俺がお湯に浸した手拭を持っていくと、クゥニはそれを無言で受け取った。顔につけられた雑な黄色の化粧を拭うと、彼女はおもむろに服を脱ぎ始める。

「お、おい! 何やってるんだよっ!」

「……こうしなければ、汚れが取れませんので」

 羞恥に顔を背ける俺とは対象的に、クゥニは相変わらず表情を変えることなく、自分の体を清めていく。視線をそらす間に僅かばかりに見えた彼女の体は、初雪のように白く、完成された芸術品のようにも見えた。昨日から吸血鬼や人間に乱暴されているにも関わらず、クゥニの体には傷一つない。

「体の傷は、もう治ったのか?」

「……人間よりは、治癒力はありますから。それに、すぐに修復しない傷を付けないよう、ナスリィ様からお触れが出ておりますので」

「お前を傷つけたいのか守りたいのか、さっぱりわからないな……」

「……暇つぶしの道具として、まだ私を使いたいのでしょう。私を作ったのも、暇つぶしだったようですし」

「はぁ? じゃあ、お前の父親は……」

「……ええ、ナスリィ様です」

 体の汚れを落としきったのか、脱いだ服をまた着ながら、淡々とクゥニはそう告げる。感情のない彼女の朱色の瞳が、ナスリィのそれと重なった。

「お前の母親は?」

「……五年前に、破棄されました」

 俺から視線をそらし、彼女は小さくそう言った。破棄とはつまり、ナスリィに用済みとされたのだろう。今まで感情を宿さなかったクゥニの瞳が揺れたような気がして、俺はこの混血鬼の内面に、更に一歩踏み込む。

「母親は、どんな人だったんだ」

「……優しい、人でした」

 俺に背を向けるように、クゥニは汚れた手拭を持って、台所の流し台の前に立つ。蛇口を捻って水を出し、手拭を洗いながら、彼女は言葉を紡いでいく。

「……長く伸ばした銀髪が、綺麗でした。夕食の支度を手伝うと、嬉しそうに笑って、頭を撫でてくれました。無理やり孕まされ、産まされた私を、愛情を持って育ててくれました」

 クゥニの傍までより、俺は彼女に問いかけた。

「お前は、父親を恨んでないのか?」

 繊維の千切れる音が、家中に響いた。クゥニが手元で引き裂いた手拭の切れ端が、蛇口の水に流され、排水溝の中へと消えていく。無言の俺たちとは対象的に、蛇口は姦しく水を吐き出し続けていた。

「……申し訳ありません。新しい手拭を、用意いたします」

 蛇口を閉めながら、感情の色を宿さない顔で、クゥニはそう言った。しかし、その内面には明らかな激情が渦巻いている。それを確信して、俺は内心、歓喜した。

 ……こいつは、使える。

「ナスリィを、殺したくないか?」

 俺がそう言うと、クゥニは少しだけ眉を動かした。

「……何を、おっしゃっているんですか?」

「そのままの意味だ。この『集落』の『管理者』を殺したくないか? と言っている」

「……そんなこと、不可能です。もう三百年近く、ナスリィ様は『管理者』の地位を維持していると聞いています。この『集落』で、あの方に勝てる存在なんておりません」

「普通は、そう思うだろうな。でも、殺せるか殺せないかの話をしたって事は、殺したいとは思ってるんだな?」

 クゥニが一歩、俺から距離を取る。

「……何を、考えているのです?」

「単純な話だ。このままじゃ俺は、いずれナスリィに血を吸われ、飽きたら殺される。お前の、母親みたいにな」

 クゥニの瞳が、黒く濁った気がした。

「俺は、このまま死ぬわけにはいかないんだ。俺の両親を殺した吸血鬼を見つけ出し、復讐を果たしたい。俺を愛してくれた人たちの、仇を討ちたいんだよ!」

 俺は一歩前に進み、クゥニとの距離を縮める。

「お前はどうだ? 母親の仇、取りたくないのか?」

「……そんなの、決まっています」

 クゥニが初めて、その顔に感情の色を宿す。その色は、黒だった。どす黒い、闇よりも濃い、闇色。その色の名は、きっと憎悪と呼ぶのが相応しい。

「……殺したい。母さんを殺したあいつを、私と母さんの人生をめちゃめちゃにしたあいつを、殺したい。私を足蹴にする吸血鬼も、私に鬱憤をぶつける人間も、殺したい。殺したい。殺したい。殺したい。全員、まとめて殺したいっ」

 クゥニは歯を食いしばり、押し殺すようにそう言った。口から覗く二本の刃が煌めき、彼女が殺意を撒き散らす。そんなクゥニに、俺は手を差し伸べた。

「俺と組め、クゥニ。俺が、お前にナスリィを殺させてやる」

「……でも、どうするのですか? 混血鬼の私じゃ、どうやっても吸血鬼に太刀打ち出来ません」

「ああ、わかっている。だから、俺の血を飲め。そして得た『御業』で、ナスリィを殺せ。その代わり、俺の仇討ちも手伝え」

 その言葉に、クゥニの瞳が、動揺で揺れる。

「……無理です。血を飲んでも、混血鬼は吸血鬼には勝てません。それに、あなたの血を飲んだのが、初物が奪われたとナスリィにバレたら、その場で私は殺されます」

「それは、ナスリィを殺そうとしているこの会話を聞かれても、同じだろ?」

 無言の彼女へ、俺はまた一歩近づく。

「それに、復讐も出来ずに燻っている俺たちは、今も死んでいるようなものじゃないか? なら、今ここで生き返ろう。俺たち、二人で」

 俺の言葉に、クゥニが小さく唇を噛んだ。そして意を決したように、俺の手を取る。頷きながら、俺は内心ほくそ笑んだ。

 ……これで、俺は自分の血の事を知れる。

『御業』が使えるのであれば、混血鬼であっても、飲んだ血のことはわかるはずだ。クゥニが俺の血を飲めば、どんな味をしているのかも、どんな『御業』が扱えるようになるのかも、俺は五年も待たずに知ることが出来る。そうすればその五年間で、俺は自分の血の使い方の研究が出来るのだ。

 ……それがわかったら、きっとこの混血鬼とはおさらばだな。

 俺の血の『御業』次第だが、混血鬼よりも吸血鬼を支配下に置いておきたい。純粋に強い吸血鬼を従えていた方が、俺の復讐の成功率も上がる。

 正直、クゥニのことは、そこまで嫌いではない。親を殺されているという共通点もある。でも、俺が最も優先するのは、俺の復讐だ。そのために俺は自分の血を復讐に捧げると決めたし、そのためなら俺は、何でも犠牲にできる。混血鬼の一人ぐらい、使い捨てるのだって、わけがない。血を飲まれた事を俺がナスリィに告げ口すれば、用無しになったクゥニは排除出来るだろう。

「さぁ、飲んでくれ」

 そう言って俺は、クゥニを引き寄せた。銀髪が宙になびき、朱色の宝玉が俺を見つめる。クゥニの背丈にあわせるために、俺は少ししゃがんだ。女性特有の甘い香りが俺の鼻腔をくすぐり、彼女の蕾のような小さな口が、俺の首筋で花開く。

 痛みは、一瞬だけだった。二本の犬歯が俺の皮膚を、肉を、そして血管を突き破る。彼女の唾液と俺の血が混ざり合い、クゥニの熱い吐息と血を啜る音が重なり合う。それを、俺は恐ろしく感じていた。

 命を吸われているはずなのに、快感が全身を駆け巡るのだ。

 このまま自分の存在を、全て相手に委ねてもいいと思える感覚に、俺はただただ恐怖するしかない。こんな事が何回も続けば、俺はクゥニに隷属してしまいそうだ。

 一方のクゥニも、上気して俺の血を貪っている。その両手は俺の体にしっかりと巻き付き、獲物を逃さんとする蛇のようだ。恋人に自ら愛撫を求めるように、彼女の嬌声が上がっていく。

 クゥニに押し倒されそうになる直前、俺は彼女の腕をどうにか掴んでいた。

「おい、もう、いい、だろ?」

 その言葉に、クゥニが我に返ったかのように、俺への拘束を開放する。彼女は先程までの自分自身の行動に戸惑っているようで、口元を拭いながら、どこか呆けたような表情を浮かべていた。

「で、どうだった? 俺の、血は」

 首筋の血を新しく出した手拭で拭いながら、俺はクゥニに問いかける。クゥニは口元に手を当てて、頬を染めながら、俺から僅かに視線をそらした。

「……美味しかった、です。とっても」

「そう、か」

 その言葉に、俺は安堵した。両親の血の美味さは、どうやら俺にも遺伝していたらしい。両親とのつながりを、こんな所で実感するのが、少し不思議な感じがした。

 ……でも、俺の血は相当美味いみたいだな。

 先程からクゥニの視線は、俺の血が染み付いた手拭に注がれている。彼女に渡せば、この手拭にしゃぶりつきそうなほどの勢いだ。依存性のある薬に手を出した人の如きその反応に、俺は自分の血の味が、吸血鬼に対しての交渉に使えると確信する。

「それで、『御業』の方は、どうだった?」

「……それが」

 そう言ったっきり、クゥニが言いよどむ。上目遣いでこちらを見る彼女を訝しがりながら、俺はなおも問いかけた。

「何だよ、そんなに使えない『御業』なのか?」

 クゥニは小さく、首を振る。そしてポツリと、つぶやいた。

「……私、――――――――――――――とダメみたい、です」

「何?」

「……私、あなたのこと、好きにならないとダメみたい、です」

「は?」

 間抜けな反応を返してしまうが、クゥニは頬を赤らめながらも、真剣な表情で俺のことを見つめる。

「……あなたの血で得られる『御業』は、血を吸った相手を、愛している想いの強さに比例して、際限なく基礎能力値を向上させる、というものでした」

 その言葉に、俺はすぐに反応することが出来ない。しかし俺は、なんとか言葉を口にした。

「それはつまり、俺を愛してくれた吸血鬼を、その愛の大きさにあわせて強くする、って事か?」

「……それも、上限なく」

 クゥニは、困ったような、はにかんだような、そんな表情を浮かべていた。

「……私、頑張ってあなたのこと、好きになります。愛して、みせます」

 その言葉に、俺は茫然自失となる。

 ……こんなことって、あるのかよ。

 使い捨てるはずだった混血鬼が、ここに来て俺の切り札となった。俺の血で得られる『御業』なら、吸血鬼だろうが混血鬼だろうが、関係ない。俺を愛してくれればくれるだけ、強くなるのだから。

 そう思うのと同時に、俺は別の事を考えていた。

 ……俺は、こいつを殺さなくてもよくなったんだな。

「……ラスカ?」

 名前を呼ばれ、俺ははっとして顔を上げる。無表情に戻ったクゥニが、俺の方に手を差し出した。

「……これから、私たち、共犯ですね」

「そうだな、クゥニ」

 俺はそう言って、彼女の手を握り返す。

「俺はお前に血を与える。だから、吸血鬼どもを、俺の仇を、殺してくれ」

「……私は、吸血鬼を殺して、証明します。あなたに対しての、私の愛を」

 こうして俺たちの、歪な共犯関係が出来上がった。

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