#8 はじめてのデートと大きな隠し事
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アートという同じ趣味を持つエミリーとジェームズはすっかり意気投合する。エミリーに惹かれはじめているジェームズは、だからこそこの婚約が大伯母のビーナス像目当てだと言い出せなくなってしまう。
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街はあのきらめきを取り戻していた。エミリーはフィリップから婚約破棄を告げられる前と同じように、浮き浮きとした気分で歩いていた。ううん、もっと浮かれているみたい。もちろん、キース・ハドソンの新作発表会に行けるのが嬉しいからよ――そう考えつつも、エミリーは隣を歩く男性の顔をちらりと見あげた。正直に言えば、ジェームズとこうして出かけるのが嬉しかった。この時期のニューヨークはきれいだからと、ふたりは目的地の少し前でタクシーを降りて、そこから歩いていくことにした。そういうところで気が合ったのも嬉しかった。今、ジェームズはキース・ハドソンのこれまでの作品のことを話している。昨日も思ったけれど、こういう時のジェームズは本当に少年のような顔を見せる。やはり、見とれずにいられなかった。
だめよ。エミリーは心の中で自分をたしなめた。私は一カ月だけの婚約者なんだから。契約期間が過ぎたら、きっと会うこともなくなる。ジェームズは、住む世界の違う人だ。大金持ちにはもうこりごりでしょう?
浮かれた気分が少し沈みかけた時、新作発表会の会場に着いた。中に入ったとたん、ざわめきが起こった。何ごとかとエミリーが首をかしげる間もなく、ひとりの男性が駆け寄ってきた。
「ジェームズ! 来てくれたんだね!」きれいな赤毛の若者は、満面に笑みを浮べて言った。
「ああ、なんとか時間が取れてね」ジェームズは赤毛の男性からエミリーに目を移した。「エミリー、彼がキース・ハドソンだ」
エミリーは目を丸くした。キース・ハドソンは自分の写真を公表していない。顔を見るのははじめてだ。知り合いだったの? そう聞く前に、ジェームズがエミリーの肩を抱いた。
「キース、こちらは僕の婚約者で、エミリー・キャッスルだ」
今度はキースが目を丸くする番だった。それから、また破顔して、エミリーに手を差し出す。「よろしく、エミリー。ジェームズがいい人とめぐり会えたようで本当によかった。ほら、ジェームズときたら、何しろ仕事、仕事だっただろう? 心配していたんだ」
「あの、こちらこそ、よろしく」エミリーは驚きを消せないまま、握手をした。顔が赤くなっているのは、憧れのアーティストが目の前にいるせい。その人とジェームズが知り合いだったことに驚いたせい。でも、何よりも……ジェームズに肩を抱かれているせいだ。手のふれたところが熱い。胸の鼓動が伝わってしまいそうだった。
会場のざわめきは大きくなっていた。若い男性や女性が次々に集まってきて、ジェームズとエミリーに「おめでとう!」と声をかける。エミリーが会場を見渡すと、悲しげな表情を浮べている女性が何人もいた。ジェームズのことが好きだったのかもしれない。エミリーの胸がちくりと痛んだ。この婚約は嘘なのに……。ジェームズはそういう女性たちのようすには気づかず、まわりに集まった人たちとしゃべっている。
キースがエミリーに話しかけてきた。「こうして新作発表会を開けるようになったのも、ジェームズのおかげなんだ。まだ芽が出ない内から援助してもらってね。そんなアーティストが大勢いる。みんな、ジェームズには足を向けて寝られないよ」キースは数人の名前をあげた。エミリーも知っている注目のアーティストが何人もいる。
少しして、ジェームズとエミリーは人の輪から離れ、キースの新作を鑑賞した。ひととおり見てまわり、すばらしい作品の数々にほうっと息をついたあと、エミリーは言った。
「キース・ハドソンと知り合いだって、はじめから言ってくれればよかったのに。しかも、ただの知り合いじゃなく、パトロンだって。キースのほかにも大勢の後援をしていると聞いたわ」
「僕は少し手を貸しただけだ」ジェームズはふいとエミリーから顔をそむけた。「成功は彼らの才能と努力の賜だよ」
なぜ顔をそむけるの? 若いアーティストを後援するのは、すばらしいことなのに。エミリーはジェームズの顔をのぞきこみ――またもやその表情に見とれることになった。ジェームズは照れている。それを隠そうとして、顔をそむけたらしい。そのようすが愛おしく、ふいにどぎまぎして、エミリーもぱっと目をそらした。お互いに無言でそっぽを向いたまま、数秒が過ぎた時、ジェームズが手を握ってきた。エミリーが驚いて顔をあげた瞬間、耳元でささやき声が聞こえた。
「このほうが婚約者らしいだろう?」
口を開けば、心臓が飛び出してきそうで、エミリーはただこくんとうなずくことしかできなかった。
キースたちに挨拶をして、会場から出たあとも、ジェームズはエミリーの手を離さなかった。エミリーも手を引き抜くそぶりは見せない。このまま帰したくなかった。いや、帰る場所は同じだが、今は自宅の母屋と離れが遠く離れているように感じられる。
「少し飲んでいかないか?」
そう尋ねたとたん、ジェームズはエミリーが酒に弱いことを思い出した。「そうだった、君に酒は――」
エミリーがくすりと笑った。「少しなら大丈夫よ。あんなふうに飲みすぎてしまったのは、あの時がはじめてですもの」
婚約を解消されれば、ショックが大きいのは当然だろうが、もしかして今でもそいつのことが好きなのか? ジェームズの胸にもやもやとしたものが広がったが、そこまで訊くのははばかられた。
行きつけのバーに入り、エミリーには軽めのカクテルを、自分にはスコッチを注文した。先ほどの新作発表会についてあれこれとしゃべったあと、エミリーがふと思いついたように言った。
「そういえば、クリスマスはどうするの? 私もパーティか何かに同行したほうがいいのかしら?」
「まだ決めていないんだ」
「そう。だったら……言い忘れていたんだけど、クリスマスは実家に帰る予定なの。しばらく留守にしてもいい?」
しばらくエミリーに会えなくなる。あの笑顔が見られなくなる。
「実家はどこだ?」
「オハイオ州のクリーブランドよ」
「僕も行こう」
深く考える間もなく、ジェームズはそう言っていた。
「え?」エミリーが目を見開く。
「〝婚約者〟が一緒に帰省するのはおかしくないだろう?」
「あの、でも、私は帰省するつもりで長めの休暇を取っているけど、あなたには仕事が――」
「いや、今の大事な取り引き相手はヨーロッパの企業なんだ。あちらの人たちは長く休暇を取る。どのみち、クリスマスから年明けまでは仕事にならない」
これは嘘ではない。もっとも、ニューヨークではクリスマスと元旦に一日ずつ休みを取る程度なのがふつうだから、そのあいだにほかの仕事を片づけようと思っていたが……そう、人に任せることを覚えたほうがいいと今朝考えたばかりではないか。
「でも、急に婚約者を連れていったら、家族がどう思うか――」エミリーが言いかけた。
「本物の婚約者のことは家族に話していなかったのか?」
エミリーは唇を噛んだ。「こちらで出会った人と婚約したとだけ。詳しいことは帰ってから話そうと思っていたの」
「なら、僕が行っても大丈夫だな。はじめから僕と婚約していたことにすればいい」
エミリーは諦めたように息を吐いた。「あなたって、時々、本当に強引な人になるわね」
強引な真似をするのは、何かに興味を引かれた時や、夢中になっている時だけだ。ジェームズはそう気づき、言葉につまって、話題を変えることにした。
「大伯母が主催する新年のパーティまでには、ニューヨークに戻ってきたいんだ。一月三日だ。その翌日には仕事絡みの大事なパーティがあるから、それにも同行してもらいたい」
「大伯母さまのパーティも大事なのね?」
ジェームズはため息をついた。「大伯母は早く結婚しろとうるさくてね。そのパーティで〝婚約者〟を紹介しなければならないんだ」
エミリーは小首をかしげた。「だから、期間限定の婚約者が必要だったの?」
ジェームズは再び言葉につまった。ビーナス像を手に入れるためだとは言いづらい。ただうなずくしかなかった。
「大伯母さまはあなたのことを心配なさっているのね。心配する家族を安心させたいという気持ちはよくわかるわ。私も母と兄たちを早く安心させたくて、元婚約者との結婚を決めたようなものですもの」エミリーもうなずいて言う。
母と兄たち? 父親は? ジェームズは怪訝な顔をしていたらしく、エミリーがそれを見て、すぐに言葉を継いだ。
「ああ、父は私が子供の頃に交通事故で亡くなったの」
「それは……気の毒に。君もたいへんだっただろう」
「悲しかったし、寂しいこともあったけど、兄たち三人が父親代わりになってくれたわ」
「兄が三人もいるのか?」
「ええ、今年のクリスマスは全員が実家に集まる予定なの。私が婚約したと言ったせいかもしれないけど、みんな忙しいから、三人とも揃うのは珍しいのよ。一番上の兄のジェラルドはレーサーよ。父親を事故で亡くしているのにおかしいと思うでしょうけど、だからこそレーサーになったんじゃないかと私は考えているの」
ジェームズは首をかしげたが、エミリーは小さく首を振って、話を続けた。
「本当のところはわからないわ。兄たちにとって、私はいつまでも小さな女の子なのよ。重要なことは何も話してもらえない。とにかく、父の死後、ジェラルドが高校を辞めてレースの世界に飛びこむと言い出した時、誰もが無謀だと思ったようだけど、もともと才能があったんでしょうね。修業時代からスポンサーがついて、すぐにレースで賞金を稼げるようになったの。ずいぶん家計を助けてくれたわ。母は小学校の教師をしていたけど、お給料はそれほどよくなくて」
「本当に父親代わりなんだな」
「ええ。二番目と三番目の兄、ハリーとエイダンは双子よ。見た目はそっくりなのに、性格は正反対。ハリーは陸軍にいて、今はなんだか特別な部隊を任されているようだけど、やっぱり詳しいことは教えてくれないわ。エイダンは天才的に頭がいいのよ。IT関連の会社を興して、うまくやっているみたい。革新的なアイデアがどうとか聞いたけど、私は機械にはうとくて、よくわからないの」
エミリーは情けなさそうに笑みを浮べた。「私には取り立てて言うほどの才能はないわ。でも、本当に美術が好きなのは兄たちもわかってくれて、どうせなら一流のところで学んだほうがいいって、ニューヨークの大学に行かせてもらえたの。三人とも学費を援助してくれたのよ。私がニューヨークに来られたのは兄たちのおかげ」
つまり、エミリーの実家に行けば、ジェームズは父親代わりの兄三人からじっくり値踏みされることになる。しかも、今の話からすると、そのうちふたりは命の危険も顧みないほどの怖いもの知らずで、もうひとりは天才的な頭脳の持ち主だ。エミリーはジェームズが鼻白んだのに気づいて、いたずらっぽい笑みを見せた。はじめて見る表情だ。エミリーの顔に浮かべば、どんな笑みも愛らしい。「やっぱり一緒に来るのはやめる?」
「まさか」ジェームズはきっぱりと言った。こんなふうに、エミリーの笑顔を見続けられるなら、誰にどれだけ値踏みされようがかまわない。
「あなたにはご兄弟は?」
「ああ、兄がひとりいる。兄のリチャードが一族の企業に入ってくれたから、僕は自由にしていられるんだ」
リチャードの話をしながらも、気がかりは拭えなかった。エミリーが家族を安心させるために元婚約者との結婚を決めたという事実には、ほっとしたものの――大伯母のパーティで婚約者が必要な本当のわけを話せなくなってしまったからだ。
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