黒龍 中編

「……え?」


 思いがけない返答に、俺は頭が真っ白になった。この人は、何を言ってるんだ?


「違う!」


 振り向くと、結が泣きそうな顔をしていた。何かを恐れているようにも見える。俺のせいで、こんな顔をしているのか……?


「お兄ちゃんは人間だよ!適当なこと言わないで!」

「適当じゃないっていうのは、君が一番わかってるでしょ?結ちゃん。だって、君も“そう”なんだから」

「……!」

「ちょっと待って!もう少し、詳しく言ってくれませんか?何が何だか、わからない……!」

 混乱して叫ぶと、俺を人じゃないと言った彼が、ため息交じりに口を開いた。


「君は知らないと思うけど、この世には人を襲い、喰らう者がいるんだよ。俺たちは、そいつらを“化物”って呼んでる」

「……けもの?」

 さっきから、この二人が繰り返し言っていたことだ。意味はわかっても、あまりピンとはこないけど……。


「化物には純系と後系がいて、その名の通り純系は自然に生まれた化物、後系は人の手で生み出された化物だ。基本的に、人を襲うのは後系なんだけど、純系とのやつも襲わないわけじゃない。そして、化物には多くの種類がある。一族もあるんだよ」


 そこまで言うと、その人は一度言葉を切り、俺を見た。そして、もう一度言葉を発する。


「んで、君と結ちゃんは純系の鬼族だ。鬼は最も多様な種族であり、故に人を喰らう確率も高い種族だよ。もちろん、ほとんどは後系のやつだけどね」

「……は?」


 俺と、結が?鬼って……じゃあ、俺たちが人間じゃないっていうのは……


「鬼と言っても、君たちは半妖……つまり、半分は人間の血が流れてるわけだ。君たちのご両親のどっちかが鬼族だったんだろうね」


「鬼……?そんなわけ、ない!俺も、結も、人間だ!鬼なんて、そんなわけ……!」


「そういってもなぁ。事実は事実だから」


 何が何だか、まるでわからなかった。お前は鬼だ。妹も鬼だ。そんなこと突然言われても、受け入れられなかった。今日この日まで、人であることを疑ったりしなかったから。


「……おっと、これはやばい。しくじったなー」


 その人の呟きが、遠くに聞こえる。頭が痛い。意識が飛んでいくのがわかる。ゆっくり、ゆっくり、俺が俺でなくなっていくのが……


「羽闇くん。本部に連絡して」

「……?どうしたんですか?」


「暴走状態」


「!」


 彼がそう呟いた瞬間、突風が起こった。空を見上げれば、鴉魔が空にいた。浮かんでいるのではない。背中に生えている巨大な漆黒の羽で、飛んでいたのだ。


 それを認識したところで、俺の意識は消えた。


____________________



「お……兄ちゃん?」

 お兄ちゃんが、何も言わなくなってしまった。黙ったまま、動きもしない。

 すると、“あの人”が口を開く。


「羽闇くん。本部に連絡して」

「……?どうしたんですか?」


「暴走状態」


「!」


 あの人がそう呟くと、突風が起こった。反射的に空を見上げると、鴉魔羽闇という人が、巨大な羽で空を飛んでいる。


「……化物?」

 思わず、声が漏れた。彼は聞こえなかったのか、どうでもいいのか、真っ直ぐにお兄ちゃんを見たまま、その羽を思い切り宙に打ちつけるようにして、再び突風を起こした。


「!」


  思わず目を閉じると、上から声が聞こえる。


「こちら鴉魔です。連行対象・兄が暴走状態に陥りました。応援をお願いします」


 言葉が切れても、突風は収まらない。凄まじい勢いに、目を開けられない。お兄ちゃんは、どうなったのか?

 そう思ったとき、前方でうなり声と、風を突っ切る音がした。


「焔さん!」


 上空から叫び声が響いたが、状況が全く飲み込めず、突風の中何とか目を開くと、信じられない光景が広がっていた。


「お兄……ちゃん……?」


「ッ……!」


 あの人の腹を、兄の右腕の爪が、抉るように切り裂いていた。真っ赤な血飛沫が飛び、地面に降り注ぐ。


「お兄ッ……」

「離れろ!」

 頭では、その声に従った方がいいとわかっていた。目の前の光景を見れば、兄が普通ではないことは、自我を失っていることは明白だったから。それでも、身体が思うように動かなかった。

 動けずに立ちすくんだまま、一度瞬きをした。


 次に目を開いたときには、眼前に兄の爪が迫っていた。


「お兄ちゃ……」


ビュウッ


 一瞬のことで、何が起こったかわからなかった。でも、私は生きていた。状況が飲み込めず、数秒呆けてしまったけれど、季節に似合わない冷たい風にさらされて、意識がはっきりとした。


 私は上空にいた。少し息が苦しいのは、さっきの鴉魔という人が、とっさに私の制服の襟を引っ張ってくれたからだと思う。


 上を向くことはできなかったけど、すぐ真上で羽音がする。ゆっくりと、大きな音だ。

 下を見ると、兄はこちらを見ていた。でも、それは私の知る兄ではなかった。


その兄の姿はーー鬼そのものだった。


 向かって左側にある前髪の分け目から、太く大きな角が生えている。透き通るような真紅の瞳はハイライトが消え、我を失っているのが一目でわかる。それに、こころなしか髪も伸びているように見える。

 前屈みの体勢で構えている両手は、よく見れば爪が鋭くとがっている。所々ついている赤いものは、あの人の血だろう。


「お兄ちゃん……」

「おい。お前」

「えっ……」


 襟を掴まれているためよく見えないが、視線を感じる。鴉魔という人がこっちを見ているのだろう。


「怪我は」

「あ……平気です」

「そうか。それと、あいつの暴走状態は二度目か?」


 一瞬心配してくれたのかと思ったが、それを聞きたかっただけかとガッカリする。どうしてガッカリしたのかはわからないけど。


「……はい。二度目です。十年前に、一度暴走してから、今までは平気だったのに……」

「お前がいるからかもな」

「……!!」

 カッとなって、力任せに上を見る。その人は、もう兄の方に視線を移していたから、目は合わなかったけど。

 でも、その発言を否定することはできなかった。



 十年前、私も兄もまだ幼かった頃。

 その時、もう私たちの両親はいなかった。叔父夫婦と優しい従姉だけが、唯一の家族だったのだ。

 私が自分たちの秘密を知ったのは、兄が初めて暴走したときだった。


 その日、私たちはいつものように二人で公園で遊んでいた。午後からは従姉も来る予定だった。それまでの間、時間を潰していただけだった。

 なのにーーなんの前触れもなく、兄は苦しみだした。うずくまり、私たち以外に人のいない公園の中央で、兄は鬼化してしまった。


 兄は自我がない状態だったけど、私のことを襲わなかった。むしろ恐れるように、動かぬ体を引きずって、距離を取ろうとしていた。その時の兄の姿は、今と全く同じだった。


 私も私で、初めて見る兄の姿に恐れていた。その時現れたのが、“あの人”だ。


 あの人は突然現れ、兄の首筋を素早く手刀で打った。兄はすぐに意識を失い、その場に倒れ込んだ。


 その後のことは、あまりよく覚えていない。気が動転していたのもあるけど、たしかあの人が兄の力を封印してくれていたはずだ。その後、私の血も封印してくれた。……はずなのに。


「どうして……」

「何が」

「封印は?あの人は、十年前に私たちの血を封印したって、そう言ったのに……!」

 そこで、“鴉魔”は黙った。それから、口を開いた。


「あんたらの力が強くなりすぎたんだろ」


「え……?」

 呟いたとき、また突風が起こった。勢いに負け、また目を閉じる。


 目を開いたとき、私は地上に座り込んでいた。すぐ目の前では、兄があの鋭利な爪で、“鴉魔”に襲いかかっているのが見える。


「お兄ちゃん!!」


「黙ってろ!!!」


 思わず叫ぶと、“鴉魔”が叫び返してきた。そう言われても、黙ってみていることなどできない。兄がああなったのは、私のせいかもしれないのに……


「お兄ちゃん……」


 二人の奥には、“あの人”が血を流しながら立ち上がっているのが見えた。あの人が立ち上がるのも、“鴉魔”が戦うのも、私がいるからなのだろうか。


「私が、戦えないから……」


 私が少しでも戦えれば、兄を抑えられれば、助けになるだろうか。あの人も鴉魔も、口は優しくないけど、私を庇ってくれているのに。私は、何もしていない。ただ、守られているだけ。


 座り込んで動けずにいると、鴉魔の羽から突風が吹く。でも、さっきほどの勢いはなかった。お兄ちゃんとの戦いで、消耗しているのだろう。


 風の勢いで、叶結びの髪飾りが落ちる。幸い遠くには飛ばされなかったから、すぐに拾い上げた。


 その時、声が聞こえた。


“結”


「え?」


“封真のことは、任せた。”


「……いの、り……」


 呟いて、はっとした。今私、なんて言った?なんで、あんなこと言った?


 わからなかった。でも、気づいたときには、髪飾りを握り締めたまま走り出していた。

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