包茎の男が話した、とある盲人の話

 俺ァ、コリントから売られてきた奴隷だった。コリントの連中は議論好きだから、なんぞか難しい先生の弟子になるための旅費かなにかの為に売られたんじゃねえの、知らんけど。覚えてないし。

 別にそれそのものは、大した話じゃない。旦那さまはユダヤ人だったけど、だからといってユダヤ人になることを強要することはなかった。外国人奴隷なんて特に珍しいものでもないんだけど、大体の奴隷達は、旦那さまに恥をかかせないように、買われたら手術を受けた。いや、俺が鈍感だっただけで、本当は、旦那さまは、皆に手術を受けさせたかったのかもしれない。

 でも俺は、自分があんまり美しくないことを知ってたから、唯一『美しい』とギリシャで称されたところを、わざわざ傷付ける気になれなかった。帰れもしない故郷、知識でしか知らない、貴族達の『美しい者を傍に置く』という概念。それらの幻想を捨てたくなかったんだ。

 要するに、俺だけが、ユダヤ社会の中に溶け込む努力―――『割礼』をしなかったんだ。

 虐められたかって? そんなことないさ。奴隷の中には、一発逆転を狙うヤツだっている。そういう連中は、自分磨きや売り込みに忙しくて、俺みたいな包茎のまんまのヤツのことなんかほっといてる。奴隷の仲間も、余計な波風を立てて、自分達まで鞭打たれたくない。

 ただ、まあ、俺が包茎であるせいで、旦那さまが恥をかいた何てことがあったなら、そりゃもう、酷いもんだったよ。他の旦那さまがどうなのかは知らねえけど、奴隷が服を着てるなんて、主の財力を示すためであって、罰があれば真っ先に失うものだ。それこそ十字架刑のようにね。


 あの日はツィポラでちょっとした宴会があったんだ。所詮外国人の俺にはよく分からないけど、お偉いさんが沢山の奴隷を連れてきていて、どんなに綺麗な奴隷を持ってるかっていう話になったらしくて、婢たちの陵辱を始めた。また始まったよ、と、俺ァ心底下らなくて、こっそり宴会を抜けようとした。こういう時に混ざって、出世する奴隷もいるけど、俺ァ関心なかったからね。それに、大してカワイイ顔立ちもしてないから、自分が呼びかけられることもなかった。

 だから、そう。

 アカイアに縁があるというヤツが、コリント人は懐かしいとか抜かさなければ、奴隷をユダヤ人にしていないという不名誉を理由に、旦那さまが罵られることもなかったし―――。

 理不尽に裸にされて、追い出されることもなかった。しかも、割礼を受けたくなるまで帰ってくるなときたもんだ。

 俺がどこの旦那さまのものか、なんていうことに、ツィポラの連中は興味を持たなかったけど、顔立ちで俺が外国人だと分かると、クスクス笑った。俺が股間を隠しているだけで、俺が割礼を受けていない身だと、何故か分かるらしい。連中、そんなに傷のついたちんこが誇らしいんだろうか。俺には理解できない。

「だんなさま。」

 誰かがそう言ったので、俺は思わず周囲を見渡した。だが、俺を叩き出した旦那さまはいなかった。

「この哀れな乞食にお恵みをください。」

「?」

「だんなさまじゃなくて、おくさまかしら。おらにお恵みください。」

 ください、ください、と、地面をばしばし叩く音がして、視線を落とした。

 瞳が灰色で、肌もユダヤ人としては白い。貧民くさいけれど、服もどこも破けていない。捨てられたばかりにしては、年を取り過ぎている気もする。だが、物乞いも下手くそなので、多分最近、見限られたんだろう。

 興味が湧いた。つい最近まで、家で面倒を見てもらっていたらしいこの乞食と、つい数刻前まで、奴隷なりに着るものを持っていた俺。なんとなく、本当になんとなく、俺はその場に脚を広げ、目線の高さを合わせた。乞食は気配を感じ取っているらしく、高々と上げていた手を下ろし、地面をぺたぺた触りながら、俺の顔の高さより少し屈んだ。丁度俺の股間の辺りに顔が来た事に気付いたのか、眉を一瞬顰める。少し考えてから、乞食は顔を地面に伏せ、手の甲も地面につけて、屈指のお願い姿勢になった。なるほど、考えたな。

「お願いします、おらにお恵みください。」

「お前、俺が金持ちに見えるの?」

 そう問いかけると、ぴくりと乞食は震えて、少しだけ顔を地面から上げた。

「旦那さまが、とても慈悲深いことだけ分かります。おらにお恵みください。」

「へー、じゃあ、俺を気分良くさせてくれたら、イイモノやるよ。」

「気分良く…? ええと、お褒めすれば良いですか?」

「…ぷっ、いいね、そんなんでもいいよ。ちょっと話そうぜ。お前、名前は?」

 乞食は答えた。

そそぐ、です。」

 面白いか面白くないかで言ったら、大方、大多数の人間が『面白くない』と答えると思う。

 話の内容は平凡を通り越して粗雑だ。しかし興味を覚えるほど壮絶でもなく、羨むほど恵まれて育った過去があるわけでもない。おまけに俺みたいな奴隷が知ってるような冗句を言っても、きょとんとしていて、こっちが恥ずかしくなってくる。産まれた時から目が見えないからか、女の好みなんてのも盛り上がらない。気配こそ感じ取るようだが、それだけで、気配から自分が何をどう言えばいいのか、そういうことは何もできなかった。乞食らしい貪欲さも乱暴さも、盲人らしいおどおどした面白さも何もない。

 ただその時心地よかったのは、そそぐが俺の今の恰好を全く理解していなくて、俺が股を開いてしゃがんでも座っても、何も言わないことだった。まさか包茎が原因で身包み引っぺがされた、なんてことは、流石の奴隷でも恥ずかしい。元々俺が包茎を恥ずかしいと思っていなかっただけに、余計にそうだ。

「なあ、そそぐ。お前、目も見えねえし、話も上手くない。乞食に向いてないよ。」

 俺ァそう言って、暗に、『家に帰れ』と言った。そそぐはでも、その真意は汲み取ったようだ。余程家族に愛されて育ち、家族思いのヤツだったんだろう。

「ありがとう。でも、おら、実家の役に立ちたいんだ。だから乞食は止められない。」

「按摩にでもなりゃいいじゃんか。それか、楽器とかは弾けないのか?」

「あはは、そんな裕福な家じゃないよ。おらが出来るのは、料理だけだよ。」

「じゃあ、うちの飯炊きになるか? 旦那さまにお前を紹介してやるよ。」

 ―――俺が、そそぐを一番に覚えているのは、この後の答えが原因だ。

「ありがとう。でもいらない。おらがその旦那さまの所に行ったら、おら、この場所に戻ってこられなくなっちゃうから。」

 変な乞食だな、と思った。

 金をせびってくるのに、生活に困ってるのに、食うに困ってるのに、その面倒を見てやる、というと、拒否するんだから。

「ここの仲間が好きなのか?」

「うん、それもあるよ。」

「なら、休みの日に俺が連れてきてやるよ。一緒に奴隷やろうぜ。」

 今にして思うと、最悪な誘い文句だ。しかし、そそぐは首を振った。

「おら、もう、主人がいるんだ。」

「へえ? じゃあ、俺と同じか? 何かポカしでかして、罰則中?」

「ううん、おら、自分で乞食になったんだ。おらの唯一の職だ。」

「職…? 乞食が?」

「そう。」

 そう言って、そそぐは何も入っていない鉢を手繰り寄せ、見せた。その傾きは微妙に中が見にくい角度だったが、俺には見るまでもなく、何も入っていないことが分かる。

「おら、ここで乞食をして、その収入で家族を支えてるんだ。」

 俺はぎょっとして、そそぐは家族に捨てられた心の傷で頭がおかしくなったんだと思った。俺がたじろいでいると、そそぐはにこにこ笑いながら、とても幸せそうに言ったんだ。

「乞食は、おらに与えられた唯一の職業なんだ。おらがここでお金を拾ったり、貰ったりしたら、おらが置いてきた家族は税が払える。父ちゃんに凝乳チーズだって食べさせてあげられるんだ。」

 酷く腹が立った。俺は立ち上がり、叩きつけるように叫んだ。

「乞食は、職業なんかじゃない!!!」

 そそぐは驚いて、びくりと震え上がった。俺は怒りで呼吸を荒くしながら、畳みかけた。

「乞食なんて奴隷以下だ。家畜以下だ。その辺でションベン垂れてる犬と同じだ! 必要とされるどころか邪魔でしかない! 路傍の石も同じだ! お前は自分が捨てられたことを受け入れたくなくてそんなことを言っているだけだ! 誰が好き好んで家族を乞食にするもんか! 奴隷だって服を着る、主人の沽券に関わるからな! でも乞食は服が破れたらそれきりだ! 裸にされるのなんて、尊厳を奪われるのと一緒だ。それを大勢に見られるなら、死んだ方がマシだ。奴隷より惨めな人間なんているもんか!」

「居るよ!!!」

 俺が怒鳴りつけた時と同じように、そそぐは叫んだ。地面を確認しながらゆっくりと立ち上がる。真っ白で、黒目がない瞳は、それでも俺を確実に睨み付けていた。

「おらだって、同じ売られるンだったら本家じゃなくて奴隷が良かった! おらだって、働きたかった! でもダメなんだ、目が見えないから。おらは家で十人分の食事を朝昼晩作ってたけど、そんなの誰も信じやしない。おらが料理できることなんて、みんな信じやしない。おらは目が見えないからだ! 治して貰えなかった! おらに奇跡は起きなかった!」

「奇跡? ああ、イスラエル人達が口を揃えて言ってる、約束の救い主ってヤツか? あんなもん、贅沢もんの与太話だ! 人は死ぬ、死からは逃れられない、それは絶対だ。金と身分を手放したくない奴らの世迷い言だ! そして身分からも逃れられないんだよ! だから乞食なんかなっちゃいけなかったのに! 一度ドブに落ちた瓶は、下水すら入れて貰えないんだよ!」

 そそぐは睨み付けたまま、黙っている。ぶるぶる震えて、

「…俺と行こうよ、そそぐ。本当に料理が出来るんだったら、尚のこと乞食なんかするもんじゃない。」

「ダメって言ってる! おら、ここでお金集めるんだ! ここがおらの職場なんだ!」

「じゃあもう勝手にしろ!」

 俺はそそぐを突き飛ばし、羽織っていた継ぎ接ぎだらけの、短くなった上着を剥ぎ取って、腰に巻いて股間を隠した。そそぐは決して泣かなかったし、らないで、とも言わなかった。ただ、一言、突き刺すように叫んだ。

「上着代ちょうだい!」

「奴隷が金なんか持ってる訳ねーだろ、この世間知らず!」

 そそぐがそう叫んだのは、全く正当な理由だった。全く道理に適っていた。でも俺は無視した。とても腹が立っていたから。

 奴隷以下の扱いを受ける存在を、俺は認めたくなかった。いつだって、俺が一番大変で、俺が一番惨めなのがよかった。同情してくれるからとか、そういうことじゃない。自分が情けをかける側になりたくなかったのだ。

 だって惜しいじゃないか。

 給料なんてない。食わせて貰って、着せて貰ってることが給料だ。そんな俺よりも、物乞いをして恵んで貰う立場であるそそぐが、『稼いでいる』と言わんばかりのその態度が、酷く腹が立ったのだ。


 その後、俺は何とか包茎のままでいることを許され、罰則も十分ということで、腰布を与えられた。そそぐは何度か見かけたが、ある日を境にぱったり居なくなったので、あっさりくたばったのだろう。

 馬鹿なヤツ。素直に奴隷になっておけば良かったのに。

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