#7 その笑顔を見ていたい

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婚約者らしいところを世間に見せるため、はじめてふたりで出席したパーティ。意外にも話が合い、エミリーとジェームズは楽しいひと時を過ごす。それぞれの胸の高鳴りを隠して。


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 またフィリップからの電話だ。エミリーは深いため息をつき、携帯の表示を見つめた。もう何度となくかかってきている。今さらなんの用なの? 電話に出るつもりはなかった。留守番電話にメッセージが残っていたが、それも聞きたくなかったから、すぐに消してしまった。

 フィリップはどうやら帰国したらしく、一度など会社にまで押しかけてきた。エミリーがたまたま社外にいたからよかったけれども――事情を知るマリアンヌが連絡をくれたので、会社には戻らず、そのまま帰宅することができた。電話にも出たくないのに、とてもではないが会う気にはなれない。

 祖父のほうのミスター・バロウズからはすでに謝罪を受けていた。そこで、フィリップが会社に来たことを話し、もう来ないようにしてほしいと頼んだ。強面のミスター・バロウズが本当にすまなそうに頭をさげるのを見て、エミリーはなんだか申し訳なくなってしまった。居たたまれなくなっている時、現在の住まいを尋ねられて、曖昧あいまいに言葉をにごし、そそくさと退散することになった。

 あのオークションから一週間、ジェームズとの同居生活は驚くほどうまくいっていた。もっとも、本当の意味では同居と言えない。ジェームズは母屋で寝起きし、エミリーは離れで間借りしている。寝室が別なのはもちろんのこと、食事も別々だった。というよりも、まともな時間に夕食がとれるほど早くジェームズが帰ってくることはめったにないようだ。仕事が忙しいとは聞いていたけれども、予想以上だ。猛烈な仕事人間――今までのところ、それがジェームズの印象だった。

 ジェームズ・ウィルキンスが有名人なのは、同居してほどなくわかった。大きな企業のCEOだと聞き、インターネットで名前を検索したら、膨大な数がヒットした。全米でチェーン展開するインテリアショップ〈アクア〉なら、エミリーも知っている。手ごろな値段ですてきな家具や雑貨が買えるいい店だ。実際、買い物をしたこともあった。名門の家柄に生まれながら、独力で会社を興し、成功させる才覚。そして、あの容姿。オークション会場で女性たちが黄色い歓声をあげたのも、今なら理解できた。

 インターネットの検索で出てきたのは、会社の情報だけではなかった。数々の女性たちとのスキャンダルだ。相手の女性の中にはトップモデルもいた。有名モデルのマオミは、あのオークションの夜、エミリーが紛れこんだ集団の先頭に立っていた女性だ。もしかして、まだ付き合っているの? だったら、彼女を婚約者にすればいいのに。それとも、もう別れているのに、マオミのほうには未練があるということかしら? あの夜はジェームズを競り落としに来たの? ううん、違う。〝出品〟される人の名前はオークションが始まるまで伏せられていたし、ジェームズがステージにあがったのを見て、マオミは本当に驚いた顔をしていた。きっと偶然居合わせたのだろう。

 なんにしても、女性はよりどりみどりでしょうに。ネットの噂が本当なら、ジェームズはたいそうなプレイボーイだ。毎日遅くまで帰ってこないのは、仕事が忙しいだけでなく、女性たちとの付き合いもあるのかもしれない――エミリーははっとして、かぶりを振った。私には関係ない。一カ月間、婚約者役をこなすだけですもの。

 離れの部屋の窓辺に座り、母屋をながめながら、そんなことをあれこれと考えていた時、ノックの音がした。

「どうぞ」

 ドアをあけたのはメイドのクララだった。最初の日に顔を見せたのと同じ年配の女性だ。屋敷の管理をする男性と夫婦で、長いあいだこの屋敷に勤めていると聞いた。クララはエミリー付きのメイドということになっているらしい。メイドなどつけてくれなくていいとジェームズに言ったけれども、これは頑としてはねのけられた。

「お支度はおすみですか?」あいかわらず堅苦しい表情のまま、クララが尋ねた。ただ、最初の頃よりよそよそしくなくなったように思えるのは、気のせいかしら?

「ええ」

 今夜はジェームズの仕事絡みのイベントに出ることになっている。婚約者のふりをしろと強引に話を決めておきながら、ふたりで出かけるのはこれがはじめてだ。そのイベントがモダン・インテリア関連だと聞いた時、エミリーはほっと胸を撫でおろした。アンティークが専門だが、インテリアならモダンなものにも興味がある。正直なところ、婚約者のふりをするのは気が重かったけれども、インテリア関連のイベントなら少しは楽しめるかもしれない。エミリーはクララのあとに続いて、ジェームズの待つ母屋のサロンに向かった。

 エミリーが来たのを見て、ジェームズが立ちあがり、迎えに出てきた。そっと手を取り、その甲にキスをする。エミリーの胸が高鳴った。

「今日もきれいだ」ジェームズが手の甲から少し唇を離し、じっとエミリーの目を見つめた。

 〝婚約者〟の演技だとわかっていても、胸の高鳴りは増すばかりだ。リムジンで会場に向かうあいだ、なかなか収まらない鼓動を隠そうとするように、エミリーは口を開いた。

「具体的に、今日のイベントはどんなものなの?」

 ジェームズは顔をほころばせた。「モダン・アートがカリフォルニアで生まれたことは君も知っているだろうが、最近、その流れを汲んだ新しいインテリアがここニューヨークで――」

 少年のように無邪気な笑みを浮べ、アートについて語るジェームズに、エミリーは思わず見とれていた。仕事の鬼だと思っていたけれども、お金儲けだけが目的なのではないのかもしれない。ジェームズの口ぶりから、アートへの愛が感じられた。

 そこからは話題が尽きなかった。イベント会場では、さらに大勢の人たちを交えて、おおいに語り合った。意見が合えばもちろん盛り上がったが、議論を戦わせるのも楽しかった。時間はあっという間に過ぎ、後ろ髪を引かれる思いで会場を出ようとした時、エミリーは一枚のポスターに目を引かれた。

 ジェームズがそれに気づき、足を止める。「どうした?」

「これ、明日のイベントの宣伝ポスターだわ。キース・ハドソンの新作発表会よ。知っている? 大注目の若手アーティストなの。めったに人前には出てこないんだけど、明日は顔を見せるみたいね。残念だわ。私も行きたかったけど、よほどのコネでもないと、招待状は手に入らなくって」エミリーの会社も美術品やアート作品を扱っているが、畑違いで、そこまでのコネはない。

 ジェームズがにっと笑みを見せた。「僕のことを忘れているんじゃないか?」

 エミリーは目を見開いた。

「招待状なら僕が持っている」


 今日、時計を見るのは何度目だろうか。ジェームズはまた壁の時計に目を走らせたことに気づき、苦笑いを浮べた。どうも仕事に身が入らない。まだ昼の十二時だ。いつもは時間が足りないことにいらいらしがちなのに、夜になるのが待ち遠しいくらいだった。理由はわかっている――エミリー・キャッスル。彼女と出かけるのが楽しみでならない。キース・ハドソンの新作発表会の招待状はずいぶん前に受け取っていたが、仕事が山積みのこの状況では、行くのは無理だろうと思っていた。しかし、ゆうべはエミリーの喜ぶ顔が見たくて、一緒に行こうとつい誘ってしまった。

 あんな女性ははじめてだ。新年のパーティまでどこにも出かけないのはおかしいだろうと思って、ジェームズは昨日のイベントにエミリーを連れていくことにした。インテリア関係のイベントを選んだのは、それなら彼女も楽しめるだろうと考えたからだ。エミリーの予定を聞き、了承を得た時、好きなドレスとアクセサリーを買うといいと言った。ふつうの女性なら大喜びしただろう。しかし、エミリーは困ったような表情を見せた。

「婚約者としてふるまう義務があるというのはわかるけど、そこまでしてくれなくていいのよ」

「しかし――」

「ああ、あなたの婚約者が安物を着ていたらおかしいわよね」エミリーはますます困った顔をする。

「いや、そうじゃないが――」

「わかったわ。最初の夜、服をたくさん用意してくれたでしょう? あの中から借りてもいい?」そこで、エミリーはにっこりとほほ笑んだ。

 ジェームズはその笑みに見とれていた。あの笑顔をもっと見たい――ゆうべのイベントで一緒に過ごすうちに、その思いはますます強くなっていった。それに、エミリーのアートの知識には舌を巻かされた。こんなに話の合う女性もはじめてだ。

 結局、ジェームズは今日の夜にすませようと思っていた仕事を部下に任せることにした。今朝、それを伝えた時、部下は顔を輝かせ、「僕を信頼してくれてありがとうございます」と言った。人の喜ぶ顔を見るのはいいものだ――仕事に忙殺され、そういう当たり前のことを忘れていた。それに、思えば、ジェームズは何ごとも人に任せるのが苦手だ。これからはその点を改めていったほうがいいのかもしれない。女性の笑顔ひとつでこうも意識が変わるとは、我ながら単純だが、不思議と悪い気はしなかった。

 また時計を見ようとした時、オフィスのドアがいきなり開いた。

「調子はどうだい?」デイビッドが顔をのぞかせる。

 ジェームズはデイビッドをにらみつけた。あのオークション以来、今日まで顔を合わせる機会がなかった。

「どうもこうもない。まったく君はなんてことをしてくれたんだ」

 デイビッドは悪びれもせずに笑った。「結果的にはよかっただろう? 君を競り落としたのはずいぶんきれいな女性だった。礼を言ってほしいくらいだよ」

 ジェームズは無言でデイビッドをにらみ続けた。

 デイビッドは両手をあげた。「わかった、わかった。少しは悪かったと思うから、こうして昼飯をおごりに来たんじゃないか」

「〈ベルナール〉だ」ジェームズはこの界隈で最高級のレストランの名前をあげた。どうせ仕事に身が入らないなら、たまにはゆっくり昼食をとるのもいいだろう。

「やれやれ、高くついたな」苦笑いを浮べながらも、デイビッドはさっそく携帯を取り出し、予約の電話をかけた。

 高級レストランの電話番号を携帯に登録しているだけでなく、直前の予約でも難なく席を取ってしまうところがデイビッドらしい。デイビッドは敏腕経営コンサルタントだ。その発想力を生かし、成功を収めている。デイビッド・クロフォードと言えば、ニューヨークの実業界で名の通った存在だ。

「あの晩、マオミと話したぞ」デイビッドがそう言い出したのは、食事も終わりかけた頃だった。

「あの晩?」

「オークションの夜だよ。たまたま〈ニックス〉にいたそうだ。君が〝出品〟されたことに驚いて、僕に声をかけてきた」

 ジェームズは顔をしかめた。マオミは少し前まで付き合っていた女性だ。後腐れのない関係で、別れもさっぱりしたものだったから、今でもどこかで顔を合わせれば、世間話くらいはする。みっともない姿を見られてしまったものだ。

「複雑そうな顔つきをしていたな」デイビッドが話を続けた。

「どういうことだ?」

 デイビッドは苦笑いを浮べた。「君は意外とにぶいんだよな。君と付き合っていた頃、マオミは本気だったということだよ」

「まさか。それに、別れを切り出したのはマオミだぞ」

「だから、君のほうは本気になりそうもないとわかったからだろ」

 ジェームズは首をかしげた。マオミはいつもクールで、そんなそぶりは見せたこともなかった。

「それで、〝婚約者〟とはうまくっているのか?」デイビッドが言った。

「お互いに婚約者のふりをしているだけだ」

「へえ? あれだけの美人と形だけでも婚約したら、つい手を出したくなりそうなものだけどな。なんにしても、僕にもちゃんと紹介してくれよ。〝婚約者〟が君の親友の顔も知らないのはおかしいだろ?」

「断る」ジェームズは思わず言っていた。

 タブロイド紙に書き立てられることこそないものの、本当に浮き名を流してきたのはデイビッドのほうだ。もしもデイビッドがエミリーに手を出したら――ジェームズは胃がよじれるような感覚に襲われた。学生時代から今まで、ふたりが女性をめぐって争ったことは一度もなかった。しかし、エミリーはそれこそ形だけの婚約者で、ジェームズのものではない。それに、エミリーのほうがデイビッドに惹かれる可能性もある。胃のよじれが強くなった。なんだ、これは? 嫉妬心か?

 ふと目をあげると、デイビッドがまじまじとジェームズの顔を見ていた。

「へええ。この何年も仕事のことしか頭になかった君が、そんな顔をするとはね。僕は本当にいいことをしたみたいだな。ここは僕がおごってもらうべきなんじゃないか?」

「デイビッド」ジェームズは低い声で言って、親友をにらんだ。

 デイビッドは声をあげて笑い、店の支配人に勘定の合図を送って、自分のクレジットカードを取り出した。

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