第4話 消えた両腕
黒い男はぎゃあぎゃあと叫び暴れた。
右腕への恐怖なのか呼吸のできない苦しさなのか、涙と涎を流したまま数分経つと、くたりと脱力し静かになった。
すると右腕もぬるりと闇に溶けるように消え去って、そこには茉莉と黒い男だけが残された。
しいん、と急に訪れた静けさに茉莉はぽかんと口を開いてしまう。
「……え?」
何、と茉莉はぱちぱちと瞬きを繰り返したけれど、そこにはもう何もいない。
右腕も左腕も無くなっている。いるのは動かなくなった黒い男だけだ。
茉莉は何が何だか分からなくなり、黒い男と並ぶように倒れた。
目を覚ましたのは病院だった。
両親が顔をぐしゃぐしゃにしていて、よかったよかったと声を上げて泣いている。
「……私どうしたの……?」
「川べりに倒れてたのよ。ああ、怖かったでしょう」
「怖かった……」
何があったっけ、と茉莉は痛む額を抑えた。
目を泳がせていると、母が左手で、父が右手で頭と頬を撫でてくれた。
右腕と左腕だ
「きゃああああ!!」
茉莉は両親の手を振り払った。
目の前でおこった出来事を思い出し、わああ、と茉莉は震えて泣き出した。
外にいた医師と看護師が驚いて駆け込んでくる。何かを注射しようとしていたけれど、茉莉があまりに暴れるのでそれもできない。
「茉莉!大丈夫よ、もう大丈夫だからね!」
「わあああ!!」
ぎゅうっと母が抱きしめてくれて、父は優のせいで、と歯ぎしりをしている。
大丈夫大丈夫、と母が抱きしめてくれる腕にすら恐怖を感じていた。
茉莉が退院したのはそれから三カ月後だった。
一人になると恐怖で泣き叫び、ベッドの下に何かいて襲ってくるかもしれないと思い眠る事もできない。なかなか精神状態が安定せず、母は付きっきりで看病してくれた。
まだ睡眠導入剤が無いと眠れないけれど、それでも日中は落ち着いて過ごせるようになった。けれど人の腕が多く目に入る大学へ行く事はできず、ただぼんやりと家で過ごしている。
「世田谷区で殺害された本庄優さんを襲ったとみられる男が逮捕されました」
ニュースの音に茉莉はぐるりと画面に飛びついた。容疑者として伝えられたのはあの時茉莉と共に恐怖を味わった黒い男だった。
黒い男の名は真野一也。
優の探偵事務所で働いていたが、なにか揉めて激しく争った末に優を殺害したそうだ。
遺体はバラバラにしてあちこちに捨てたり埋めたりしたそうで、あの左腕が最後だったのだ。
「真野一也被告は『右腕に殺される』などと供述しており、事情聴取が進められています」
きっと誰もそんな言い分は信じないだろう。
父はこのニュースになると不機嫌そうにチャンネルを変え、母は心配そうに茉莉を抱きしめる。
両親は茉莉が真野一也に襲われたと思っているようで、警察もそう思っているそうだ。何しろ真野一也本人がそう言っているらしい。
茉莉は何が現実だったのかが分からなくなっていた。
それから一年が経った。茉莉はなんとか日常に戻る事ができ、大学にも復学した。
あの時の事は夢だったのかと思う時もあるが、それでも現実だと思い知らされるのは左手首に残された骨折の跡だ。
赤い男に捕まれていた左手首は骨折していた。当時は手形までもが残っていて、それが消えるまで茉莉の身に刻まれた恐怖は消えなかった。
(夢じゃない。夢じゃないからお兄ちゃんの両腕は見つからないんだ)
真野一也は両腕の在処を問われると発狂し、何度もそれを繰り返すうちに正常な意識を保てなくなっていったそうだ。
茉莉よりも恐怖は深かったようで、茉莉は話を聞いてやりたい気持ちにさえなった。
それくらい茉莉にとって兄はどうでもいい存在で、赤い男は恐ろしかった。
あの右腕が何だったのかは分からない。
左腕が何処に行ったのかも分からない。
残ったのは赤い男の存在証明となる骨折跡だけだ。
「右腕の男、か……」
茉莉は二度と優の墓参りには行かなかった。
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