芸人の男を恵んだ、とある白痴の話
僕はローマ帝国内を巡業する旅芸人だ。この仕事に誇りを持ってるし、僕の練り上げられた芸を楽しんでお金を投げてくれることは、僕の価値を認めてくれているという事だ。ローマ皇帝陛下にだって認められた芸人が、うちの旅団から出たりもした。うちの芸は、ローマ帝国領外にだって通じる。人数が多いから、色んな地方の言葉だって、理解できるしね。
僕は旅が好きだし、旅先の人々も大好きだ。だけど、一カ所だけ腹立たしいところがあった。
それは、イスラエルだ。
毎年、あいつらは春の少し前くらいに祭りをする。その時に興業するんだけれど、その時自称敬虔な、祭司さまだか神官さまだかが、毎回陰口を聞こえよがしに言ってくるのだ。僕は自分の芸に誇りがある。万人受けする自信があるし、万人受けする芸人になりたいから、『陰口』そのものが許せない。
例え、その陰口が、僕の芸に関係の無い、民族的なものだったとしても、僕は許せなかった。
そんな中、僕達は一度だけ、変なイスラエル人に会ったことがある。
ツィポラで長旅の疲れを癒やした後。さあ、いよいよ南下していこう、という時だった。踊り子の一人が足を挫いてしまった。緩やかな傾斜を降りきった所にあったナザレ村に寄った。骨にも筋肉にも異常は無いが、踊り子の足を大切にしない芸団などいない。僕達は少しの間、その村の近くに野宿することにした。どうせこの村には、僕達を収めきれる家なんてないし、そうでなくてもこの時期、連中は浄めだの何だのと、外国人を邪険にする。だから野宿する他なかったのだ。
ある晩、薪を燃やすための油が足りなくなり、村に買いに行くことになった。その時、エルサレムへ続く街道の途中、ハナズオウの樹の下に、白髪の老人と、青年が歌を歌っていた。
何故目についたのかというと、彼等が昼間にも関わらず外にいたことと―――イスラエル人は昼間外に出ないのだ―――、蛙のような顔をしたその子供に、何故か強く興味を持ったからだった。
「んまァ、んむゥ、むぅ!」
「そうそう、上手だね、もう一度初めから。」
「んむ~ぅあ~!」
老人は父親らしいが、どうやら病気らしい。皮膚は所々カビが生えていて、激しく咳き込んでもいた。瞳は白く濁り、大分病状は進んでいるらしい。
「こっちにおいで、休憩しよう。喉が渇いただろう?」
「ンムァ!」
蛙のような男は、まともな言葉を発しておらず、ずっと身体を揺らしていた。水筒から水を零していて、あの零し方では、父親の分はなさそうだ。
「ごく、ごく、ごく……んまぁ?」
「おや、どうした?」
「んむ! んムぁ!」
「おやおや、無くなってしまったみたいだね。まだ喉渇いてるか?」
「んーむ、んーむ。」
「じゃあ、汲みに行こうか。」
よいしょ、と、老人は立ち上がった。奔放に歩き回る蛙顔の男に手を引っ張られ、禄に前に進んでいない。恐らくナザレ村に行きたいんだろう。ここで恩を売っておいて、油をタダで貰っておいても損はしない。僕は心底イスラエル人が嫌いだったし、この父子を見て心が動かされたわけでもない。
一般的に嫌な考え方だったろうが、心底その思いつきが心地よかった。胸がすっとするような、前代未聞の大罪人にぴったりの裁き方を思いついたかのような。とにかく、この『恩を着させる』という当たり前の行為が、天才的で哲学的な発見をしたかのように思えたのだ。
僕は、なるべく大きな足音を立てて、存在感を出して近付いて行ったのだが、蛙顔がマァマァと騒ぎ、土埃を上げてはしゃぐので、老人はてんで気付いていなかった。正直、いつも僕の芸にケチをつけるヤツと同じ民族に、僕が話しかけてやる、なんていうのは、なんだかとても、理不尽な気がした。
僕は、この世に産まれる前、母の胎内に宿る前からと言っても過言ではないほど、芸を磨くことに時間を割いて、芸で客を楽しませることに全てを懸けている。その情熱の好き嫌いはあれど、素晴らしいモノには賞賛が送られて、然るべきだ。勿論、僕だってイスラエル人でもエジプト人でもアッシリア人でも、優れた芸人には賛辞を贈るし、金だって投げる。それは今までもそうだった。自分が金を貰うに足る芸人になるために、他の芸に金を投げるということを理解しろ、と、団長から教わって育ったからだ。
どういう気持ちになると、人は金を投げるのか。
どういう気持ちにさせると、人は金をくれるのか。
どういう気持ちの時に、人は芸を見てくれないのか。
だから僕は、あの神殿で気取って、昼、僕達の芸は非難するくせに、夜になってう踊り子に手を出そうとする、助平で学習しない、そんな怠惰で好色なイスラエル人が、大嫌いだ。そのイスラエル人と目の前の蛙顔と老人は、縁もゆかりもないのかもしれないが、僕にとっては、同じ神を崇めているというだけで、同じ存在だ。
「あの、おじいさん。」
「はいはい、
「おじいさん!」
僕が苛々と声を張り上げると、老人は歩みを止めた。黒から、緑と青と白の、魚の鱗が重なったかのような、瞳が、ぎょろ、ぎょろ、と、動き、僅かに首が揺れる。どうやら動くための涙が足りないらしく、上手く動かないようだ。
「
「んまぁ!」
無作法にも僕を指さしてきた老人に、こめかみが引きつるのを感じながらも、なるべく優しく声をかけた。
「僕がいますよ、おじいさん。」
老人はやっと、僕の事を認識できたらしい。頭を掻くと、頭にくっついていたらしい、カビた皮膚片が落ちるのが見えた。汚い。水拭きくらいしろ。
「いやあ、すまない。目が悪くてね。何か用かな、村人じゃないようだが。」
「僕は旅のものです。宜しければ、一緒に水を汲みに行きませんか? お手伝いしますよ。」
「しかし、君は村の者じゃないだろう。分かるのかね。」
「分かりますよ。どうせ井戸は村の中心でしょ?」
「まあ、確かにそうだが。…そうだね、じゃあ、お言葉に甘えようかな。見ての通り、今日は息子がはしゃいでいてね、井戸で水を汲んでいるうちに、どこかに飛び出しそうなんだ。」
本物の蛙みたいに、井戸に突き落とすか穴に突き落とすかすればいいじゃないか、と、思った。私と老人が喋っている間にも、蛙顔はマァマァ喚いて、ぐるぐると繋いだ手の範囲で走り回る。
大人の男の、腕二本分の半円。そんな小さく狭い空間を、あまりにも蛙顔が楽しそうに走り回っているので、私は心底、この男に嫌悪感を持った。
礼節がない。秩序がない。自制心がない。理性がない。動物と同じだ。ぼくは老若男女全てに芸を楽しませられるけど、動物はそうも行かない。旅団には芸をするための動物がいるにはいるけれど、アレを仲間だと思ったことはない。動物は道具だ。
そして、道具は芸人を彩ることは出来ても、芸人を満足させるような反応を返すことはない。だから、僕は動物を愛でようとは思わない。この、首の上だけ蛙に挿げ替えられた男が、人間らしい身体を持っているというのが、たまらなく悍ましかった。
「ええ、僕が代わりに水を汲みます。でも僕も実は困っているんです。助けてくれますよね?」
「勿論だとも。」
間髪入れずに答えられたので、僕は少し怯んだ。いやいや、見えないから大胆になれるだけだ、と、僕は自分に言い聞かせ、なるべく動揺を悟られないように言った。
「油が欲しいんです。ちょっと野宿をしているんですけれど、足りなくて。分けてください。」
思った通り、老人は顔を歪めた。不快さで、というよりも、純粋に困っているようなのが、また腹立たしい。老人はもう一度頭を掻いた。今度は、黴びた皮膚片は落ちてこなかった。
「それは多分無理だなあ、灯火の油だよね?」
「そうです。ダメなんですか?」
「香油なら、娘のがあるんだけど、灯火の油となると…。」
窮地が転じて幸いとは、まさにこの事。ただ燃やすだけの油と、傷口を洗って消毒したり、女達の装飾品の一部になったりする香油とだったら、香油の方が、都合が良い。値段が、ではなく、僕の旅団はいつも香油が足りないのだ。…今足りないのは、灯火用の油だったけれど。でも、どっちも燃えるし、焚火から良い匂いがしたら、皆喜ぶだろう。
「香油! いいですね、香油も足りないんです! 水汲みをしますから、香油を分けてください。」
「わかった。私の家に来なさい。」
やはり迷いなく、老人は言った。イスラエル人でさえなければ、僕の芸を見せても良いかな、なんてくらいには、感じの良い老人だった。少なくとも、僕を騙して身ぐるみを剥ごうとはしなさそうだ。
だが、その老人の行動が、親切に見えないくらいに、イスラエル人は自分達以外の民族を軽蔑していたのだ。芸を楽しんで貰って、これからさあお代を戴こうという時に、水を差す。商売敵なのだ。
「ん? いいんだよ。」
「僕、何も言ってませんけど。」
「ああ、すまない。君に言ったんじゃないんだ。娘に言ったんだよ。」
…この爺、本当に家族いるんだろうか?
僕は念のため、護身用の短剣が、腰布に隙間に挟まってるのを確認した。
ここですよ、と、言われて辿り着いた家は、なんともまあ見窄らしいもので。否やこの辺りというものは、元々貧しい地域なのだが、その分協力関係が強い。だからこそ貧しいのだろうが、この家はそういう『貧しさ』ではなかった。他の家よりも、中から笑い声こそ聞こえてくるが、逆に言うとそれは隙間が沢山空いていると言うことだ。父親がこんなんで、息子もこんなんじゃあ、家を直す手を借りることも出来ないし、自分で直すことも出来ないのだろう。
「皆ただいま。」
「おかえりなさい! 今日は
首が曲がった
「父さんおかえり―――誰? 後ろの人。」
その次に出てきた男は、家の中なのに杖を持っていた。よく見ると、左脚の輪郭がおかしい。
ああ、そういえば、イスラエル人には二千年近く前から続く風習で、一族で一番権威のある人が、問題児を『購う』という文化があるらしい。だが、この家がそのような権威ある家にはとても思えない。恐らく逆で、この家は権威から色々めんどくさいことを『購わされた』家なのだ。あまり関わるべきじゃなさそうだ。
「お客さんだよ、香油を貰いに来たんだ。」
こっそりとんずらしようと思ったが、更に奥から人が出てくる。一番上の息子だろうか、老人よりも少し背の高い男が、香油壺を抱えて持って来た。ただ、この男はどこも健康のようだった。
「はい、どうぞ。」
いぶかしげに中を見てみると、ちゃんとした香油だった。濁ってもいないし、小さな瓶だが、たっぷりと入っている。しかし、この家の全ての香油なんじゃないだろうか。今帰ったばかりなのに、何故こんなに早く、ぽんと出てくるんだろうか。
「あ! ヒコ兄! それあたしの香油! あげちゃだめ!」
中から、顔と手を包帯でぐるぐる巻きにした女が叫んで、私は咄嗟に壺を後ろに隠した。ヒコにい、と言われた男は、どうどうと女を諫めて、背中を向けさせると、奥に押し込んでいった。
「
ぶつぶつ二人で会話しながら、奥の部屋に入る。少しして、『増えてるー!』という歓声が上がった。それでも、こんなことを言われたら、本当に大丈夫か不安になってくる。
「ああ、そうだ。折角ですから、食事もしていきますか?
…その
香油を持ってきた男が言った。
「『良かったね』って言ってるんですよ。その子が欲しがったので、用意したんです。」
この家は悪霊を使って会話している! やっぱりイスラエル人は皆アタマがおかしいんだ!
私は何も言わず、その家から走り去った。水汲みだの何だの、関わっていられない。取り殺される。
後ろから、悪霊が責めるように、蛙顔のマァマァ言う声が聞こえてくる。まるで送り出すように…。
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