②
俺とクゥニ、二人だけの闘病生活に変化が訪れたのは、その日の夕暮れ時だった。
「……ラスカ、何かこちらに来ます」
夕食の準備をしていたクゥニが、弾けた火の粉のように、俺の元へと戻ってくる。彼女は俺を背中から抱きしめ、何のためらいもなく、俺の首筋へ歯を立てた。クゥニには緊急の場合、俺に断りなく俺の血を飲んでもいいと伝えてある。緊急の場合というのは、殆どの場合、俺たちの身を守ることを意味していた。つまり今、俺たちの命を脅かそうとしている何かが、ここに近づいているのだ。
そしてそんな存在は、吸血鬼以外にありえない。
「そこまで、警戒しないでもらいたいな」
そう言ってその吸血鬼は、森の中から現れた。黄金のような金髪を頭の後ろで結い、碧色の瞳は、来るもの全てを受け入れる深い森のようにも見える。眉に皺を刻んだ男の吸血鬼は、少し疲れたように笑った。
「はじめまして、お嬢さんがた。私の名前は、メラス。この森で二百五十年程暮らしている、吸血鬼です」
物静かな語り口調でこちらに語りかけてくるメラスを前に、クゥニの髪は血の色に染まっていく。俺は彼女に、小声で話しかけた。
「他に何人か潜んでいる気配はあるか?」
「……いいえ、あいつ一人です」
『御業』を使っているクゥニが簡単に負けるとは思えないが、目の前の吸血鬼の思惑もわからない。下手に動くことも出来ず、いたずらに時間だけ過ぎていく。そして時間が過ぎれば、クゥニの『御業』も解ける。
……どうする? クゥニを突撃させるか?
怪我をしている俺は、はっきり言ってクゥニの邪魔でしかない。自分の復讐を遂げる前に死にたくはないが、俺とクゥニの距離が離れれば、彼女が俺の血をすぐ飲める状態ではなくなってしまう。でも一方で、クゥニに時間を稼がせれば、最悪自分だけは生き残れるかも知れないという、暗い思惑が、俺の中で首をもたげる。
……でも、クゥニを失う選択なんて、選べない。
それは果たして、どういう意味で選べなかったのか?
俺が冷や汗を拭うのと、目の前の吸血鬼が両手を広げたのは、ほぼ同時だった。彼はクゥニを見つめながら、言葉を紡ぐ。
「信じてもらえるかどうかわからないが、私は君たち二人に危害を加えるようなことはしないよ。そこの人間も怪我をしているようだし。どうだろう? 私の住んでいる家に来ないか? まともな食事に、薬、清潔は布団も用意できるよ?」
その言葉に、俺だけでなくクゥニも面食らう。メラスと名乗った吸血鬼が何を考えているのか、俺には皆目見当がつかない。だがしかし、こいつに今何を言えばいいのかは、はっきりしていた。
「悪いが、その言葉をそのまま信じられるわけがない」
「やろうと思えば、私はもう君たちに危害を加えている。それでも会話を続けているのは、一つの信頼の証にならないかい?」
「そもそもの前提が違っている。特別な理由もなく、人間が吸血鬼を信じ、頼れるはずがない」
俺とクゥニの関係は、愛(血)で結ばれている、例外中の例外だ。そもそも、メラスが人間だったとしても、俺は得体のしれない奴を信じることは出来ない。俺だけならいざしらず、今は俺の背に、もう一人の連れがいる。
そのまま無言で暫く睨み合っていたが、先に動いたのは吸血鬼の方だった。メラスは根負けしたと言わんばかりに、大きなため息を付く。そしてクゥニを一瞥した後、俺の左足を指差した。
「わかった。ではせめて、食事と替えの包帯に、薬の提供はさせてくれ」
そう言うとメラスは、この場から立ち去る。やがてその手に、一抱え程ある網籠を持って、戻ってきた。
「それじゃあ、また明日の朝に必要そうなものを見繕って持ってくるよ」
手にした網籠をその場に置き、クゥニに笑いかけると、メラスは森の中へと姿を消していく。周りに誰もいないことを確認したクゥニが、『御業』を解いて、網籠へと近づいていった。
「……ラスカ、見てください」
クゥニがそう言って、俺に網籠の中身を見せてくれる。中に入っていたのは、何種類かの麺麭、そして瓶の中に果実を煮込んだものが詰められていた。他には真新しい包帯と、塗り薬と思われる白い軟体が詰まった瓶が入っている。
「……どう思いますか?」
「どう、と言われても……」
俺もクゥニも、メラスの言動に戸惑っていた。何故奴が俺たちにこれ程親切にしてくれるのか、理由がさっぱりわからない。ましてや、支配する対象である人間に対して、心を砕く吸血鬼の存在を、どう頑張っても、俺は現実のものとして受け入れることが出来なかった。
「信用なんて、出来るわけがない……」
「……そう、ですね。でも、ラスカ。包帯は、どうします?」
クゥニの言葉に、俺は苦渋の表情を浮かべる。ここで野宿をしながら俺の回復を待っていたのだが、包帯の替えがそろそろ尽きてきたのだ。洗って干して使い回すこともできなくはないが、傷口に菌が入り込むような状況にはしたくない。
それから俺たちはメラスが置いていった包帯を念入りに調べた後、それだけを使って、次の日の朝を迎えることにした。
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