⑩
その晩の風は少し冷たく、襟付きの服を着ていてもおかしくはない気候だった。星明かりと外灯に照らされる城上町を、俺はクゥニと共に歩いていく。これから、ナスリィの元へ向かうのだ。その事実を誤魔化すように、俺は手にした瓶を口に付け、中の液体を噛むように飲み込んだ。濁った赤色の葡萄酒が、俺の喉を通り過ぎる。酸味が強すぎて、俺の好みではない。
「……無理して飲まなくても、いいのではないですか?」
『牧場』から『居住区』へ続く道を歩きながら、クゥニは感情のこもっていない瞳で俺を一瞥する。そんな彼女に向かって、俺は肩をすくめた。
「これも、必要なことだからな」
「……そうですか」
そう頷いたクゥニの前に、一人の少年が現れる。いつぞや彼女に生卵をぶつけた彼は、五年の時を経て、その体と悪意を成長させていた。にきびずらを邪悪に歪ませ、少年は手にした自分の拳程の大きさの石を、クゥニに向かって投げつける。それを後ろの方で見ていた大人たちも、笑っていた。
「死ね! 出来損ないがっ!」
いつものクゥニなら、その石を避けるような事はしない。反抗もしないから、この『牧場』の人間たちは何の面目もなく、自らの醜悪を彼女にぶつけれるのだ。
だが、今日は違った。
少年が投げた石を、クゥニが右手を振るって弾いたのだ。弾かれた石が地面にぶつかり、その拍子に欠けた石が、少年の足をかすめて飛んでいく。擦りむいた足の痛みで、彼は泣き声を上げた。それを見ていた大人たちが、鬼の形相でこちらへと向かってくる。
「貴様! 自分が何をしたのかわかってるのかっ!」
「私の可愛い坊やに、なんてことするのっ!」
「この事は、ナスリィ様に言いつけてやるからなっ!」
「必ず殺してやるぞ、出来損ないの混血鬼めっ!」
「……いいですよ、殺してください」
僅かばかりの感情も宿さず、温度すら感じさせない瞳で、クゥニが人間たちを見つめる。今までとは違う反応に戸惑っている彼らに対して、クゥニは更に絶対零度の言葉を投げつけた。
「……私が死ねば、きっとこの中から、私の代わりが生まれるのでしょう」
その言葉に、人間たちが黙り込む。それを一瞥もせず、クゥニは足を城へと向けた。
「……文字通り私のような人柱が生まれるか、あるいは、本当に第二の私を孕まされるか。どちらが、皆さんにとって幸せですかね?」
何も言えなくなった人間たちを置き去りに、俺たちは『牧場』から『居住区』、城の中へと入っていく。塔の中を歩いていると、俺がこの『集落』に来た初日に絡んできた三人の吸血鬼が、下卑だ笑いを浮かべて壁際に佇んでいた。
「おいクゥニ。お前は臭いから『牧場』に居ろっつったのを忘れたのかよ?」
「まだ苛められ足りないのか? とんだ自虐趣味だなぁ!」
「死なない程度に、またいたぶって上げるわ」
そう言って彼らは、クゥニに向かって手をのばす。だが、その手はすぐに止められることになった。俺が、クゥニと彼らの間に入ったからだ。
「何だ? 人間。俺たちに、盾突こうっていうのか?」
「人間如きがでしゃばるなよ!」
「それとも、代わりに坊やがお姉さんたちを楽しませてくれるのかしら?」
「今俺は、『管理者』に初物を捧げに行く途中です」
その言葉に、吸血鬼たちの顔に緊張が走る。
「クゥニは俺を『管理者』のいる部屋まで届ける役目を負っています。それを邪魔したり、俺を傷つけたらどうなるか、試してみますか?」
そう言った俺を見て、吸血鬼は面白くなさそうに舌打ちをした。
「そういうことかよ……」
「今日粋がった報いは、すぐに受けさせてやる」
「後で覚えてなさいよ」
捨て台詞を吐きながら立ち去る彼らに、俺は一度も視線を向けなかった。後なんて、もうやってこない。だから、気にするだけ無駄なのだ。
ナスリィに案内され、俺はある部屋の前で立ち止まる。ここは、俺が最初に連れてこられた部屋だ。ここで俺は、初めてナスリィと出会い、そしてクゥニと出会った。この部屋に、俺を待つナスリィが、クゥニの母親の仇がいる。
部屋の扉に手を触れる前に、俺はクゥニの手を取った。そしてそのまま引き寄せ、抱きしめる。そしてゆっくり三秒数えてから、俺は彼女への拘束を解いた。
「行ってくる」
「……また、後で」
部屋に入る前に、俺は手にした酒瓶でらっぱ飲みをした。口から血のような葡萄酒が流れ落ち、俺の襟を染めていく。それが十分染み込み、肌に張り付くのを待ってから、俺は部屋の扉を叩いた。
『入りなさい』
虫唾が走る声が、部屋の中から聞こえてくる。鳥肌が立つのを感じながら、俺は部屋の中へと足を踏み入れた。
「失礼、します」
「待っていたよ、ラスカくん」
ゆったりと椅子に座りながら、ナスリィは俺に向かって微笑んだ。長い足が組み替えられ、組んだ指が甲殻類の足の動きのように動く。獲物を見つめる獣のような喜色をその瞳に宿した吸血鬼は、俺に向かって言葉を投げかけた。
「どうしたんだい? その染みは」
先程から視線を外されない喉元に手をやり、俺は震える口で言葉を紡いだ。
「今日が、初めてだから。その、素面じゃ、いられなくて。それで、飲んでる途中、零してしまいました」
酒瓶を掲げた俺に、ナスリィは嬉しそうに頷く。
「そうかそうか。確かに、人間にとって血を吸われる経験というものは、とても恐ろしいもののようだな。僕はてっきり、僕の為に下味を付けてくれていたのかと思ったよ」
……そんなわけ、あるわけねぇだろ!
そう言いたいが、俺は唇を噛んで無言を貫く。
「しかし、ラスカくん。キミは少し、抜けている所があるみたいだね? 葡萄酒を零したり、転んで喉元を傷つけたり」
次の瞬間、座っていたナスリィが、俺の後ろに立っていた。驚いて振り返るが、そのまま肩を押さえつけられ、机の上に仰向けで押し倒される。その衝撃に俺は苦悶の声を上げ、棚の中の酒瓶たちが、硝子と木材のぶつかる音で、抗議の声を上げた。
「最初に言ったはずだろ? キミは、僕のものなんだ。勝手に傷つけちゃ、ダメじゃないか」
ナスリィに馬乗りにされ、両手も押さえつけられる。俺の手にしていた酒瓶が机の上に二度跳ねて、床に落下した。瓶が割れ、中身が盛大にぶちまけられる。俺を拘束した吸血鬼の口が、三日月のように裂け、そこから滑る唾液に濡れた二本の犬歯が、月明かりに照らされ、ぎらついた。
「くそっ! 離せっ!」
「いいぞ、それぐらい抵抗してくれた方が、僕は興奮するんだ!」
荒い息を吐きながら、ナスリィは獲物をいたぶって楽しむ猛獣のような笑みを浮かべる。奴の股間の起立したそれが自分の太ももに押し当てられ、俺は強姦される女性の絶望を味わっていた。必死に抵抗するが、ナスリィと俺との距離は、どんどん近くなっていく。
「ふ、ふざけるなっ!」
「無駄だよ。キミは僕には勝てない。さぁ、観念して、キミの初めてを僕に捧げるんだっ!」
そう言ってナスリィは、その顔に狂気が内包された満面の笑みを浮かべ、俺の服を引きちぎる。だがその顔が、一瞬にして凍結した。俺の首に、新たに出来た噛み傷を見たのだろう。だから、俺も言ってやる。
「観念するのは、てめぇだよ」
言った瞬間、ナスリィの大量の体液が、俺にぶちまけられた。それはナスリィの胸のあたりから降り注ぎ、俺とナスリィの体の間に、何か蠢く存在が現れる。
ナスリィの、心臓だ。
そしてそれを握っているのは、髪を血の色に染めた、クゥニだった。彼女は俺が部屋に入る前に俺の血を飲み、『御業』で扉を蹴破って、ナスリィの体に手刀を差し込み、その手に仇の心臓を手中に収めたのだ。襟のある服と、それを葡萄酒で汚したのも、ナスリィが少しでも新たにできた俺の噛み傷に気づくのを遅らせるための、工作だ。
「――」
ナスリィが何か言ったが、その声は彼の心臓が握りつぶした音に掻き消されてしまう。ついでに血液が気道を逆流したのか、ナスリィの口から、鼻から、その朱色の両目から、鮮血が溢れ出した。その血が全て、押し倒されている俺に降り注ぐ。
強烈な不快感を感じ、俺がナスリィだったものを引き剥がそう、とする前に、クゥニが彼の胸部から上を引きちぎった。肉片が寝具に飛び散り、壁に黄色い脂肪が付着する。彼女が手にしたそれを天井に投擲し、頭蓋骨が割れて、桃色の脳みそが外灯に絡みつき、生臭い匂いを出し始めた。頭蓋という檻から開放された二つの眼球は、棚の硝子を突き破り、中の酒瓶を破壊して、雑な混合酒を作り出す。
自分の父親の鮮血を浴びながら、父親だったものの半分を蹴り倒して、父親の代わりに、彼女は机の上の横たわる俺の上へ、馬乗りになった。そしてクゥニは俺を見下ろして、妖艶に、優艶に、艶麗に、艶笑を浮かべる。そんな彼女を、俺は美しいと思った。
「……あっけない、ものですね」
そう言うと、クゥニは有無を言わせず、血まみれの化粧のまま、俺に口づけをする。だが、血まみれなのは、俺も同じだ。二回目の口づけは、血の味がした。
「……今度は、私の番ですから」
「起きてたのかよ……」
はにかむ彼女は、すぐに俺の上から移動して、自分が蹴破った扉の外へ、割れた酒瓶を投げつけた。空中を疾走するそれは、次の瞬間現れた吸血鬼の頭部にぶち当たり、当たったそれを木っ端微塵にする。四散した脳漿が床に飛び散り切る前に、クゥニは既に疾駆し終えていた。扉の外には、後二人、吸血鬼が存在していたのだ。しかし今、一人はクゥニの飛び膝蹴りを胸部に受け、上半身を爆散。もう一人はクゥニが首を振った瞬間、千切りにされていた。クゥニの髪が高速で振るわれ、刃のように吸血鬼を断ったのだ。ナスリィの部屋の異変に気づいて駆けつけた吸血鬼たちが、一瞬にして屍と変わる。よく見ればその吸血鬼たちは、さっき俺たちに絡んできた、あの三人の吸血鬼だった。それを横目に、俺はようやく体を起こす。
「……ラスカ。お願いが、あるのですが」
クゥニが髪を振るい、それに付着した吸血鬼の血と臓物を振り払う。圧倒的な力で仇を、そして吸血鬼たちを屠ったにも関わらず、俺に媚びるような声で、彼女はしなだれかかってきた。見ればその髪は、徐々に銀色へと色を変えている。
「……血が、足りません」
上気したクゥニが、俺の耳元でそうねだる。喘ぐ彼女の瞳は、酩酊したように視線に定まりがない。しかし、その両の瞳は、確かに俺の首筋に視線を注いでいた。
「……お願いです、ラスカ」
彼女の手が、俺の両肩を万力のような力で掴んだ。骨が軋み、俺は苦痛に呻く。よがり、俺にすがって懇願するクゥニを、俺は恐ろしく感じた。何が恐ろしいって、俺はそんな彼女を、当たり前に受け入れようとしている俺自身が恐ろしい。
やがて俺が小さく頷くと、クゥニは飢餓寸前の獣が、ようやく餌にありつけたかのように、俺の喉元へと食らいついた。再び机の上に押し倒され、劣情したようなクゥニが、俺を逃さないように足を絡めてくる。クゥニの唾液と、俺の血と、彼女の父親の血が混じるのも構わず、クゥニは時に舌を這わせ、指で舐め取り、俺の命を吸っていく。
熱せられた鉄のように熱い彼女の両手が、俺の顔を掴んだ。強引に俺の耳が、彼女の唇へ近づけられる。全てを溶かしてしまいそうな程に熱せられた吐息で、クゥニは俺にこういった。
「……ラスカ、愛してる」
「俺もだ、クゥニ」
そうだ。今の俺たちの愛は、きっとこういう形でしか成り立たない。歪で、歪み切っている。けれども、二人でないと、俺たちは成り立たない。
今度は俺から愛していると言って、彼女の唇を奪う。三回目の口づけは、血の味の中に、彼女の味を感じた。
「そろそろ、行くか」
「……そう、ですね」
差し出されたクゥニの手を取ると、彼女は俺を抱え、城の中を走り出した。途中出会う吸血鬼はクゥニが全て鏖殺し、俺たちの行く道に、吸血鬼の屍が出来ていく。しかし、壊されたのは吸血鬼だけではない。この『集落』を出るための最短経路上に存在していた塔は砕かれ、『居住区』は粉砕し、『牧場』の建物は撃砕され、その周りを囲む城壁も粉砕された。俺たちの進行を阻むものは、全てクゥニに、そして俺の血で破壊しつくされていく。俺たちの前に存在するものは、土だろうが、子供だろうが、岩だろうが、女だろうが、建物だろうが、吸血鬼だろうが、木材だろうが、老婆だろうが、昆虫だろうが、男だろうが、獣だろうが、全てを噛砕され、摺砕かれる。それらの破砕音が、俺には何故だか、この世に生を受けた、赤ん坊の産声のように聞こえた。だが、母親を求めて泣いているのに、求めている人はやってこない。
俺も、クゥニも、既に母親を失っている。父親も、もうこの世にいない。
日が昇るよりも早く、俺たちは『集落』だった場所を、後にした。
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