⑦
血の滲む包帯を取ると、俺は自分の足の感触を確かめる。少し屈んだり、捻ったりすると、まだ痛みを感じた。しかし、普通に歩くだけなら、支障はない。久々に自分の足で歩き、俺は小川で顔を洗う。寝起きでまだ不明瞭だった俺の頭が覚醒し、ようやく朝日の爽快さを感じることが出来た。
「……そろそろ、出発できそうですね」
「そうだな」
クゥニの言葉に俺は頷き、メラスが来る前に、必要な準備を済ませておく。出発するための身支度を整え、朝食のためにかまどへ枝を焚べる。
やがて、メラスが網籠を持ってやってきた。いつの間にか当たり前になったその光景が、今日で見納めだと思うと、どことなく寂しさを覚える。
メラスも、一人で立って出迎える俺の姿を見て、察したのだろう。彼は少し疲れたように、小さく笑った。
「食事をする時間は、あると思っていいのかな?」
「もちろん」
「……今日の朝食は、なんですか?」
「魚の照り焼きと野菜を、炙った麺麭で挟んだものだよ」
俺たち三人はかまどを囲み、いつものように朝食を取り始める。しかし、いつものような談笑は、今日は起こらなかった。俺が麺麭の最後の一切れを食べ終えるのを待っていたかのように、メラスが口を開く。
「行くのかい?」
「ああ」
俺は姿勢をただし、メラスに向き合う。
「ありがとう。お前がいなかったら、こんなに早く傷が治ることはなかった」
「……私からも、お礼を。本当に、助かりました」
俺に続き、クゥニもメラスへ礼を述べる。一方、礼を言われたメラスは、小さく首を横に振った。
「どうしても、行くのかい?」
「俺の目的は、知ってるだろ?」
「……私たちの、です」
俺の言葉を、クゥニが訂正する。たったその一言が、俺にとてつもない勇気を与えてくれた。並び立つ俺とクゥニを見て、それでもメラスは首を振る。
「ここで三人、静かに暮らそう。復讐なんて無駄なこと、やめるんだ」
「無駄、だと?」
痛む左足を、俺は一歩前に出す。
「俺は、両親の仇を討つために、ここまで来たんだ。この恨みを晴らすために、俺はこの体も、この血も全て捧げている! 奴に見逃されたあの日、俺は死んだんだ。死んだ俺が生きていくには、奴を殺さなければならないんだよ! 殺さなければ死んだままで、死んだ生に意味はない! だから俺の復讐は、無駄なんかじゃないっ!」
「わかっている。君の復讐心を否定するつもりは、私はない」
「なら――」
「しかし、死にに行くとわかっていて、みすみす行かせるわけにはいかない」
「何……?」
「私は、恐らく君の仇の事を知っている」
メラスの言葉に、俺は落雷を受けたような衝撃を得る。そんな俺をよそに、メラスは言葉を紡いでいく。
「私とズトラティが、『集落』から駆け落ちをしたことは話したね? 当時暮らしていた『集落』の吸血鬼に、私たちの仲を引き裂かれそうになったことも。しかし、結果として、私はこの森でズトラティと暮らせることになった。私たちが『集落』から駆け落ちをして、一体何が起きたから、この森で二人、私とズトラティが暮らせるようになったのだと思う?」
「まさか――」
「そう、現れたんだよ。私の住んでいた『集落』に、一人の吸血鬼が。そして、『集落』を滅ぼした。まぁ、その姿を見ていたのは、ズトラティだったんだが。私は、彼女を連れて逃げるのに必死だったからね。そしてその結果、私とズトラティはこの森に辿り着くことが出来たんだ」
ズトラティが言うには、その吸血鬼は、青銅色の髪に、青白い肌をしていたという。
「そいつは今どこに! ……いや、あんたがズトラティさんとこの森で暮らし始めたのは、今から二百五十年前だったな」
つまり、奴が俺の両親を殺す遥か前に、メラスは俺の仇と出会っていたのだ。メラスは当時のことを思い出したのか、震えるように、両腕で体を抱きしめる。
「あれはまるで、歩く災害だ。気まぐれで全てを破壊し、気まぐれで誰でも生かす。君たちが『御業』を使おうとも、奴には敵わない」
メラスが俺の隣に立つクゥニへ、泣きそうな顔で問いかける。
「私にはズトラティと血の繋がりがあるかもしれないクゥニさんが、子供のような存在が死ぬかもしれない状況を、放置することは出来なんだ!」
「それは、お前が勝手にクゥニを通して、亡くなったかつての恋人を見ているだけだろ?」
「それの何がいけない? 君たちこそ、愛し合っているんじゃないのか? それなのに、愛した人と死地に赴くというのか? 愛した人を危険に晒す。それが君の、君たちの愛なのか?」
「……それは」
そう言われ、クゥニだけでなく、俺も言葉に詰まる。歪んだ共犯関係(俺たち)が抱えるその矛盾を指摘され、上手く言葉を紡ぐことが出来ない。しかしそれでも、既に俺は誓っている事がある。
宙に惑うクゥニの手を、俺は掴んだ。
「俺は、クゥニと一緒にいたい。こいつが一緒にいてくれないのは、嫌なんだよっ!」
「……ラスカ」
「だから、それならこの森で暮らすことだって――」
「暮らして、お前に血を飲ませればいいのか? 今まで通りに」
そう言った俺を、吸血鬼が両目を見開いて見つめる。
「何を、言ってるんだ? いつ、私が君の血を飲んだというんだ?」
「とぼけるなよ。お前、毎回必ず、あるものを回収していたじゃないか」
最初にその可能性に気づいたのは、クゥニがメラスの家に行かないか、と言った日の事だ。メラスが俺とクゥニの関係を変化させ、『御業』の弱体化を狙っているのでは? と言った俺に、クゥニはこう言った。
『……ラスカの考えが正しかったとして、逆に聞きます。では彼は、どうやってあなたに流れる血の『御業』を知ることが出来るのですか?』
あるのだ。メラスが俺の血を知る機会、その方法が。それは――
「お前、俺の巻いた包帯を回収していたな? 包帯に付着した血を、お前は舐めたんだろ?」
だから俺は、一度もメラスの家に足を運ばなかったのだ。そしてクゥニにもその可能性を伝えていたため、あの日以来、彼女からメラスの家に行く話はされなかった。
他にも、メラスの発言に、俺は違和感を持っていた。例えば、メラスが人間の血を吸わないと誓った、この発言もおかしい。
『彼女は私の傍にいる条件に、もう私に人間の血を吸わないで欲しいと言った。私はそれを、この森でズトラティと暮らし始めてから二百五十年間、律儀に守り続けていた』
何故、守り続けて『いる』ではなく、『いた』なんだ? それはもう、メラスが人間の血を吸わないという条件を、守っていないからにほかならない。
決定的だったのは、クゥニが俺の仇討ちに付き合っている事を知ったメラスが、簡単に納得したときのことだ。如何に混血鬼であったとしても、無条件で人間の俺に付き合っているわけがない。何故ならこの世界の人間は、飼われ、狩られる存在なのだから。だからメラスは、クゥニが俺の仇討ちに付き合う理由に、見当が付いていたことになる。
例えば、俺の血の美味さに、魅了されているとか。あるいは、クゥニが俺を愛しているから、とか。どちらかというと、後者の方が、人間を愛したメラスには、納得しやすい理由だったのかもしれない。
いずれにせよ――
「俺の血は、そんなに傍に置いておきたい程、美味かったのか?」
「違う! 私は君たちのことが心配で、本当に自分の子供のように――」
「……そうであっても、私たちは、行きます」
クゥニが俺の手を、少し強く握る。彼女は感情の温度を感じさせない瞳で、メラスを一瞥した。
「……いろんな、もしもの幸せがあるんだと思います。でも、私は、もう選びました。この人がいる場所が、私の居場所です。この人が行こうとする場所が、私の道です」
「そう、か……」
メラスは落胆の表情を浮かべた後、自嘲気味に笑った。
「でも、私ももう、大切な人たちを、そうなるだろう人たちを、失うわけにはいかないんだよ!」
瞬間、メラスの金髪が、血の色に染まった。『御業』を発動したのだ。
「来るぞ、クゥニ!」
「……はいっ」
俺の言葉に、クゥニの銀髪も血色に染まる。こうした展開を予想しており、既に彼女に俺の血を飲ませていたのだ。紅い稲妻と化したクゥニが、メラスに向かって疾走する。
いつものように、クゥニの『御業』なら圧勝できるだろう。そう思っていたのだが――
「何だとっ!」
空気が爆発たように破裂し、クゥニが後方へと吹き飛んだ。俺も突如発生した爆風で、砂利道を転がっていく。
……何が起こった?
「なるほど。君の血は、確かに愛の強さで基礎能力を強化してくれるみたいだね。元々私の『御業』は風を操って鎌鼬を作る力だけど、強化され、空間そのものを振動出来るまでになっている」
「何を、言って――」
「私も、無策で君たちを引き留めようと思ってないよ。私は、ズトラティを愛している。ズトラティと瓜二つの、クゥニさんも愛している。そして、クゥニさんが愛している、君も愛している。家族として、私は君たちを愛している」
「馬鹿なっ!」
そう言いながらも、事実としてクゥニはメラスに吹き飛ばされている。それに、わざわざメラスがここで嘘を言う必要もない。つまり本当に、メラスは俺を愛しているということになる。クゥニを通して、俺を家族の一員だと本気で思っているのだ。
確かに俺の血は、血を飲んだ吸血鬼が俺のことをどう思っているのか、だけで効果が違ってくる。しかし、一体メラスは、どうやって俺のことを家族だと認識できる状況を作っていたんだ?
……一緒に、飯を食べるようになってからか。
俺たちにとって、メラスと食事を一緒にしていたのは、俺の傷を癒やす為に薬を調達しつつ、メラスの家に行かない距離感を保つための選択だったが、メラスにとっても、それは都合が良かったのだ。食事を一緒にすることで、家族の団欒のようなものを、メラスは感じていたのだろう。そして俺たちと会う前に、毎回、俺の血が付着した包帯を舐めていたのだ。
……ズトラティと死別して、二百年間孤独に生きていれば、一緒に食事をする相手に、愛着や家族のような親近感も持つか。
メラスが、俺の血で『御業』が強化された理由はわかった。しかし、今の状況は非常に不味い。完全に想定外だ。そもそも、俺の血でクゥニ以外の吸血鬼が強化される状況を、俺は想定していない。
俺の血で強化された混血鬼(クゥニ)と、俺の血で強化された吸血鬼(メラス)。両者が戦えば、俺の血の性質上、俺をより愛してくれる方が勝つのだろう。しかし、そもそも吸血鬼に劣る混血鬼は、それだけで不利になる。
俺は痛む足を引きずって、森の中へと転がるようにして逃げ込んだ。俺が近くにいると、クゥニの戦う邪魔になる。俺と彼女が離れるとクゥニへの血の補給がし辛くなるが、メラスの『御業』では、クゥニが俺を庇いながら戦うのは不可能だ。俺は木々の隙間から、二人の赤い死神の邂逅を見守る。
クゥニが、紅色の髪を振り回す。それは壁に全力でぶつけた赤い果実が散らばるように、爆裂する空間を迎撃していた。不可視の攻撃を防がれたメラスは、その手を地面に向ける。瞬間、河川敷の砂利が四散した。俺の血で強化した力を、地面に向けて解き放ったのだろう。弾かれた砂利は俺の目に捉えきれぬ速度で飛び散り、クゥニとメラスの皮膚を、肉を抉る。鮮血が宙に舞い、美しい鬼たちが、更に血化粧で彩られた。だがその程度の傷、吸血鬼と混血鬼の二人にとっては軽傷でしかない。すぐに削れた黄色い脂肪が再生し、千切れた筋肉繊維も伸びてくる。
だが、再生速度に、吸血鬼と混血鬼の差が出始めていた。自分が傷つくことを恐れない捨て身のメラスの攻撃に、徐々にクゥニは押され始める。このままでは押し負けると判断したのか、クゥニは小川の方へと走り始めた。彼女の背に向かい、メラスは不可視の爆弾を放っていく。それをクゥニは、血色の髪という刃の連撃で迎え撃った。豪雨で雫が地面に落ちるが如き間隔で、破裂音が炸裂し続けていく。大気が揺れ、地面が揺れ、木々が揺れ、森が揺れた。打撃が連続に連続で重ねられ、平衡感覚すら危うくなる。強烈な振動にあてられたのか、川魚が水面に死体となって浮上していた。
クゥニはその魚の死体ごと、腕をふるって小川の水を、メラスに向かって投擲する。水の槍となったそれは、その一本だけではない。クゥニの右腕が、左腕が、そして髪の毛の一本一本全てが、メラスへ向けて剛速の死の槍を放っていく。
しかしそれを、メラスはいとも簡単に受け止めた。メラスは自分の眼前に、振動する壁を形成。自分を狙って放たれた槍を、全て防いでいく。いや、防ぐだけではない。振動する不可視の壁は、打ち出された水の槍を、襲ってきた方向へ打ち返した。打ち返された水は、当然クゥニの元へと帰っていく。それも、クゥニが打ち出した速度で、だ。予期せぬ反撃で、クゥニの右肩が、左肘が、左頬が、右足の太ももが、左足の足首が、それぞれ刺し貫かれる。血飛沫は水飛沫と混ざり合い、太陽がそれらを綺羅びやかに照らしていた。
クゥニが苦悶の表情を浮かべ、小川の中に沈み込む。彼女を中心として、水辺が血に染められた。混血鬼でも、今負った傷は、流石にすぐに回復出来ないらしい。
「さぁ、これでおしまいです」
メラスが勝利の宣言をして、クゥニから踵を返す。その歩みの先にいるのは、俺だった。
「ラスカが、また当分動けない傷を負えば、君たちはここから動けなくなる」
そう言って、メラスは、いつものように少し疲れた笑みを浮かべる。俺はそれに、畏怖の念を抱いた。あまりにもいつも通りすぎて、この後俺に重症を負わせた後も、特に気にした様子もなく昼食の献立の話でもしだしそうなメラスに対する不快感に、俺の頬が引き攣る。痛む左足を無理やり使い、俺は吸血鬼から少しでも距離を取ろうと、走り始めた。瞬間、俺はうつ伏せで転倒している。メラスが何かしたというのは理解できるが、何故こんな結果になっているのか、理解不可能だ。
「往生際が悪いよ、ラスカ」
優しい声色に聞こえる吸血鬼の声が、恐ろしくて仕方がない。体を起こして辺りを見回すと、俺の近くに生えていた木々が吹き飛んでいた。子供が積み木で作った家を吹き飛ばしたような惨状に、俺の背筋が凍る。
「あまり暴れられると、手加減が出来ないので、じっとしていてほしいな」
振り返れば、もうメラスは俺の眼前に迫っていた。無駄かもしれないが、最後のあがきで、俺は右側に飛び込むようにして倒れる。直後、不可視の爆弾が炸裂した。
何度も地面を転がり、土が、砂利が、口の中に入る。一緒に飛ばされた木々が体中にぶつかり、俺は少しでも痛みを軽減しようと、亀のように丸くなった。だが、思った程傷を追っていない。
「……ラスカから、離れて、ください」
血染めの髪の毛を、負傷した自分の手足代わりにしながら、クゥニがメラスに迫っている。
「……『御業』の力が、弱まっていますね。そうでなければ、今のでラスカの腕が吹き飛んでいました」
「何、もうすぐ終わるよ」
メラスはそう言ってクゥニに向き合うが、彼の顔には余裕がない。包帯から摂取できる俺の血の量だけでは、長時間戦えないのだ。
メラスが腕をふるい、クゥニに向かって不可視の攻撃を放つ。だがクゥニは、余裕を持ってそれを回避した。二度、三度と爆弾を避けるが、ついに炸裂音が聞こえなくなる。メラスが摂取した俺の血が、完全に切れたのだ。
「……これでおしまいです」
回復した手足を確かめるように回し、クゥニはメラスを一瞥する。メラスはそれに言葉で返さず、腕を振った。空気が炸裂する代わりに、強烈な風切り音が聞こえる。これが本来の、彼の『御業』なのだ。
だがその攻撃を、クゥニは軽く頭を振っただけで対応する。鎌鼬は鮮血色の髪に切断され、金属がねじ切れたような断末魔を上げて消え去った。そしてそれを見届けるより早く、クゥニの正拳突きがメラスのみぞおちに入る。吸血鬼が彼方へ吹き飛ばされる前に、クゥニの髪が彼を絡め取っていた。クゥニが逆さに吊るしたメラスと共に、俺の方へとやってくる。俺も立ち上がり、彼女に近づいていく。
「殺して、くれ……」
焦点のあってない目をしながら、メラスは俺たちにそう言った。
「もう、生きていけない。一人では、独りでは、久遠の寿命は、終わりがないのは、辛すぎる。愛した人も死に、愛したい人も去っていくなら、もう、私は生きていく意味を、自分の人生の意味を、見いだせない。愛の意味も、色褪せていく」
「なら、俺たちについて来い」
焦点が戻り始めたメラスの目を見て、俺はもう一度言う。
「俺たちに、ついてきてくれ、メラス。俺を、クゥニを、守ってくれ。この復讐が終わるその日まで、俺たち家族を、守ってくれ」
クゥニが髪の拘束を解き、メラスが地面に落とされる。呆然とこちらを見上げるメラスに向かって、俺は手を差し出した。
「俺には、俺たちには、わからないことが多すぎる。だから年長者として、父親のように、一緒に生きてくれる存在が必要なんだ」
「父、親……」
もう一度、二度、三度とその言葉をつぶやいて、メラスは自分の足で立ち上がる。
「私に、そんな真似、務まるだろうか?」
「……最初から、父親として生まれてくる人なんて、いません」
「最初から、愛し合って生まれてくるやつも、な」
「父親なら、私は君が死ぬことは許さないぞ」
「俺だって、死のうと思って生きてない。今が死んでるから、死んだ俺が生きていく為に、俺は復讐をするんだ」
そう言うと、メラスは少し疲れたように笑って、俺の手を掴んだ。
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