#20 君は僕のビーナス

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子供の頃から憧れていたビーナス像。それがオークションにかけられる日、ジェームズが選んだのは、物言わぬ彫像ではなく、エミリーだった。


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 エミリーはオークション会場に集まった面々を見つめていた。そうそうたる顔ぶれだ。チャールズ・バロウズを筆頭に、大富豪ばかりが集まっている。当然だろう。ビーナス像の入札開始価格は百万ドルに決まった。いったいいくらまで跳ねあがるのか、想像もつかない。

 ジェームズも来るだろうと思っていたが、まだ姿は見えなかった。

 エミリーはふと視線をあげ、入り口からフィリップが入ってくるのを見つけた。隣にいるのは若い女性だ。ふたりは人目をはばかることなくいちゃついている。あのパーティで、やり直そうと言ってきたのは、やはり一時の気まぐれだったのだろう。フィリップと結婚しなくて本当によかった。エミリーの胸に湧きあがるのは、安堵の気持ちだけだった。

 その時、ジェームズが入ってきた。エミリーの心臓が勝手にときめいてしまう。ジェームズは会場を見渡すと、エミリーに気づく前に、フィリップたちの姿を目にとめたようだ。目を丸くしたあと、怒りをみなぎらせ、ふたりに近づいていく。そして、ジェームズはフィリップの胸ぐらをつかんだ。

「どういうつもりだ?」

 フィリップは目をぱちくりさせている。「君こそなんだ?」そこで、眉をひそめた。「一週間前のパーティでも会ったな。なんなんだ、人の邪魔ばかりして」

 ジェームズはこぶしを握り締めた。

「やめて!」エミリーは関係者口から大声で叫んだ。ジェームズをにらみ、つかつかと歩いていった。

「ジェームズ、フィリップを離して」

「こいつは性懲りもなく浮気をしているぞ。また許してやるのか?」

「許すも許さないもないわ」

「この男は君の心を弄んでいる。僕は許さない」

「どうしてあなたが? 関係ないでしょ」

「いいや、ある」

「どうして?」

「君が好きだからだ!」

 ジェームズの声は会場中に響き渡った。そして、静寂が広がった。

 誰もが口をつぐみ、こちらを見ている。チャールズ・バロウズでさえ口出しせず、ことのなりゆきを見守っていた。

「あなたにはビーナス像のほうが大事なんでしょう?」エミリーは抑えた声で返し、すっとジェームズの脇を通って、会場の外に出ていった。

 ジェームズはすぐに追いかけてきて、エミリーの腕をしっかりとつかんだ。ジェームズの手から熱が伝わってくる。エミリーは息苦しさにあえいだ。

「もうすぐビーナス像のオークションが始まるわ。こんなことをしていたら、落札できなくなるわよ」

 ジェームズは無言で腕を引くと、エミリーを抱きしめた。大きく包み込まれ、好きだと言われたことで、エミリーの心はぐらぐらと揺れていた。私のことが好きですって? 本当なの? 信じられない、だって……。身をよじって逃げようしたが、ジェームズは離してくれそうもない。

「君のほうが大事だ」頭の上からきっぱりとした声が聞こえた。

「私のことなんてなんとも思っていないって言ったじゃない」言うつもりはなかったのに、声に出てしまった。

 ジェームズは眉をひそめた。「そんなことを言った覚えはない」

「嘘よ。ミス・バーバラのお屋敷で――」エミリーはぱっと口をつぐんだ。

 ジェームズは目を見開いた。「今までバーバラ伯母様の家に? 僕はまたてっきりフィリップとよりを戻したのかと……」

 エミリーはぱっと顔を振り向けて、ジェームズと目を合わせた。「そんなわけないでしょう?」それから、大きく息を吐いた。「一週間前、あなたとミス・バーバラが話すところをこっそり見ていたの。私のことをどう思っているか訊かれたわよね?」

「君のことをなんとも思っていないなどとは言っていない」

「でも、何も答えなかったわ」

「伯母様に向かって言えるもんか」そう言うと、ジェームズはふいと顔をそむけた。

 エミリーはジェームズの顔をまじまじと見つめた。いつもの照れた表情。この顔つきを何度愛おしいと思ったことか。一週間前、バーバラのサロンで、エミリーへの気持ちを尋ねられた時にも、同じ表情をしていたのかもしれない。そう気づいたエミリーの顔に笑みが浮かんだ。

 ジェームズはその笑みを見られたことで、ようやく表情をゆるめた。そして、エミリーの髪に顔をうずめた。

「僕が悪かった。伯母を騙したかったわけじゃない。ビーナス像を守りたかったんだ。だが、君に言い出せなかったのは……」そう言うと、少しだけ体をはなし、次の言葉を待つように軽く開いたエミリーの唇に、優しくキスを重ねた。ジェームズのキスは心からの謝罪と、エミリーへの思いに満ちていた。エミリーの体から力が抜けていく。やがて唇が離れ、ふたりは見つめ合った。

 ジェームズはエミリーの手を取り、ひざまずいた。

「愛している、エミリー。今度こそ、僕の本物の婚約者になってくれ。結婚しよう」そして、ポケットからビロード張りの小さな箱を取り出し、ふたをあけた。現れたのは、見事なサファイアの指輪だ。

 エミリーは目を潤ませて、うなずいた。

 ジェームズがエミリーの薬指に指輪をはめた時、オークション開始のアナウンスが聞こえた。

 エミリーははっとして振り返った。「まだ間に合うわ」

「もういいんだ」

 エミリーは小首をかしげた。

「僕のビーナスは君だから」

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