調理師に愛されたカップ麺

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調理師に愛されたカップ麺

 名古屋駅までは新幹線であっと言う間で、買った駅弁は食すことなく毎回持ったまま降りてしまう。いつもの実家なら母の手料理が待っていて駅弁は忘れられてしまうのだけど、今回は違っていた。


 年季の入った食堂に「休業中」の札がかかっている。私の両親が半世紀近く営業している小さな店。仕事帰りの人々がフラっと寄って、手作りの料理とビールを楽しんで。テレビを見ながら常連さん同志で語り合う。団欒と安さで好まれている気軽な食堂だ。


「近所で赤いきつねを買わないで。恥ずかしいから」


 母が父にこう言っているのを、幼少の頃から幾度となく聞いた。

 今とは違って「いつもカップ麺の家庭」は、少し恥ずかしかった昭和の時代。しかも両親は夫婦で食堂を営んでいる。代金を頂いて手作りの定食を提供する店の店主が、近所のスーパーで頻繁にカップ麺を購入する。「外聞が良くない」という母の言い分はもっともだった。


 私が「パパ、どうして赤いきつねなの? 他にもカップ麺あるのに」と聞くと、父は「赤いきつねは、だしがしっかりしてて美味いんだぞ」と言う。「一緒に食べるか」と分けてくれる父に、私は「ハンバーグやオムライスの方がいい」と口にしなかった。


 今では78才になる父は、中学を出るとすぐに住み込みで板前の修業に出た。当時の師匠に先見の明があり「これからは資格の時代だ。調理師に免許ができたから、皆で受けに行きなさい」と言われたという。10代の遊びたい盛りだった父は「休みなのに試験なんて」と渋々受験した。結果は兄弟子さんたちは誰も受からなかった中、父一人だけが合格して調理師免許を取得。生まれて初めて自信が持てて、サボりがちだった修業にも身が入ったという。

 その後、母と結婚して「30才までに店を持ちたい」と二人で貯めた資金で店を開いた。


 半世紀以上のときが過ぎて、額に入った父の調理師免許証は色褪せてボロボロになっている。ある日、店舗を視察に来た飲食チェーンのオーナー風の男性が、年季の入った免許証を見て「こんな汚いのを店内に掲げて不潔だ」と言ったという。同行していた保健所の若い職員さんがその男性を「あなたの大先輩ですよ!謝罪してください」と叱責してくれて、立ち会った母は感動していた。


 今年の夏、母が病気を患い手術のため入院することになったが、 父は軽度の認知症で一人で生活することが困難だった。「父を施設に入れるのもかわいそう」と母が悩んでいたので、リモートワークだった私は一ヶ月だけ実家に戻り、仕事をしながら父の世話をすることになった。


 生まれて初めての父と二人きりの生活。認知症と言っても調子がいい時は、好きな映画や小説、政治の会話もできて新聞も読んでいる。父はトイレも食事も介助はいらない上、普段は寝てテレビを見ているので徘徊もなく、思ったより手はかからなかった。


 難点はお酒を飲みたがることと「晩酌付き」にしなければ食事をしたがらないことだった。主治医からは「お酒を控えるように」と言われていて、毎食ごとにお酒を飲ませるわけにはいかない。

「何を出せば、お酒なしで食べてくれるんだろう」

 途方に暮れた私がスーパーの店内を歩き回っていると、普段は行かないカップ麺の棚に来ていた。視界の中央には、赤いきつねが並んでいる。

「もしかして、食べてくれるかもしれない」

 一縷の望みにすがり赤いきつねを五つも買って、帰宅するとダイニングテーブルに全部並べた。


 起きてきた父がダイニングテーブルを見る。父は私の頭を撫でてこう言った。


「赤いきつねじゃないか。俺が好きなのよくわかったなあ」


 お湯を注いで5分間待つ。

「一緒に食べるか」と言う父に頷いて、私は初めて赤いきつねを食した。

「だしがしっかりしてて美味しいね」と言うと、父は「そうだろう。だしが美味いんだ。昔より揚げと麺も本格派になってるな」と流暢に語る。

「パパ、そんなこともわかるの?」

「当たり前だ。俺は調理師だぞ」

 父は満面の笑みで喜んでいた。


 母の手術が成功して無事退院した日。母はダイニングテーブルに並ぶ赤いきつねを見ている。

「ママ、ごめん、近所で赤いきつね買っちゃって」

 母の返事は意外だった。


「え、何が? だしが美味しいんだよね。ママも食べよっと」

 母は楽しそうにお湯を沸かし始めた。

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