#9 息がふれ合うほどの距離
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ジェームズはクリスマス休暇を取り、エミリーの帰省に同行する。オハイオ行きの飛行機の中、ふと見つめ合うふたりの唇が近づいて……。
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オハイオの実家へ出発する朝はあいにくの天気になった。ちらちらと雪が降っている。旅客機が欠航になるほどではないけれども、小型のプライベートジェットなら危なかったかもしれない。エミリーはジェームズがプライベートジェットを出そうとしたことを思い出し、ふっと笑みを浮べた。
そんなことまでしなくていいと反対した時、ジェームズはエミリーがそう言うのをなかば予想していたように、あっさりと引きさがって、ふつうの旅客機のチケットを手配した。強引な一面もあるけれども、エミリーが困るほどの無理強いはしない。フィリップならここは押し通していただろう。あまり贅沢はしたくないというエミリーの気持ちを、フィリップはどうしても理解できないようだった。
エミリーは小さくかぶりを振った。ジェームズとフィリップを比べてどうするの? ジェームズは期間限定の婚約者だ――この数日、エミリーは何度となく自分にそう言い聞かせなければならなかった。婚約者のふりをするのもあと二週間だけ。そのあとは――今はそのあとのことを考えたくなかった。そう、まずはいい面に目を向けよう。
結果的に、ジェームズと一緒に帰省することはよかったのかもしれない。父親代わりだと言ったとおり、兄たち三人はものすごく過保護だ。じつは婚約を破棄されたなどと打ち明けようものなら、どうなったことやら……。
エミリーは隣の席で眠っているジェームズを見つめた。離陸したとたん、ジェームズはうたた寝を始めた。年明けまで仕事にならないと言っていたけれども、休暇を取るために、ここ数日は無理をしたのかもしれない。エミリーはジェームズがプレイボーイだというネットの噂をもう信じていなかった。エミリーが実際に会った人たちは、皆が皆、ジェームズは仕事ばかりしていると言う。それに、何日か一緒に過ごしてみて、見た目とはうらはらに、ジェームズが誠実な人だということもわかってきた。タブロイド紙の記事やネットの噂など嘘ばかりだ。
でも――インターネットで検索した時に見つけた一枚の写真が、エミリーの脳裏をよぎった。モデルのマオミがジェームズと抱き合っている写真だ。見出しには〝熱愛〟の文字が躍っていた。彼女とは本当に付き合っていたのかもしれない。
エミリーはシートの肘掛けに置かれたジェームズの手を握ろうとして、指が触れる寸前に自分の手を引っこめた。とくに人目もなく、婚約者のふりをする必要もない時に、何をするつもり? まさか、独占欲に駆られたの? 私は期間限定の婚約者なのよ。自分にこう言い聞かせるのはもう何度目だろう?
目が覚めた時には着陸前で、もうシートベルト着用のランプが点いていた。いつの間に眠ってしまったんだ? ジェームズはまばたきをして、隣の席を見た。
エミリーがにっこりとほほ笑む。「おはよう」
「ああ、おはよう」
ジェームズはまた目を瞬いた。起きたとたん、女性の顔が視界に飛びこんでくることには慣れていない。もともと眠りが浅く、特に人がそばにいる時には寝られないたちだ。女性と一夜を過ごしても、眠ることはほとんどなかった。エミリーのそばでは気を抜いていられるのだろうか?
ジェームズは華やかな世界で生まれ育ったが、なぜかそれになじめなかった。自然に溶けこんで、そこを
上流社会とは距離を置いてきたにも関わらず、女性たちはその華やかな世界に引かれて近づいてきた。つい誘惑に負けたこともあったが、女たちが求めるのはジェームズの外側だけだ。いつしか、女性というのはそんなものだと思うようになっていたが、エミリーは違う。地に足の着いた女性なのはもうわかっていた。そう、そばにいてほっとできる。
「そろそろ着くようだな」
「ええ、よく眠っていたわ。休暇を取るために、この何日か無理をしたんじゃない?」
そう言い当てられ、ばつが悪くなって、ジェームズはふいと目をそらした。悪い癖だ。そのせいで、冷たい印象を与えてしまうことがある。ジェームズはそれとなくエミリーのようすをうかがった。
なぜかエミリーも目をそらしていた。しかも、頬を染めている。キースの新作発表会でも同じようなことがあったが……? 首をひねりつつも、ジェームズはエミリーの横顔を見つめた。
そして、あの夜と同じように、手を握った。
エミリーが顔をあげ、ふたりの目が合った。唇に唇が吸い寄せられるようだ。ジェームズが頭をかがめかけた時、飛行機ががくんと揺れた。ジェームズもエミリーもはっとして顔をそむける。それでも、手を離すことはなかった。
家までの車の中では、ふたりとも無口だった。エミリーはレンタカーのハンドルを握り、ひたすら雪道を見つめていた。道のりを知るエミリーが運転するのは当然だけれども、車を借りたあと、ジェームズが気にもせずに運転席を譲ったことには驚かされた。そういう場合でも、女性にハンドルを渡すことをいやがる男性は多いものだ。エミリーは助手席のほうを見るのを我慢して、目の前の道に意識を集中させた。つい、飛行機の中でのことを思い出してしまう。あの時、飛行機が揺れなかったら――キスしていた? 演技する必要もないのに? ああ、だめよ、ちゃんと運転しないと……。
ようやく家に着いた時、エミリーはほっと息をついた。エンジンを切ると、車内はしんと静まった。
「ジェームズ」
「エミリー」
ふたりは同時に話しかけ、同時に黙りこんだ。また口を開こうとした時、玄関のドアがあいた。車の音を聞きつけたのだろう。兄たちがぞろぞろと出てくる。エミリーはため息をつきそうになった。ジェームズは先に降りて、運転席側にまわり、ドアをあけてくれた。
「ありがとう」差し出された手を取り、エミリーも車から降りた。
たいへんなのはこれからだ。兄たちの姿を見たら、ジェームズを連れてきたのがよかったことなのかどうか、わからなくなってしまった。大事なのは、ジェームズが偽の婚約者だと兄たちに悟られないようにすること。もし知られてしまったら、エミリーはともかく、ジェームズがどんな目にあわされるかわかったものではない。そう考えた時、はっと気づいた。ジェームズは強引についてきたんじゃなかった? でも……やっぱりひどい目にはあわせられない。
エミリーは気を引き締めて、兄たちの顔を見た。三人とも眉間にしわを寄せ、無遠慮にジェームズをにらんでいる。ああ、もうっ。思えば、ティーンエイジャーの頃から、どれだけボーイフレンドとの仲を壊されてきたことか。おかげで、まともに男性と付き合えるようになったのは、大学に入ったあとからだ。
その解放感に浮かれていたせいか、エミリーは最初に言い寄ってきた男性と付き合うことにしてしまった。しかし、男性との付き合いがどういうものなのか、本当にはわかっていなかった。当然のように体を求められたけれども、なかなか許すことができず……何度もせがまれ、ついには拝み倒されて、一線を越す決意をしたものの、エミリーがあまりに痛がるため、彼もついに諦めるしかなくなった。その後ほどなく、別れを告げられた。
それがトラウマとなり、以来、何人と付き合っても、やはり最後までできないでいる。皆、君はしっかりしているからと言って去っていった。その最新例がフィリップだ。
エミリーははたと空をにらんだ。君はしっかりしているから――この台詞の真意は、私の身持ちが堅すぎるということ? エミリーはがっくりとうなだれたくなった。何も今、こんなことに気づかなくてもよかったのに。
その件についてはまたあとで考えることにして、エミリーはジェームズの手をきゅっと握り、兄たちのほうへ歩いていった。いったん手を離して、三人の兄ひとりひとりを抱きしめ、頬にキスをしていった。
「三人とも帰ってきてくれているなんて、本当に嬉しいわ」
嬉しいのは本当だ。そして、ジェームズのほうに振り返った。ジェームズは臆すことなく、兄たちを見返していた。視線で火花が散るのが見えるようだ。
ため息をこらえ、強いて笑みを浮べて、エミリーは言った。「こちらはジェームズ・ウィルキンスよ」
「エミリーの婚約者だ」ジェームズがきっぱりと言い、握手してみろとばかりに手を差し出す。これでは手袋を投げたも同然だ。
エミリーはとうとうため息をついた。
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