モーセの陰謀

星都ハナス

第1話 姦淫を犯してはならない!

───信仰がなければ神を十分に喜ばせる事はできません!


 孝之たかゆきはパソコンに打ち込んだ言葉を見て、ため息をついた。使徒パウロのこの聖句を主題に選んだのはいいが、明日の午前中の講演までに準備しなくてはいけない。冒頭部分は決まった。あとはどの聖書の記述を用いようか決めかねていた。


「あなた、まだ起きてらしたの。悪いけど先にベッドに……」


 君子が書斎に入って来た。シャワーを浴びたあとはさらに魅力的だ。孝之は君子を膝に乗せ、白いバスローブからのぞく胸元に手を入れる。


「……あとでね。君子のおかげでいい事を思い出したよ」


 男は女に弱い。五十を過ぎた牧師であろうがなかろうが、自分の欲望に忠実だといっていいだろう。まして性に自由奔放な社会では自制しないと不道徳に陥りやすい。毎週教会に通う若者たちは大丈夫だろうか? たった一度の過ちが神との清い関係を断ち、信仰の道から逸れてしまうのだ。


───古代イスラエル国民のように。


 孝之は、姦淫を犯さないように警告しようと決め、聖書の民数記25章を開く。彼らはモーセによってエジプトから救出されたにもかかわらず、荒野での生活に不満を持ち、異国の女の誘惑に惑わされた。乳と蜜の流れる約束の地を目前にしながら信仰の欠如ゆえに二万四千人が神罰で倒れた。立っていると思う者は倒れないように、神との関係を清いものとしなければならない。


 孝之は記述を読み、黙想しあらすじをまとめる。君子が机の上に置いていったワインを一口飲むと強い眠気に襲われた。




☆☆☆☆☆孝之 俺視点 ☆☆☆☆☆


「恐れながら申し上げます。民の不満が貴方様に向かっております。一日も早く計画を実行に移すのが良いかと存じます」


「……分かっている、ピネハス。明日ミディアン人コズビとシメオン族のジムリを私の天幕に連れて来て欲しい。二人に計画を話すつもり、だ、誰かいるのか!

ピネハス、天幕の入り口の方で音がした。見て来ておくれ」


「はい、主よ! 確認して参ります」



───ここは何処だ! 俺は夢を見ているのか? まっ、眩しい。


 リアルな夢だ。バスローブ一枚羽織った俺は裸足だ。足が冷たい。いきなり灯りで顔を照らされ目が開かない。


「怪しいやつ、お前は誰だ? まさかカナン人のスパイか?」


「カナン人って何? 俺は日本人だ。日本語で話しているお前も日本人だろ?

変な夢だ。おい、それより熱いんだよ! ランプをどかせ」


 男は大人しくランプを足元に置いた。やれば出来るじゃないか。


「ピネハス、異変はなかったか、ピネハス」


「はい、主よ。ただ怪しい恰好をした男を一人捕らえました。私たちの話を聞いていたやもしれず、この場で討ちましょうか? モーセさま、ご判断を」


 モーセとピネハス。モーセとピネハス。眠りに落ちる寸前まで読んでいた民数記。そこに登場していたモーセとピネハスが目の前にいる。


(だいぶ追い込まれていたようだ。夢の中でも講演の準備をしているのか)


「その白い服は? 男よ、名は何と言う?」


夢の中だとしても感激だ。あの有名なモーセに質問されている。


「わっ、私ですか。私は川島孝之と言います。牧師、いや貴方と同じで神から与えられた言葉を民に教え諭す仕事をしています。モーセ、モーセさま、貴方の教えは素晴らしい。十戒は特に素晴らしい。全ての人間があのおきてに従えば、戦争もなくなり平和な世の中になると思うんです!」


 夢の中である。俺は半分ゴマスリ、半分本気で言った。一応俺だって牧師だ。


「おお、兄弟。モーセ様が神から直接受け取った十戒をご存知か! 我らの神だけを崇拝すること、人のものを盗ってはいけない事、父と母を敬う事、殺人をしては、うっ、ケホケホ。何はともあれ兄弟よ、嬉しいぞ」


 ピネハスは俺を抱きしめて言った。俺は知っている。ピネハスが咳払いした理由を知っている。何を隠そう、ピネハスの祖父はモーセの兄アロンである。


 アロンはイスラエルの民に唆されて、金の仔牛を作り、思いっきり偶像崇拝したのだ。さらに言えば、叔父のモーセはエジプトで殺人を犯している。


 しかし、神はモーセを指導者に、アロンを大祭司に任命した。今、祭司であるピネハスに良心があるのなら、咳払いの一つもしたくなるはずだ。


「ありがとうございます。大いなる指導者モーセ様にお会いできて光栄でございます。実は私もピネハス様に憧れてこんな恰好をしております」


 夢の中で殺されるのも目覚めが悪い。祭司服とバスローブが似ているのをいいことに、俺はピネハスの機嫌を取った。


「おお、兄弟! 其方も祭司であったか。今は何処の部族かは問わない。モーセ様に不平不満が集中している。ぜひ力を貸して欲しいのだが」


「…… はい。分かりました。民はマナという食べ物しか与えらない事に不満を持ってましたね。モーセ様が命をかけてエジプトから救出したのに、感謝するどころか文句ばかり言って。で、どうやって反逆する民を大人しくさせるのですか?」


 俺はモーセの返答を待った。柔和な人物で知られているモーセだ。忍耐強く民を扱うだろう。


「タカユキ、いい質問だ。十戒の中の掟をわざと破るように仕掛ける! ミディアン人の女達を用いて姦淫を犯すように誘惑する。掟を破った者は絞首刑だ」


 モーセは顎ひげをゆっくり撫でながら低く笑った。


───姦淫を犯してはならない。


 十戒は戒めではなく、モーセの陰謀の為のアイテムなのか! 夢の中なのに、俺は背中にスーと冷たい汗が流れるのを感じた。


 

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