#16 嘘の代償
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ジェームズはビーナス像のことを言い出せないまま、エミリーを連れて大伯母のパーティに参加する。エミリーはそこではじめてジェームズに婚約者が必要だった理由を知り、裏切られたと思う。
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困ったことになった。ジェームズは、エミリーがアマンダという店員とドレスを選ぶようすを見ながら、考えをめぐらせていた。
自分がこれほどの意気地なしだったとは。昨日、ビーナス像のことを打ち明けようとしたが、エミリーの嬉しそうな顔を見ているうちに言えなくなってしまった。
しかし、よくよく考えてみれば、もう問題はないのではないか? 一週間前に気持ちを打ち明けた時、ジェームズは「この関係を本物にしないか?」と言った。僕たちの関係とはすなわち婚約者だろう? つまり「本物の婚約者にならないか?」と言ったも同然だ。そして、エミリーはそれを受け入れた。ならば、僕と結婚してもいいと思っているということになる。
ジェームズのほうは、ジェラルドとふたりで話した夜から、とうにその決意を固めていた。
本物の婚約者を紹介するのだから、大伯母を騙すことにはあたらない。
急に気持ちが軽くなり、ジェームズは店のソファから立ちあがって、エミリーたちのほうへ歩いていった。ふたりは二着のドレスを見比べて、どちらにしようか迷っている。どちらのドレスも上品で、エミリーによく似合いそうだ。
「両方だ」ジェームズは後ろから声をかけた。
ふたりとも振り返る。
「でも、ジェームズ、そんなことまで――」
ジェームズは片手をあげて、エミリーの言葉を制した。「その台詞はもう聞きたくない。明日とあさって、二日分のドレスが必要だろう?」
エミリーはうなずいた。それから、気を取り直したように笑みを浮べ、アマンダと一緒に、靴やバッグ、アクセサリーを選び始めた。
「ああ、アクセサリーは選ばなくていい」ジェームズは言った。「祖母のものを使ってくれ。かなりの数が屋敷に残っているから、そのドレスに合うものもあるだろう」
ジェームズは子供の頃から一族に溶けこめずにいたが、それでも祖父母と大伯母にはかわいがってもらった。祖母は「いつか、あなたのお嫁さんにあげなさい」と言って、宝石類を
会計が終わったあと、店員のアマンダが言った。「美容院の予約をお取りしますか?」
「いや、大丈夫だ」
エミリーが慌てたように言う。「私、自分ではあんなにきれいにできないわ」
「大丈夫だ」
品物を屋敷まで届けるように言い、女性ふたりの最後のおしゃべりが終わるのを待ってから、ジェームズはエミリーの腰を抱いて、店の外へうながした。歩きながら、話し始めた。
「今回はクララに任せてほしい」
「クララ?」
「ああ、特に明日は社交パーティだからね。クララは祖父の代からあの屋敷にいるんだ。僕も子供の頃から知っている。社交界向きのヘアメイクならお手のものだよ。だからなのか、君の滞在中は〝エミリー様付きのメイド〟にしてくれとクララのほうから言ってきた。彼女がそんなことを言うのは珍しいんだが」
「そうだったの」
「君はメイドなんてつけなくていいと言ったが、それで君とクララの板挟みになった僕の苦悩を想像してみてくれ」
エミリーはくすくすと笑った。「でも、私よりクララの意見を尊重することにしたのね?」
「子供の頃、おやつをねだっていた相手に、強いことは言えないものだよ」
「わかるわ」
「そうそう、仕事中は無口を気取っているが、じつのところ、クララはたいそうなおしゃべりだ。いったんしゃべり出すと止まらないから、気をつけたほうがいい」
「もう遅いわ」
ふたりは顔を見合わせ、揃って笑い出した。新年のニューヨークは、クリスマスに劣らずまばゆくきらめいているが、ジェームズにとって何よりまぶしいのは、エミリーの笑顔だった。
「さ、これでできましたよ。鏡をごらんなさいまし」クララが満足そうに言った。
エミリーは椅子から立ちあがり、壁にはめこまれている姿見の前に行って――息を飲んだ。オークションの夜、美容院で鏡を見た時も、自分ではないみたいだと思ったものだが、今夜はまるで別人だ。淡い水色のドレスに身を包み、クラシックな形に髪を結いあげたエミリーは、十九世紀を舞台にした映画のヒロインのように見える。
「クララ、あなたって、もしかして魔法使い?」
クララはにっこりと笑って、首を振った。「エミリー様に魔法をかけるのは、旦那様でございますよ」
エミリーが顔を赤くした時、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
ドアが開いて、ジェームズの声が聞こえた。「もう入ってもいいか?」
鏡の手前に
「ちょうど支度ができたわ。クララは本当にすごいのね。シンデレラになった気分よ」
「もしガラスの靴を落としても、ちゃんと僕が拾って――」
衝立を回ってきたジェームズがふいに口をつぐんだ。どうしたのかと、エミリーは振り返り、あの熱いまなざしが注がれていることに気づいた。
静かにドアの閉まる音がした。クララが出ていったのだろう。
「今夜の君は格別に美しい」
芝居がかった口調でも、目つきは真剣だった。ジェームズはエミリーの手を取り、甲にキスをした。そのまま離さず、唇で腕をたどってくる。いったん顔をあげ、エミリーの手を引いて、鏡の前に立たせた。そして、もう片方の手に持っていたビロード張りの箱をあけ、ダイヤモンドのチョーカーとイヤリングを取り出した。
「これ……本物?」
「ああ」
「でも、そんな高価なものを――」
「僕のためにつけてくれ」
ジェームズはチョーカーとイヤリングをつけ、鏡を見てうなずいた。「よく似合う」そして、エミリーのうなじにキスをした。右手はドレスの裾をめくり始めている。
エミリーははっとして言った。「ジェームズ、だめよ、ドレスが――」
「しわにならないようにする」
「でも――」
熱いまなざしは、鏡越しでもエミリーの体を溶かすようだった。ジェームズの右手が腿を撫で、左手が胸をまさぐり始める頃、エミリーはもう何も考えられなくなっていた。
離れの部屋で、思わずエミリーに襲いかかってしまったのは失敗だった。きらびやかに着飾った人々で賑わうパーティ会場を歩きながら、ジェームズは内心で自分を罵った。
エミリーはもともと美人だが、先ほどの余韻で肌をほんのり上気させ、瞳を潤ませている今は、いつにも増して美しい。
会場中の男どもの目がエミリーに吸い寄せられていた。ジェームズは片っ端からそれをにらみつけていったが、とうてい間に合わない。
バーバラの姿が目に入った。すでにクロードがそばにいる。クロードは派手な女性を連れていた。
「バーバラ伯母様」ジェームズはバーバラの頬にキスをした。
「ジェームズ、待っていましたよ」
「こちらは僕の婚約者、エミリー・キャッスルです」ジェームズはそう言ってから、エミリーに振り返った。「エミリー、大伯母のバーバラ・ラドリーだ」
「あらあら、きれいなお嬢さんだこと。ジェームズは果報者ね」大伯母が前に進み出る。
「ご高名はかねがねうかがっています」エミリーが言った。
大伯母が眉をあげた。
エミリーは頬を染めた。「私、〈ウィルソン&ラッセル〉社で働いているんです」
「まあ! あたくしもお世話になっていますよ。こんなご縁ができたなら、担当者をあなたにしてもらおうかしら」
エミリーは小首をかしげた。「今の担当は誰ですか?」
「ハロルド・ヘイワースですよ」
「ああ、ハロルドは優秀です。手放したら後悔なさいます」エミリーは屈託のない笑みを見せた。
大金持ちの顧客を自分の担当にすれば会社での評価があがるだろうに、欲のないことを言うのは、いかにもエミリーらしかった。大伯母は目をぱちくりさせたあと、にっこりとほほ笑んだ。「きれいなだけでなく、気立てのいいお嬢さんだこと」
ジェームズは思わず大きくうなずき、それをバーバラに見られて、慌てて顔をそむけた。
クロードはちらりとエミリーのチョーカーを見た。「ずいぶんいいダイヤモンドだな」
「僕がおばあ様から譲り受けたものだ」ジェームズはエミリーをかばうように前に出て、クロードをにらみつけた。
クロードはふんと鼻を鳴らした。「ああ、君がおばあ様に取り入って、せしめたものか」
ジェームズはこぶしを握ったが、その時、バーバラの声が飛んできた。「おやめなさい、クロード。まったく、あなたもケイトにはかわいがってもらったでしょうに」
亡くなった祖母ケイトはバーバラの妹だ。クロードには大金を遺したと聞いている。どの孫もひいきせず、それぞれが喜ぶものを遺してくれたのだ。
クロードは目を伏せた。
「ともかく、これでふたりとも婚約者を連れてきたことになるわね」バーバラが言った。
ジェームズは顔をしかめてクロードを見た。では、この連れの女性が婚約者か。どうせ偽物に決まっている。
「これであたくしもひと安心。でも、こうなると……やっぱり結婚式が見たいわねえ」
クロードがぎょっとして顔をあげた。
バーバラはそんなようすに気づいているのか、いないのか、ひとりうなずきながら話を進めている。「婚約者を連れてきたほうにあたくしのコレクションを譲ると言ったけれども、これは引き分けですからね。ふたりとも結婚なさい。結婚のお祝いに、コレクションの中からまずは希望の品をひとつずつ贈ってあげましょう。早い者勝ちですよ。こちらは老い先が短いんだから、急いでもらわないとねえ。残りのコレクションについてはまたあとで考えるわ」
クロードは青ざめていた。連れの女性は急に鼻息を荒くしたようすで、クロードにしなだれかかっている。
「ジェームズ、あなたがほしいのは、あのビーナス像よね?」バーバラが尋ねた。
ジェームズはうなずいた。
「クロード、あなたは?」
「もちろん、伯母様のコレクションの中で一番高価なものですよ」
「あら、困ったわ。それは同じビーナス像よ」
クロードは先刻承知とばかりにうなずいた。「もし売ったら、家屋敷どころかビルが建つほどの価値があると聞いてます」
ジェームズは目を見開いた。高価だろうと思っていたが、そこまでだとは知らなかった。
何にしても、クロードの婚約者が偽物なのは明らかだ。
僕のエミリーは本物だ。結婚式のことまでは具体的に考えていなかったが、早々に結婚するのも悪くない。エミリーもビーナス像も永遠に僕のものにできれば万々歳だ。
婚約者を連れてきたほうにコレクションを譲る? エミリーは茫然としてジェームズを見あげた。顔が青ざめて行くのがわかった。期間限定の婚約者が必要なのは、伯母様を安心させるためじゃなかったの? 本当の目的はあのビーナス像? 伯母様を騙して、ビーナス像を手に入れるため?
上機嫌のジェームズとは裏腹に、エミリーの気分は沈みこんでいった。そうとわかっていたら、何をどう言われようと、婚約者のふりなんて引き受けなかったのに。
男女の関係になったとはいえ、エミリーは今でも期間限定の婚約者のままだ。だって、そうでしょう? べつにプロポーズされたわけではないもの。まだ契約の期間内だから、婚約者のふりをしているだけだ。
ただ、本物の婚約者ではないにしても、本物の恋人同士になったのだと思っていた。ベッドを共にしたあと、ジェームズもそう言った。あれも嘘だったの? ビーナス像を手に入れるために婚約者のふりをさせて、ついでに私との〝関係〟も楽しむことにしただけ? そうではないと信じたいけれども、でも――
もうこんなところにいたくない。無意識のうちに出口を捜して会場を見渡した時、ミスター・バロウズの姿が目に飛びこんできた。一瞬驚いたけれども、考えてみれば、同じアンティーク蒐集家のバーバラと付き合いがあるのは当然だ。
ミスター・バロウズがエミリーに気づき、目を丸くした。そして、杖をつきながらも、しっかりとした足取りで近づいてきた。
「エミリー、元気にしておったか?」
「おじい様……いえ、ミスター・バロウズ。あの、はい、お陰様で」
フィリップと婚約して以来、エミリーはミスター・バロウズをおじい様と呼ぶようになっていたが、もうそうは呼べない。それだけは少し寂しかった。
「あの時はフィリップがすまなかったな」
「いえ、もういいんです」そう答えたとたん、エミリーははっとして、会場に目を走らせた。もしかして、フィリップも来ているの?
ミスター・バロウズはそれを見て苦笑し、首を振った。「フィリップは来ておらんよ」
二人の様子を見てバーバラが会話に入ってきた。「チャールズ、来てくださって嬉しいわ」
「おお、バーバラ、久しいな」
「それは、あなたがちっともオークションに参加しなくなったからでしょうに。ひとりで勝っても張り合いがないのよねえ。あなたはどうしたのかと思って、今日の招待状をお出ししたんですよ」
バーバラはエミリーのほうに小首をかしげ、ミスター・バロウズに尋ねた。「エミリーとお知り合い?」
「ああ、〈ウィルソン&ラッセル〉のわしの担当者だ」
「あら、あたくしは引き抜きに失敗したところよ」
「エミリーは渡さんぞ」
バーバラはくすくすと笑い、何かを思いついたように目をきらめかせた。
「そうだわ、ちょっと聞いていただきたいことがあるの」ミスター・バロウズにそう言ってから、ジェームズたちに振り返る。「ここで失礼するわね。あなたたち、明日のセントラル・ホテルのパーティにも来るのかしら?」
ジェームズとクロードがうなずく。
「なら、明日またお目にかかりましょうね」バーバラはクロードの連れの女性とエミリーにほほえみ、ミスター・バロウズと腕を組んで、歩いていった。
「僕たちも帰ろうか」ジェームズがエミリーに言う。
エミリーは暗い気分でうなずいた。
帰りのリムジンの中で、ジェームズが浮き浮きした調子で切り出した。「そういうわけだから、早めに結婚式をあげよう」
「どうして?」目に涙がにじむ。
「どうして?」ジェームズはぽかんとしていた。
「婚約者のふりだけじゃなく、花嫁のふりまでさせるの? それとも本当に結婚するつもり? ビーナス像のために?」
ジェームズは大慌てで言った。「違う、そうじゃない」
「婚約者が必要だったのは、大伯母様を騙して、ビーナス像を手に入れるためだったんでしょう?」
「いや、しかし――」
「約束だから、明日のパーティには同行するわ。でも、それが終わったら、こんな契約はもう終わらせたいの」
「エミリー、違うんだ。僕は――」
リムジンが屋敷に着いた。エミリーはすぐに降りて、離れへ駆け出した。
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