夏果に現身

栃尾千景

夏果に現身

 夏は死が近くなる。電車を降りて無人改札を抜けるまでに、蝉が三匹転がっていた。歩きながら、スマホに挿していたイヤホンを抜く。金具部分が鈍く光る。そう言えば、包丁を忘れてきた。バスに乗り遅れないようにと、焦って出たのがよくなかった。車を借りてホームセンターに行くにしても、理由を誤魔化すのが面倒だ。ちょうど、お母さんも行こうと思ってたのよ、自転車の空気入れのプラスチックのところが割れちゃって。お父さんの自転車見てよ、全然空気入ってないでしょ。ねぇ、まあちゃんも一緒に行こっか? ありそう。面倒だ。どこか嘘の行き先を告げてもいいけれど、他に図書館とスーパーとコンビニしかないし、結局母と真綾がついてきそう。あ、別にわざわざ持参しなくても、包丁の二本や三本、家にあるか。気づかなかった。

 駐車場には、母の白い軽が停まっているだけだった。運転席の母は、私に気づくと小さく笑んだ。左手を振ってそれに応えながら、ちらりと後部座席に目をやる。予想に反して、真綾は乗っていなかった。後部座席のドアを開けて、ボストンバッグとリュックを詰め込んでから、助手席に乗り込んだ。

「ごめん、こんなギリギリになっちゃって」

「朝ごはん食べてきた? コンビニ寄る?」

「大丈夫。ちょっと食べてきた」

 嘘だった。何も食べていない。

軽は長い上り坂を進む。カーブが多く、なかなかスピードを出せない。

「お父さん、何か言ってた?」

「何かって?」

「いや、何もないならいいんだけど。本当はさ、遅くても昨日までには帰ってくる予定だったじゃん」

「卒論なんて、二週間くらいで書けないのかなーって言ってたかな。でも最近は、壮真にどう接すればいいのかってことばっかり」

 そんな短期間で書けるわけないのに。自分は書いていないから、そんな好き勝手言えるんだろうね。なんて、口には出さない。

「あっ、そうそう、来週ね、まあちゃんと一高の説明会に行くの」

「一高に行くんだ」

 第一高校に行くのが、真綾のためになるのかはわからない。が、少なくとも父が望んでいるのはわかるし、父が望んでいることに母が反対しないのもわかる。

「壮真は、共学に行きたいって言ってたよね」

「えーそうなの、お母さん、てっきりスポーツ推薦を狙うんだと思ってた」

「いやでも、前に帰省したときに聞いたきりだから、変わっているかも」

 赤信号にぶつかり、ゆっくりと停車する。こうするのが正しいように感じ、自分の高校受験を思い浮かべる。志望校について、何も言われなかった。真琴の意思を尊重する。お父さんも、お母さんと同じ考えだから。大学受験のときは、付け足しがあった。できれば県内で決めてほしい。結局、県外の市立大学に進んだ。美術史を学べるところが県内にはないんだよと告げたとき、父は、教育学部の美術専攻みたいなのは駄目なのかと言った。あのとき、父の唇の端が僅かに引き攣っていたことを、今でも覚えている。

 実家に帰ってくるのは、二年生の冬休み以来だから、一年半ぶりくらいになる。庭の雑草の緑が目立つのは、夏に限らずいつものことだ。後部座席に積んだ荷物を掴み、母の後を追って玄関に入る。父の黒い革靴と黒いスニーカー、真綾と壮真の中学指定の白いスニーカー。変わっていない。この家は変わっていないことが多すぎる。

「あー」

 右側の居間の引き戸が空き、ひょいと真綾が顔を出した。

「真綾、久しぶり」

「うん」

 靴を脱ぐ間に、真綾は居間に引っ込んでしまっていた。引き戸越しに、テレビの音が聴こえる。ニュース番組という体だけれども、実際にはタレントがニュースについてコメントする番組。そうだった、これからしばらくは、毎朝これを見ないといけない。

 テレビの音が消える。低い声が何か言っているが、聞き取れない。

 再び引き戸が開く。中から出てきた真綾は、薄いピンクのキャップを被り、黄色の小さなポシェットを肩から下げていた。

「真綾、背伸びたね。真琴と同じくらいだね」

「うーん」

「同じくらいだよ。クラスでも背の高いほうなんじゃない?」

 玄関に下りてきた真綾が、よろめきながら白いスニーカーを履く背中を眺める。

「真琴、ちょっと」

 声に振り返ると、父がいた。片手をひらひらと動かしている。あ、ごめんと言おうとしたつもりだったけれど、ぼんやりした溜め息のような、曖昧な声しか出ない。端に寄り、場所を譲る。黒いスニーカーに足を突っ込みながら、父は言う。

「火事だけは気をつけて」

「うん」

「壮真のこと、よろしく」

 そうだね、壮真はお父さんと口を利かないもんね、とは言わない。

「お父さんたちこそ、事故とか、気をつけて」

「大学はどうなんだ、最近は。オンライン授業ばっかりなんだろ」

 ニュースで見聞きしたんだろう。それ以外考えられない。週数回電話する母と違って、父と話すのは一年半ぶりなのだから。

「まぁ、でも、ゼミは対面だから」

「でも、もっと早く帰ってくれば、こんなにバタバタしなかったのに。二人の誕生日だって先週だったんだから」

「ちょっと忙しくて」

 父と話すときが、いちばん笑みを浮かべているかもしれない。にこにこしていればどうにか会話は着地する。上唇と下唇を離せば、それらしい表情になる。

「ごめんね、お待たせ」

 母が、大きいキャリーケースを三和土に置く。もう私との会話は終わったようで、父がキャリーケースの角を掴み外へ運んでいく。母が、私に声をかける。

「じゃあ、行ってくるね」

「気をつけて」

「暑くなるみたいだから、エアコン点けてね。お土産も買ってくるから」

 母も外へ出る。エンジン音が聞こえる。黒い普通車が、開かれた玄関から覗く。母が戸を閉めなかったのは、きっとこういうふうにしてほしかったんだろうなと、玄関先で手を振る。運転している父はまだしも、助手席の真綾はこちらを向かなかった。

 普通車が見えなくなってから、荷物を掴み、居間に運ぶ。階段を下る足音し、居間の隣の台所で止まる。冷蔵庫を開ける音がし、すぐに閉まる音がする。身を傾けると、台所との境に掛かっている暖簾の下から、白い足首が見える。裸足だ。

「私のコップ持ってきてー」

 台所に向かって、声をやや張り上げる。爪先がこちらを向く。肌と同じくらい、伸びた爪も白い。

 暖簾が揺れ、壮真が入ってくる。

「やー、久しぶりだね」

ローテーブルの上に、プラスチックのポットに入った麦茶と、二人分のコップを置く。

「それにしても、日に焼けてないね。本物のひきこもりみたい」

「そうなんだよ。だから、あの人がうるさかったよ。最後の大会なのに、やる気があるのかみたいな」

「純粋に、屋内で泳いでるからでしょ」

私は這うようにテーブル近づき、両方のコップに麦茶を注ぐ。壮真に倣い、一口飲む。ぬるい。

 壮真の顎に、うっすら髭が映えている。紺色の丸Tシャツに、だぼっとした黒の半ズボンを身につけている。

「あっ、帰ってきて早々で悪いんだけど、今日さ、実は友だちと約束してて」

「どっか行くの?」 

壮真はコップをテーブルに置いてから言う。

「図書館で一緒に勉強しようって話だったんだけど、感染対策で机が使えなくなっちゃったから、LINE繋いで、一緒に宿題しようって話になって」

「なるほど、今どきの中学生だ。いいんじゃない。何時から?」

「えっと、二時の約束」

「ん。じゃあ、その間は別の部屋に行ってるから、居間使いなよ」

「ありがとう。マジ感謝」

壮真に同級生の友だちがいるのはよいことだ。壮真の同級生ということは、すなわち真綾の同級生ということでもあり、真綾と壮真が姉弟であることを知っているということだ。

「ちなみに、その友だちは、真琴の存在を知ってるの?」

「あー、うーん、多分知らないかなぁ。話したことないかも」

「まぁ、七つ違うしな」

 私は、周囲から一人っ子だと思われていた。きょうだいの話が出ると、やんわりと逸らして、意図的に隠した。説明するのは面倒だった。隠せてしまっていた。

「今後は、積極的にアピールしてくれていいんだよ。大学生の姉なんてレアっしょ」

「まぁでも、大学生っぽくないんだよな。大学生ってみんなそんな感じなの」

「まぁ、あんまり友だちいないからなぁ。あ、そうだ、今期、何観てる? アニメの話、なかなかする相手がいなくて」

「火曜にやってるやつでさ、おもしろいのがあって」

 壮真がポケットからスマートフォンを取り出し、イラストを見せてくる。

「あーこれ知ってる」

「マジ? 観てる?」

「いや、観てないんだけど、原作小説持ってる。物置きにあるよ」

「やった、後で探して来よっと」

 自分の知らないところで、自分と似た趣味嗜好を壮真が獲得していたことも、妙な感じがする。年齢も離れていて、物理的な距離も普段は離れているのに。私が大学進学で実家を離れたとき、真綾と壮真はまだ小学生だった。身長だって、まだ私のほうが高かった。

 屈託なく笑っていて壮真だったが、すっと眉をひそめる。

「あのさ、訊きたいことがあるんだけど」

「ん?」

「中三のとき、期末とかの順位ってどのくらいだった?」

「うーん、男女一緒の順位で、まぁ五位前後くらいだったかなぁ。受験のときまで大体そのくらい」

 スマホを床に投げ出し、テーブルに倒れ込むようにもたれかかって、壮真が言う。

「あのさぁ、北高に行こうかなって思って」

「いいじゃん。マラソン大会ないし。一年のときに教科担任だった、嫌な教師も異動になったし」

「嫌な教師いたんだ」

「うん。指名されて間違えると黒板を叩くから、体罰なんじゃないかって、隣のクラスで授業やってた学年主任が心配になって覗きに来たよ、一年で五回くらい」

「やばいね、それは」

「異動がわかった日、お祝いに、帰りにコンビニでハーゲンダッツ買って食べたよ」

 壮真が笑い、上半身を起こす。

「先週、三面面談あったんだけど、今の成績だと、ちょっと微妙だねって言われてさ」

「まぁ、もう少し様子を見てもいいんじゃないの。勉強もしてるんでしょ」

「県大会が終わってからは、結構真面目にやってる」

「微妙ってのも、諦めろって言いたいんじゃなくて、夏休みにちゃんと勉強しろよって意味だと思うけどなぁ。担任の性格とかもあるけど」

「なるほどねー」

 小さく頷く壮真を見ると、私なんかよりも真面目な性格なのだろうなと感じる。

「壮真なら大丈夫だと思うけど。ていうか、お母さん、スポーツ推薦で行くんだと思い込んでたっぽいよ」

 私の言葉を聞き、壮真が決まりの悪そうに視線を向ける。

「いやー、県で六位って、それこそ微妙じゃない? 入れる高校はあるかもしれないけど。高校でも水泳続けるか迷ってるし」

「それは初耳だ」

「泳ぐのは好きだし、早く泳げると嬉しいけど、競うのは別に好きじゃないからなぁって思って、うーん、っていう感じ」

「あー確かに、できるから続けるよりも、楽しいから続けるほうがいいだろうね」

「ちなみに、映画部ってどんな感じだった?」

「映画同好会ね」

「同好会なんだ。部じゃなくて」

「でも、ちゃんと顧問もいたよ。週一くらいで集まって、映画観て、お菓子を食べながら感想を話し合うっていう。私、会長だったよ」

 母や父と趣味の話をすることはほぼなかった。真綾が映画館に二時間いられないので、家族揃って映画を観たこともない。

「同窓会って、部長じゃなくて会長か。かっこいいな。何だろう、賄賂をもらってそう」

「賄賂かぁ。欲しいねぇ。あ、そう、就職先決まったよ」

「お、めっちゃ稼いで、お年玉ちょうだいよ」

「すでに働きたくないなぁ。てか、妹と弟にお年玉をあげることになるとは思わなかったな。高三までだから、三回も?」

「あざっす」

「うわ、シンプルに損じゃん」

 どうせなら末っ子に生まれたかったわ、と言いかけ、呑み込む。私より先に真綾が生まれていたら、私は生まれていなかったんじゃないかと思うし、真綾のあとに生まれたら生まれたで、今よりしんどかもしれない。そもそも、生まれたかったのかもわからない。


夏は死が近くなる。お盆もあるが、そんな間接的で情緒的な話ではなくて、道を歩くと蝉が転がり、ミミズが干乾び、蟻が何かの虫の羽を運んでいる、そういうわかりやすい死が目につく。でも本当は、それだけではないのだろう。友だちと花火や釣りに行ったり、家族みんなで旅行したり、楽しい時間があるのに。楽しい時間があったはずなのに。

望んでいた時間が得られなかったのは、真綾が周囲と違うからだろうか。具体的な障害名は聞かされていないが、双子の片方が普通学級で、もう片方が特別支援学級に通っていたら、もう言い訳のしようがない。それでも、両親は何も言わない。

 昼食には、冷蔵庫にあったものでチャーハンを作った。ネットか何かで見た、材料をすべてボールで混ぜて、フライパンで焼く方法で作った。具を細かく切ることと、焦がさないように炒めることくらいしか気をつけることはないが、壮真がおいしそうに食べてくれて安心した。作る際、包丁の場所と切れ味は確認した。

 約束の時間の十分前に、エアコンの効いている居間を明け渡し、廊下を挟んで向かいの、畳敷きの部屋に移動する。かつて私の部屋だった六畳間は、今は真綾の部屋になっているため、この家に私だけの空間はない。もっとも、真綾はほとんどの時間を居間過ごしているが。父は、真綾と壮真は同じようにするのが大事と言うが、真琴と真綾は同じように、とは言わない。理由は年齢差だけではない気がするけれど、考えすぎなのだろう。被害妄想かもしれない。

父の前では、考えていないように振る舞うのがいい。難しいのが、考えていないように振る舞うには、緻密に考えなければいけないことだ。

母の前では、少し方向性を変える。考えていることに気づかれても、まぁどうにかなる。でも、ネガティブな素振りはいけない。母が悩んで泣いてしまうかもしれない。

 畳の上に、プリントアウトしてホチキス留めした論文が置かれている。包丁は忘れてくるのに、読みかけの論文はクリアファイルに入れて帰省するのは、許されたがっているみたいだ。世間に対して言い訳をしているようで、実は自分自身から逃避しようとしているようだ。自分自身から逃避しているならば、もう死ぬしかないように思う。いや違う。本当はずっと、一人で死ぬべきだったし死ぬしかなかった。わかっていたが怖かった。


 夕食は、壮真がコンビニで買っちゃおうと言った。もう七時近い。昼間のように明るいが、もう夜が迫っていることを示すように、淡い青のフィルター越しに景色を見ているようだ。暑さも和らぎ、信号機や杉の木が、ぼんやりと揺れて見える。国道沿いのコンビニまでの一本道を、祭りのあとのように、二人で並んで歩く。記憶とは違って、自動車がほとんど通らない。こんなに交通量が少なかっただろうか。でも、わざわざ壮真に訊くほどのことでもないので、黙っておく。

「ねぇ、新盆って、何するのか知ってる?」

 壮真が言う。横を向くと、私の目線の位置に、壮真の肩があった。まだ身長が伸びるのか。おそらく、歩く速度も私に合わせてくれているのだろう。どんどん置いて行かれている気がする。考えすぎだ。視線を前に戻し、口を開く。

「さぁ。多分、お父さんが仕切って、お坊さん呼んだりするのかな」

「おじいちゃんの新盆はどうだったか、覚えてないの?」

「うーん。覚えててもいいはずなんだけど」

 壮真と違い、私は祖父のことを覚えている。月に一度くらいの頻度で会っていた。小学校に上がってからは、私一人で、夏休みに祖父母の家に泊ったこともある。

十三年前、祖父が死んだ頃、真綾の発達が遅れていることが明らかになり、祖母は私たち姉弟に言及するようになった。真琴は真綾の面倒を見ないと。真綾はかわいそう。真綾と学校でいつも一緒になる壮真もかわいそう。祖母も、実の母親に何も言わないでいる父も、どう話せばいいのかわからない。私が帰省を控えていた時期に、祖母が老衰で死んだと聞いたとき、安心した。数時間後、逃げられた悔しさでいっぱいになった。

「そう言や、新盆だから帰ってきたわけじゃないよね?」

「いや、今日明日のためだけど」

 両親と妹が県内で一泊二日の旅行に行くにあたって、留守番を頼まれた。中学生の壮真を一人で残すのは、何かあったときに不安だと。ちょうどいいと思った。どうにかして終わりするため、新しい包丁を買った。

「まぁでも、新盆のため、おばあちゃんのために帰ってきたよっつったら、喜ぶかもね。おばあちゃんのお葬式に行かないってお母さんに電話で言ったら、お父さんからメールがきたよ」

「新盆の集まりもさ、二人で留守番してたらいいんじゃない? っつって」

 壮真は笑う。冗談を言うときと同じくらい軽やかで、すっかり声変わりした地声よりも、若干高い声だった。その声の響きと同じくらい、壮真は遠くに行ってしまうだろう。勉強が多少できるだけの受動的な私が、ここに留まることしかできないのとは対照的に。

 やっぱり今日は考えすぎる。こんな悩んでいて、本当に包丁で刺せるんだろうか。包丁で、人を。、別に包丁にこだわる必要はないけれど、とにかく、何か殺傷能力があるものを、自分でも親でも、どっちだっていいから。 

「おばあちゃんが死ぬ前さ、何か言ってた?」

 聞きたくないことを聞くことになるだろう。唐突な質問に感じたのか、壮真が意外そうな顔をしたので、付け加える。

「私、おばあちゃんが嫌だったんだよね」

考えすぎる自分を、無理矢理越えようと思ったのかもしれない。普段なら、言わない言葉を言った。言いながら。言わない言葉を言っている自分を、はっきりと感じていた。

「俺も、あの人は嫌だったよ。嫌っていうか、苦手というか」

 壮真の言葉には、不謹慎ではない程度の笑い声が混ざっていた。一瞬、頭が真っ白になる。あれ、雑談をしていたんだっけ。アニメや志望校の話をしていたんだっけ。違う。

「これ、言っちゃ駄目かもしれないんだけど」

「言っていいよ」

「真琴、むかついて大暴れしちゃうかも」

「こんなにおしとやかで優しいお姉様が、そんなことするわけないじゃない」

 何気ない会話だが、内心動揺しているのがわかる。感情が関与しないところで、言葉が生まれ、自動的に発しているようだ。夜風という表現が相応しいのか、夕方と夜の間の風が、ゆっくり頬を撫でる。

「なんか、真琴のためにも、壮真はいい学校に行かないとねって言ってたよ。最初意味わかんなくて、なんか、よくよく聞いたら」

「よくよく聞いたら?」

「うーん、やっぱり言いたくない」

「いいじゃん、私と壮真の仲じゃん」

「姉と弟だろ」

「まぁ、そうだね」

 壮真は私から目を逸らし、前を向く。

「なんか、真琴は仕方なく県外の大学に行ったから、きっとこっちで就職して、真綾と一緒に暮らしてくれるだろうから、壮真は真琴に感謝しなきゃいけないよって。何から言えばいいかわからないし、面倒で何も言えなかった」

 そうしたことは以前にも言われていたから、あまりショックじゃないが、どう答えるべきか、考えがまとまらない。無言でいたら、壮真が心配そうに顔を覗き込んできた。

「あー、あれだね、とりあえず墓石殴りに行こう」

 反射的に口をついたのは、本心だった。

「最高かよ」

「これ、ちなみにお母さんとか知ってるの?」

 壮真が考え込んでから、ようやく口を開く。

「お母さんはどうかわかんないけど」

 壮真の表情と言葉の間合いで、すぐにわかる。父は知っているのだろう。

「まぁ、そんなことだろうと思ったよ」

「目の前でそういう話をされて、何も言わないならまだわかるよ。どうかと思うけど。でも、役場にするのかなとか話合わせててさぁ、マジで何なんかな」

「まぁ、でも、悪気はないんだろうから」

「じゃあ、役場に就職するの?」

「しないけど、でも、どう言っていいかわかんないし、適当に流すよ」

 そう言えば、教職免許を取らないと話したときも、父はひどく驚いていた。その後母から、父が落ち込んでいたと聞いた。

 大きく長く息を吐きながら、壮真が伸びをする。私が壮真だったら、何でもできたのかもしれない。父を殴ることも、亡き祖母を味方につけて、堂々と進学や就職で一人暮らしもできる。でも、どうなのだろう。それは、本当なのか。

「俺、やっぱりあの人たち苦手だなぁ」

 壮真がこう言うのは、初めてではない。そのたびに、時に仕方ないよと言い、時に無理矢理話題を変えた。でも今は、そのどちらもできなかった。心臓が痛かった。向かい風が口に入ってくるから、辛うじて息が吸えている気がした。大学近くの風よりも、湿った風。

「私も嫌だよ、私の家族。多分だけど」

 私の言葉に、壮真が目を円くし、立ち止まった。

 真綾に障害がなかったら、他の子と同じように振る舞って、他の子と同じように言葉で考えを主張してくれたら、こんな思いはしなかっただろうと思ったこともある。でも、父が今と違う父で、祖母が今と違う祖母だったら、多分どうにかなっていたんじゃないか。母も嫌えれば楽なのかもしれないけれど、父や祖母に隠れて泣いているのを何度も見たことがあるから、どうしても嫌えない。でも本当は、私が今と違う私だったらよかった。私が変わればよかった。家族が大好きで、家族のことなら何でも受け止められる私。そうなれないし、これからもなれそうにない。

 壮真が、おかしそうに笑う。

「え、真琴もそんなこと言うんだ。反抗期? お揃いじゃん」

壮真の笑い声を聞くと安心する。壮真がいてよかった。

「そうかも」

「ていうか、多分って何」

「多分は多分だよ」

 これが本心なのか自信がないと言ったら、壮真はもっと笑うだろう。本心をずっと言わないでいたから、慣れていない。慣れなくてはならないと思う。

「でも、割と本気で、役場か県庁か受けて、こっちに戻ってくるって思い込んでるっぽかったから、お母さん経由でも何でも、どうにかして言っておいたほうがいい気がする」

「マジか」

 今ならもう、何でもできる気がした。

「電話しちゃおうかな」

「今?」

「うん」

 あんなに遠いと思っていたコンビニが、もうすぐそこになっていた。暖色に光る入口の頭上を、ひらひら飛んでいるのは蛾だろう。黒い物体が、光の中でくるくるくると、止まることなく舞い続けている。

「直接向かい合って言うより楽かなって」

 駐車場の隅で立ち止まり、ポケットからスマートフォンを出す。コンビニの店内面積の倍はゆうにある広さの駐車場なのに、自動車は一台も止まっていない。国道も自動車が途絶え、静かだ。

「先に行ってていいよ」

 店内に入る壮真を見送ってから、電話帳のページを開く。母に電話しよう。就職のこと、帰ってきてからちょっと話を聞いてほしいんだと短く言って、ついでに真綾の様子も訊いて、すぐに切る。大丈夫だろう。

 呼び出し音が長すぎる。そう長い距離を歩いてはいないのに、ふくらはぎだけが鼓動に合わせて上下しているように感じる。逃げたいのだ。ここから、走って。逃げることだけは上手くなった。今まですっと逃げていた。逃げている間、態勢を整えていたのならいいけれど。

 母は電話に出ない。仕方ない。夕食の時間と被っていたかもしれない。切とうかと思ったとき、声が聞こえた。

「はい」

 母の声じゃない。低い。父だ。どうして。

 父が、こちらの動揺を察したように言う。

「お母さんとまあちゃんは、風呂に行ってるんだけど、どうした」

「あっ、あの、別に、大したことじゃないんだけど」

 思わずしゃがみ込んでいた。スマートフォンを握る右手に、力を込める。

「かけ直すように言おうか」

 このままだと切られてしまう。どうしよう。なんと言おう。慌てる自分を自覚しているのに、冷静な部分では、壮真と父の声は似ているのだと考えている。

「あ、あのさ、お父さん」

 逃げたい。でも、どこにも逃げられない。本当は最初からわかっていた。

「話したいことがあるんだよ」

「お母さんに伝言か?」

「お母さんにも、お父さんにも、真綾にも」

 深呼吸しようととしたが、うまく吸えない。

「はっきり言わなかった私も悪かったけど、公務員試験を受けるつもりはなくて」

 息が苦しい。苦しいけれど、もしかしたら、息を吐ききったら吸えるんじゃないか。

「真綾のことを見ていて、やっぱり、その、福祉の方面に行きたくて、知的障害者の就労支援をしてる法人の内定出たから、県外だけど、県外しか駄目で、だから、将来のことはわかんないけど、とりあえず当面はそっちで働こうと思ってます。あーでも!」

 喋るのを止めたら、何を言われるかわからない。恐怖で、もう訳もわからず、言葉を詰め込む。心臓が焼けるように痛い。

「でも、どうでもいいことも聞いてほしいし、でも将来のことも真面目に話したいし、話してほしいし、話せたらどうにかなるんじゃないかって思うから、死ななくても殺さなくても済むんじゃないかって思ってるから」

 思いっきり息を吸う。冷たい空気に、肺が震える。呼吸を整えながらスマートフォンを見ると、通話が切れていた。いつから切れていたのだろう。私が間違えて切ってしまったのかもしれない。すると、着信音が響く。母の名前が表示されているが、おそらく父がかけ直してきたのだろう。母の名前を見つめながら、次の行動を考える時間を稼ぐよう、ゆっくり立ち上がる。画面を見ないように視線を上げて、電源を切る。白い月が見えた。もう夜だ。

 スマートフォンをポケットにしまい、壮真の待つ明るい店内へと、足を踏み入れる。

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