ある村の話~神の愛した男外伝
PAULA0125
年老いた寡が見た、とある家族の話
あたしは、割と遅くに夫を亡くしてねえ。
三十も年の離れた夫婦っていうのは、ちょっと稀だった。普通は、男は三十くらいで嫁を取る。女は初潮が来たら、嫁ぐものだからね。あたしは生まれてくるのが遅くて、夫を待たせてしまったのさ。
だけど、若い嫁だったからね、周囲はあたしが、沢山子供を産んでくれるものと期待していたよ。あたしも末っ子だったし、兄さん達にはよくしてもらったから、子供は沢山欲しかったのさ。毎晩毎晩、お勤めしたもんだよ。夫もあたしのことは大切にしてくれてね。身体は痛くないかとか、月の穢れが来ても、子供はきっと次に出来るからとか、言葉も態度も、家の中では優しかった。
でも結局、授からなくてねえ。夫は死ぬ間際、
「こんなじじいと結婚したばかりに、お前に女として最大の恥を味わわせてしまった。許してくれ。お前は本当に、良い妻だったのに。」
そんなようなことを、断片的に何度も繰り返して、泣きながら死んでいったよ。泣女も雇えないような貧乏暮らしでも、夫が大家族のために建ててくれた家は、それはそれは寂しくてねえ。
葬式を終えた後に、清めの瓶に写ったあたしの顔は、自分で思っている以上に、醜かったよ。老いさらばえたもんさ。子供の一人も産んじゃいないのに、身体は年老いてボロボロ。両親なんてとっくに死んじまってるし、兄さんたちにも家庭がある。何だったら三番目の兄さんくらいまでは、もう死んでたよ。
夫の後を追うように、何も食べずに朽ち果てようかとも思ったんだけど、そうすると無意識のうちに、泥を食べたり、川の水を飲んだりして、病気になったりしてね。仕方ないから、自分で稼ぐことにしたのさ。と言っても、こんなばばあの娼婦なんて、それこそエルサレムみたいな都会に行かないと買って貰えない。ナザレ村で乞食をするしかなかったよ。養ってくれる子供が居なかったからね。
かといって、乞食稼業が捗るツィポラまで歩くには、もう膝が悪くなっていた。石女だと罵られている間は、あたし達は、あたし達が神に祝福されてないなんて思ってなかった。いつか授かる、いつか授かるって、本当に信じてたのさ。
でも夫が寝たきりになって、あたしも年取ったから、あの大王の側女のように、床で身体を温めてやることも出来なくてねえ。夫は寒い寒いとも言いながら、凍えるように死んじまったんだよ。その時漸く分かったんだ。
ああ、あたし達は神に祝福されていなかったんだ。とうとう子どもを授かれなかった。石女なんか娶っちまって、しかもそれに下手に情けをかけたもんだから、ついぞ一族の誰からも、泣女一人、呼ぶ金を貰えなかったのさ。墓なんて貸してもくれなかった。葬式だって、形だけ。
主人を失った家は、わかっていたのかねえ、神の祝福を授けなかったあたしだけが残った家は、ある時突然、崩れちまってね。あの時、あの子にすんでの所で引き留めて貰えなかったら、あたしゃ自分の家の扉じゃなくて、地獄の扉を開くところだったんだよ。
でもいっその事、一思いに死ねたら、どんなに良かったことか。そうやって、あたしはその時から、病人のように布を体中に巻いて、外で寝起きする、最底辺の乞食になるしかなかったのさ。
「おばあちゃん、ボクの家で、ごはん食べてかない? 今日は冷えるよ。今夜もし野宿して、お腹がすいてたら凍えちゃう。」
「ありがとう、ヒコちゃん。でもおばあちゃんは―――。」
断ろうとした時、ぐるるぅ、と、久しく鳴ってなかった筈のお腹が鳴ったのさ。年甲斐もなく、顔が熱くなったよ。
ばばあになって、寡婦になって、子どもを産めなくて、この上もなく恥ずかしい身の上だって言うのに、こんな若い村の子にお腹の音を聞かれるのが、あんなに恥ずかしいなんてねえ。
「決まりだね!
「いや、でもヒコちゃん、たしか
「良くない! だってお腹空いてるんでしょ? ごはん食べなきゃ死んじゃうよ。」
「死んだって良いよ、こんな年寄り。」
「良くない! だってお腹空いてるんだもん!」
そう言って、ヒコちゃんは、強引にあたしを家に連れて行ったのさ。冷えたばばあの指先を包んでいた掌が少し湿っていたのは、汗じゃなかったと思うよ。
―――ヒコちゃんのことだから、またどこかで、泣いていたのかねえ。
「皆ただいまー! 今日の夕飯は、お客さんが来るよ!」
ばったんと扉を開けたら、ヒコちゃんの家族が勢揃いしていたよ。ヒコちゃんは、何かお使いに行っていたのかしら。でも何も持っていないけどねえ。
「おや、おかえり、
「怪我はないよ! お客さんも無事!」
ほら、と、ヒコちゃんはあたしを家族の前に押し出した。
あたしゃ、
「家が崩れたって言うのは、貴方でしたか。」
「こんばんは、センちゃん。ええ、ええ、ヒコちゃんが間一髪のところで、腕を引いてくれてね。」
センちゃんは美しい髪を指先で弄びながら、しんなりと座っていたよ。まあ、この家の長男なんだから、何もしなくていいさね。いつ見ても思うけれど、日増しにこの子は美しくなっていくよ。その内神は、この子が男の子だということを忘れて、女にしてしまうんじゃないかって、不安になるくらいだ。この日もそうだった。窓から差し込む光が、艶やかに髪に反射して。眼福とはこの事だろうね。
「どうしておうち、壊れたの。」
「こんばんは、
「どうしておうち、壊れたの。」
「どうしてだろうねえ。おばあちゃんにも分からないんだよ」
長女の
「
「ありがとう
すると、
「大丈夫だよ。予め報されてたからね。」
「おや、
「はは、まあ、そうかもね。……よし、良い味。皆、夕飯が――。……? セン兄、キビ兄どこ? 匂いがしないよ。」
「ああ、あいつなら、
すると、ヒコちゃんが叫んだのさ。ダメだ、ってね。
「ごはん食べるんだよ? 皆揃ってなきゃダメ!」
「…ヒコ、お前は良いかもしれないけど、ぼくと父さんは、明日もツィポラで工事があるんだよ。早く食べて寝たいんだ。我儘言わないでくれ。」
「ダメ! ごはんは大事だもん。」
「…はあ、じゃあ、そういうことにしておくよ。お父さん、大丈夫ですか。」
「
「そう。お父さんがいいなら、ぼくも良いよ。…でもヒコ、客人に葡萄酒くらいは出してもいいんじゃないかな。お前、祝福しておやりよ。」
センちゃんがそう言って、
「万物の主、葡萄酒と葡萄とを創造されし、我らの主なる神よ、汝が御名は誉め讃えられよ。――はい、おばあちゃん。」
「アーメン。……ありがとう、ヒコちゃん、皆さん。御言葉に甘えて頂きますね。」
葡萄酒は少し薄かったのを覚えているよ。多分、知ってたと言っても、今日知ったんだろうね。だから、葡萄酒を急遽、水で薄めたんだと思うよ。
でもねえ、やっぱり人から注いでもらう葡萄酒は、おいしいよ。寡としてでも生きていくって思っってから、ずっと一人で飲んでたし、膝が痛くなってからは、料理も最低限にしていたからね。葡萄酒を買うために働く人ももういないから、いつだって酢水で凌いでた。だからそんな薄い葡萄酒が、おいしくておいしくて。喉にも胸にもお腹にも、眼にも染みたよ。お代わりすると流石に、と、おもっていたら、ヒコちゃんがもう、次から次へと、断っても注いでくれるのさ。よっぽどあたしは、美味しそうな顔をして飲んでたんだろうねえ。だっておいしかったもの。
「ただいまー。……あれ?
「ただいま、母ちゃん。今日の井戸はなんか綺麗な水だったよ。…あ!
「んむぁ、ムァ!」
「
「あはは、くすぐったいよ!
「こら
「むーあーあー!」
「センちゃん、いいのよいいのよ、おうちにも見捨てられた老いた寡、誰も律法で守ろうとしないわ。おいで、
「! んむぁ! んむ!」
仕方ないな、と、センちゃんはぶっきらぼうに手を離したけれど、本当は
「じゃあ、揃ったね! パンの祈りをして皆で食べよう! にっちゃ、お祈りして。」
「だからにっちゃじゃなくて、兄ちゃんと呼べと……。まあ、いいか。じゃあ、ぼくが。」
センちゃんが祈るためにパンを掲げると、
「アーメン。――さあ、召し上がれ。」
パンと
あの村に住んでいた、小さな家族。神の前に小さくされて、日陰で踏みつぶされるような、穢れた者達の家。
村の誰も、あの家には近づかない。
でもね、でもね。
あの家はどこよりも穢れに満ちていたから、どんな穢れも気にしないのさ。
あの家に呼ばれることは、この後は無かった。もしこの村にあたしがいたら、ヒコちゃんは毎日のようにあたしを探しに来て、夕飯に招こうとする。
そうは問屋が卸さないよ、いくら大工の長の家でも。お金は無限じゃないし、食べ物も無限じゃない。時間も労力も、女だから、家族だから提供しているに過ぎない。
でもね、でもね。
だからこそ、あの家で食べたあの最後の晩餐は、あたしが嫁いだときの七日間の婚礼の宴よりも、ずーっとずっと、美味しかったよ。
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