 何をどう頑張ったのか、もう曖昧だった。

 耐えたとは思う――だが、それだけだ。

 風宮のしたことを明らかにする行動力も、強く否定する弁論も、なにも純太は持っていなかった。

 何も持っていなかった純太が、茉奈と付き合ってしまったから――風宮は徹底的に純太を追い詰めたのだろう。

 水面に映る自分の顔を見る。


 冴えない男の顔。

 情けない男の顔。


 波紋が、広がった。


「……うぅ、っ、う……」


 苦しい。息をするたびに喉に何かがつかえてうまく話せない。

 渦巻く敵意や悪意に絡め取られて、何も言えなかった。

 反論せずに言いよどむ純太の姿を見て、誰もが風宮が正しいと思った。


「……うぅ、う……」

「――君は何も悪くないよ」

「……っ!!」

「君は、何も悪くない」

「う……うぅ……っ」


 ――その言葉をどれだけの間待っていただろう。

 お前のせいだ、お前のせいだ、と何度も言われて純太にも誰が悪いのかわからなくなっていた。

 自分が茉奈と出会ったことか?それとも風宮の前に現れたことか?それとも――


 自分が生まれてしまったことだろうか。


 ――お前はもう勘当だ、どこへでも行ってしまえ。

 ――ここまで育てた恩を仇で返すなんて。


 両親の顔を思い出して心が真っ黒になる。今まであんな表情をしたところを見たことがなかった。

 風宮が突然やってきて神妙な顔つきで、茉奈に酷いことをしていたのを相談されていて、どうにも最近彼女を付け回すような真似までするから、なんてもっともらしいことを言って。

 何もかもが壊れてしまった。


 楽しい思い出も嬉しかった出来事も、みんな。

 水底に沈んでいってしまった。


「んぅ……っうぅっ……あ、ぁああ……ッ!!」

「苦しいのはもう終わり……終わりにしよう、ねえ純太」


 <紅姫>がやさしく何度も頭を撫でる。幼い頃、転んで泣き出す純太を母がそうやって慰めてくれた。でももう母はあの頃と同じ眼差しで自分を見てくれることはない。


 ――母さん

 ――父さん

 ――僕は、


 <紅姫>が純太の頬を包んで上を向かせる。瞳の中の夜空が見つめている。

 自分を、見守っている。


「思い出して。――君は、今、どこにいるの?」

「……ぼく……、は……」


 ――お前は今どこにいる

 紅蓮にも聞かれたその問いに、純太は答えられなかった。


「苦しいのは終わったんだよ、純太。もう、苦しまなくていい」

「……」

「覆すことはできないけれど、君のことを……君がやさしいことを俺たちが覚えている。覚えていてあげられるから。……純太、思い出して」

「……ぼく、は」


 水嵩が増したような感覚がした。指先から体が冷えていくのわかった。

 けれどどうしてだろうか、心も体もどこも痛くなかった。

 全て嘘だったように、体がとても軽くて――沈んでいくようだった。


「もう一度聞くね、純太」


 <紅姫>の声が心地良い。

 水面に反射する光が、あたたかかった。


「――君は今、どこにいるの?」

(ああ、そうだ僕は)


 もうこれ以上苦しくないように。

 もうこれ以上悲しくないように。

 もうこれ以上痛くないように。


 ――そうすることに決めたんだ。


 純太は目を瞑る。

 肺の中が水に満たされていく。

 息をすればするほどあぶくになって消えていく。


(ああ、そうだ僕は)

(僕は魚になったんだ)

(だから、僕は)


 光が閉じていく。

 その刹那、小さく――


 ――<契りは交わされた>


 と声がした。

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