「それでは、私はこれで失礼するよ。ではクゥニさん、また明日」

 そう言ってメラスはクゥニに微笑むと、昨日置いていった網籠を持って俺たちに背を向けた。吸血鬼が持ち去る籠の中には、食べ終えた食器に、俺の血で汚れた包帯。そして、瓶が入っていた。瓶には元々、軟膏が入れられていたが、今は空になっている。相変わらず俺たちに支援を続けるメラスに対して、俺たちは日に日に警戒心が緩んでいった。メラスと出会って五日で食事を口にするようになり、更にもう五日で渡される薬も使うようになった。左足の痛みも、だいぶ緩和されてきた。

 メラスの姿が完全に見えなくなったのを見計らい、クゥニが俺に向かって問いかける。

「……ラスカ。一度、メラスの家に行ってみませんか?」

「本気で行っているのか? それ」

 感情という色を抜いたような顔で、クゥニは俺を見つめ続けている。

「……ラスカは、まだメラスを信じることが出来ないのですか?」

「ああ、出来ないね」

「……ですが、食事も、そして薬も受け取り、使っています。なら、より良い環境で治療したほうが、ラスカの怪我も早く治るのではありませんか?」

 クゥニの言葉に、俺は歯ぎしりをする。彼女の言葉も、一理あるからだ。ここまで奴の好意を受け入れているのなら、より治療に専念できる場所に移動するという選択は、合理的に思える。

 しかし、俺は首を横に振った。

「ダメだ。あいつが気にしているのは、俺じゃない」

 メラスは、明らかにクゥニを気にしている。彼女のことは一つの人格として扱っているが、俺については、ただのクゥニの付属品という認識しかないはずだ。メラスの俺を見る目は、『牧場』にいる人間を見ている時の、吸血鬼のそれだった。

 しかし、クゥニは首をかしげる。

「……それの、何がいけないのでしょうか?」

「いけないのでしょうか、って……」

「……『集落』に入り込む時、ラスカは私の奴隷ということにしているではないですか。それと、一体何が違うのですか?」

 その言葉に、俺は二の句が継げなくなる。確かに、俺たちはその方法で『集落』を五つ滅ぼしてきた。でも、メラスについて、そう割り切るには抵抗がある。その差について俺が自分で答えを見つける前に、クゥニはメラスが立ち去った森の方を一瞥した。

「……私には、あの人が悪い人には思えないのです」

 その言葉と態度が、無性に俺の心を掻き乱す。クゥニは純粋に俺のことを気遣って、建設的な意見を出してくれているはずなのに、俺はそれを快く聞き届けることが出来ない。いや、むしろメラスの行動は、全て否定したかった。特に、クゥニが奴を肯定する発言が、癪に障る。

「そうやって、お前の信用を得るのが、あいつの目的なんじゃないのか?」

「……どういうことです?」

 俺の言葉に、無表情のクゥニがこちらへ振り向いた。たったそれだけの事に、何故だか俺は優越感を感じる。その理由もわからないまま、俺は口を開いた。

「俺たちから、抵抗する力を奪うためだよ」

「……と、いうと?」

「お前の気を引けば引くほど、『御業』の力が弱くなるだろ?」

 吸血鬼よりも弱い、人間(俺)と混血鬼(クゥニ)の武器は、血(愛)しか存在していない。だからそれが弱まれば、俺に対するクゥニの想いに変化があれば、あっという間に俺たちは弱体化する。そうなれば、俺もクゥニも、吸血鬼に太刀打ちできなくなる。俺たちの敵が、取り得る選択だと思えた。だが、クゥニは珍しく表情を変える。そこに浮かぶのは、落胆と、侮蔑の色だ。

「……ラスカの考えが正しかったとして、逆に聞きます。では彼は、どうやってあなたに流れる血の『御業』を知ることが出来るのですか?」

 その言葉に、俺ははっとした。そんな俺を見て、クゥニは小さくため息をつく。

「……どうしたのですか? ラスカ。例えメラスが私の気を引こうとしていたとしても、あなたに対しての私の愛は、何一つ揺るぎません。それともまさか、嫉妬しているのですか?」

「何?」

 クゥニの言葉で、今まで俺が抱えていた、不確かで、不快な感情の名前が判明した。だが、謎が解けたにも関わらず、俺が得たのは、爽快感の代わりに、黒く、そして淀んだ感情だった。そして俺はそれをよく咀嚼もせず、辺りに撒き散らす。

「馬鹿な! 俺が嫉妬なんて、するはずがないっ!」

「…………そうですか。嫉妬、するはずないんですね」

「そうだ。俺はお前を愛しているし、お前も俺を愛してるんだろ?」

「…………そうですね」

 俺は今、決定的に間違えた。間違えたが、何をどうすればいいのか全くわからず、間違いに間違いを重ねてしまった。

 そこから俺たちは、暫く黙っていた。時に発せられる言葉も事務的なもので、出来る事ならこの場から逃げ出したくなる。しかし、怪我をしているこの足では、どこにも行くことが出来ない。俺とクゥニの間に流れる微妙な空気が、俺は異常に息苦しく感じた。そしてそれ以上に、自分からクゥニに話しかけることが出来ない俺自身に、戸惑っていた。

 クゥニの言った通り、俺は嫉妬している。メラスのことを肯定する彼女を、見たくなかった。あいつを肯定するクゥニの言葉に、俺は耳を塞ぎたかった。でも、それを認めれなかった。

 ……何だよ、何なんだよ、どうしたんだよ、俺っ!

 クゥニと出会った時は、こんな気持を抱えるだなんて想像すらしていなかった。クゥニと一緒に『集落』を回っている時も、他の吸血鬼や人間なんて、気にもならなかった。二人で仇を追っている時は、それ以外のことを考えずにすんだ。

 でも、そうではなくなった。あいつが来たから、メラスのせいで、いや、それも結局言い訳だ。単に俺が、クゥニと向き合えていないだけだ。

 そんなことを悶々と考え続けていたら、いつの間にか沈んだ太陽がまた登っていた。

「……」

 気怠げに目頭を押さえる俺を、クゥニが一瞥して、水浴びに行く。俺は凝った体をほぐすように、体を少し動かした。体を動かしたのが良かったのか、徐々に脳が覚醒していく。少し汗ばんだ髪をかき上げると、俺の傍に水浴びを終えたクゥニが立っていた。

「…………顔、洗いますか?」

「そうだな」

 クゥニが俺に肩を貸し、俺を小川まで連れていってくれる。水辺に膝を付き、顔を洗う。前に、俺はクゥニの方へ視線を送った。

「ありがとう」

「……いいえ」

 顔を洗い終え、焚き火で暖を取っていると、網籠を抱えた吸血鬼が、森の中から現れる。籠を持つメラスの姿を見る事に、もう俺は違和感を感じなくなっていた。

「おはようございます、クゥニさん」

「……おはよう」

「今日の朝食は、山菜と茸を甘辛く煮込んだものに、川魚のすり身を蒸して作った団子になります。後はいつも通りに替えの包帯と、軟膏剤が入ってます」

「……ありがとう」

 メラスがにこやかに笑い、クゥニは感情の色を宿さない瞳で、その吸血鬼を見ている。それでも彼は満足げに頷いて、網籠をその場に置くと、用済みとなった血が付いた包帯を回収しに俺の方へやってきた。そんなメラスへ、俺は久々に語りかける。

「お前、どうしてこんなに親切にしてくれるんだ?」

 クゥニの眉が、少しだけ動いた。問われたメラスは、その歩みを止める。

「君こそ、どうしたんだい? 私は君に、てっきり嫌われていると思っていたんだがね」

「まぁ、好きでないことだけは、確かだな」

 肩をすくめて、俺は自嘲気味に笑う。本心として、俺は吸血鬼と勧んで話したくはない。でも、それ以上に――

「お前が俺に興味がなくて、クゥニに興味があるのはわかっている。でも、クゥニは俺にとって、大切な存在なんだ。あいつのことが心配で、だから、よくわからない奴を、近づけさせたくないんだよ」

「そうか」

 俺の言葉を聞いたメラスは、少し疲れたように笑った。そして俺と、クゥニに視線を送る。

「少し、長い話になるけど、いいかな?」

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