#5 また婚約者ができました
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お酒に酔って〝婚約者〟を競り落としてしまったエミリー。すぐにその関係を解消しようとするが、相手にも事情があると説得され、一カ月だけ婚約を続けることに同意する。
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頭が痛い。ガンガンする。エミリーは低くうめきながら目をあけた。そう、確か、ゆうべはお酒を飲んで――私、どうやって帰ってきたの? 昨夜のことを思い出そうとした時、ここが自分の家ではないことに気づいた。広々とした部屋、天蓋付きのベッド、見事な造りの家具、青を基調とした趣味のいい内装。こんなところに住みたいと思うような部屋だが、とにもかくにもエミリーの自宅ではない。だいたい、家具は昨日売ってしまった。だったら、ここはどこ?
エミリーが目を覚ますのを見計らったように、ノックの音が響いた。エミリーはおそるおそる「どうぞ」と言った。
入ってきたのは、いかにもメイドらしい格好をして、背すじをぴんと伸ばした年配の女性だった。
「お食事のご用意ができております」メイドは表情ひとつ変えず、堅苦しく言った。
「あの、あなたは? ここはどこなのかしら……?」
「クララと申します。こちらはミスター・ウィルキンスのお屋敷です。旦那様は朝食の間でお待ちです」
聞きたかったのはそういうことじゃなくて……。だがメイドはかたい表情を崩さず、とりつくしまもなかった。ミスター・ウィルキンス? 聞き覚えがあるような気もするけれども、思い出せない。
エミリーが眉をひそめているあいだに、メイドは言葉を継いだ。
「お召し物はクローゼットの中からご自由にどうぞ。旦那様からの贈り物でございます」
そして、〝朝食の間〟なる部屋までの行き方を説明したあと、クララというメイドはよそよそしい態度のまま、さっさと出ていってしまった。
わけがわからなかった。ふと体を見おろせば、エミリーは昨日のドレスではなく、シルクのパジャマを着ていた。いつ着替えたのか覚えていないが、とにかく、パジャマのままではどうしようもない。あたりにドレスは見当たらなかった。仕方なくクローゼットをあけると、ずらりと服が並んでいた。青や白が多い。旦那様――ミスター・ウィルキンスとやらは、青色が好きなのだろうか。エミリーは適当に一着を選んで着替え、部屋を出た。豪華なお屋敷だ。迷子になりそうなほど広い。メイドに場所を教えてもらっていなかったら、目当ての部屋にはたどり着けなかっただろう。
朝食の間も広々としていた。コーヒーの香りが漂ってくる。ひとりの男性が大きなダイニングテーブルの前に座っていた。この人がミスター・ウィルキンス? 〝旦那様〟などと呼ばれているから、年配の男性を想像していたけれども、意外なほど若かった。三十歳前後だろうか。見るからに不機嫌そうだ。むっつりとしていたが、エミリーが入ってきたのを見て、口を開いた。
「お目覚めのようだな。ともかく、一カ月よろしく」
「なんのこと?」
「覚えていないのか?」
「何を? あなたは誰?」
「僕は君の戦利品だ。君が僕を買ったんだ。十万ドルも払っただろう」
十万ドル――少しずつ昨夜の記憶が戻ってきた。セレブたち、クラブ、チャリティ・オークション、慣れないお酒。酔った勢いで、私はこの男性を落札した。正確に言えば、この人と一カ月間、婚約する権利だ。エミリーは大きくため息をついた。
「お金だけ取っておいて」
そう、チャリティだ。あの十五万ドルははじめから慈善団体に寄付すればよかったのだ。すぐ思いつきそうなことなのに、昨日は本当にうろたえていたせいか、考えもしなかった。
「じゃあ、私はこれで。あなたには面倒をかけてしまって――」エミリーは言いかけた。
「いや、このまま一カ月間、君は僕の婚約者でいるんだ」ミスター・ウィルキンスが遮った。エミリーをねめつける。
どうして? エミリーは着替えた覚えもないのに、ドレスがパジャマにかわっていたことを思い出した。まさかこの男が……? なら、婚約者でいろというのは体目当て? 顔がカッと火照った。
「帰るわ。私のドレスはどこ? あなたが脱がせたの? 酔った女につけこむなんて、最低な男ね」
ミスター・ウィルキンスは険しい顔で立ちあがった。「君のドレスはクリーニングに出した。着替えさせたのはうちのメイドだ。〝婚約者〟ならそうするのが当然だろうと、酔って気を失ったところを介抱し、家に泊めてやり、急いで着替えまで用意させたのに、君が言いたいことはそれだけか?」
エミリーはさらに顔を赤くした。
「あの、ごめんなさい。でも、私、昨日はどうかしていたの。あなたを競り落とすつもりなんてなかったのよ」
「だったら、なぜだ?」
「酔ってしまって――」
ミスター・ウィルキンスはため息をついた。「君は、酒はやめたほうがいい」
むっとして、エミリーはつい言い返していた。「ふだんは酔っ払うほど飲まないわ。おととい、ショックなことがあったの。婚約者から――本物の婚約者から、婚約を破棄されたのよ」
「それで、金で新しい婚約者を買うことにしたということか?」
エミリーは声を張りあげた。「そうじゃないって言っているでしょ! わからない人ね。人間オークションの会場に入りこんだのは偶然なの。お金を持っていたのもたまたまで――」
エミリーは天を仰ぎ、ミスター・ウィルキンスの近くの椅子を指差した。「座ってもいいかしら? 私にもコーヒーをいただける? こうなったら、最初から何もかも説明するわ」
話を聞きながら、ジェームズはブロンドの髪を見つめていた。大きな窓から降りそそぐ朝日にきらめいている。はっとするほどきれいな女性だ。ゆうべもそう思ったが、明るい場所にいるほうがより魅力的だった。金色の髪も、白い肌も、光に溶けてしまいそうだ。思ったとおり、青いワンピースがよく似合う。昨夜、着替えを用意させる時、ジェームズはふと思いついて、青の服も入れろと命じていた。これほどの女性と婚約していながら、あっさりそれを破棄する男がいるとは、にわかには信じられなかった。大富豪の御曹司という話だが、どこのどいつだろう?
「――だから、あんな大金を持っていたのよ。婚約指輪だけじゃなく、新生活で使おうと思っていたものは全部売ったわ」彼女は話を締めくくろうとしていた。
「家は?」
「まさか家まで売り払うわけにはいかないわ。元婚約者の名義だし。でも、もうあのコンドミニアムに帰るつもりはないの」
なるほどとジェームズはうなずいた。つまり、貯めてきた金の大半を家具に使い、その家具を売り払い、せっかく手に入れた現金のほぼ全額をオークションにつぎこんだということになる。金銭的な余裕がないのは間違いない。
「君にも事情があったように、僕にも事情がある。一カ月だけ婚約者が必要なんだ。君の仕事の一カ月分、いや、一年分支払ってもいい。これからひと月のあいだ、僕の婚約者としてふるまってくれ。公式なイベントに同行するのはもちろん、スケジュールはすべて僕に合わせてもらう」
彼女はテーブルの上で両のこぶしを握った。「勝手に決めないで。あなたのスケジュールに合わせて、私の仕事をおろそかにしろとでも? 侮辱するつもり? 私にとって、仕事はとても大事なものなのよ」
アンティークを扱う企業に勤めていることはすでに聞いていた。そのとたん、単にきれいなだけだと思っていた女性に、ジェームズはぐっと興味を引かれた。このまま帰したくなくて、強引なことを言ってしまったのかもしれない。
「帰るわ」彼女は憤った表情のまま、テーブルに手をついて立ちあがった。
ジェームズは顔をあげた。
「どこに? 元のアパートメントも、コンドミニアムも引き払ったんだろう? クリスマス・シーズンの今、新しく家を借りるのは至難の業だろうな」
青い目が見開いた。やはり帰る場所がないようだ。ジェームズは言葉を続けた。
「もちろん、ハイシーズンにはホテルの部屋の値もあがる」
彼女はうつむいた。
「一カ月、ここで暮らせばいい」ジェームズは言った。
「え?」彼女が顔をあげる。
「困っている時、〝婚約者〟の家に身を寄せるのは、おかしなことではないはずだが」
彼女は警戒するように、自分の体を両腕で抱いた。
「ゆうべ、やっぱり何か……」
「何もしていない」
オークション会場で司会者にうながされ、かすかに唇を重ねただけだ。あの時の柔らかな感触がよみがえり、体が熱くなった。ジェームズは思わず彼女の顔から目をそらした。
「うちには離れがある。そこに住めばいい。年明けなら、新しい家を見つけるのも楽だろう」
「でも……」
「君の仕事は尊重する。すべて僕のスケジュールに合わせろとはもう言わないが、仕事関係の行事や大きなイベントには婚約者として同行してもらう」
彼女は無言で下唇を噛んでいる。迷いが見て取れた。あとひと押しだ。
「どんな事情があったにしろ、君が落札者なのは事実だろう? 君と僕とオークションの主催者とで契約を交わしたも同然だ。一カ月のあいだ、婚約者としてふるまう義務があるんじゃないか? 馬鹿馬鹿しい趣向とはいえ、目的はチャリティだ。その精神を踏みにじる気か?」
彼女は言葉につまったようだ。長い沈黙のあと、口を開く。
「わかったわ。でも、私には指一本ふれないで」
ジェームズは眉をあげた。こうもきっぱりと女性から拒絶されたのははじめてだ。あわよくば取り入ろうとする野心家の女たちとはまったく違う態度に、ジェームズは新鮮な驚きを隠せなかった。そこで、気づいた――このようすだと、僕の名前さえ覚えていないのだろう。ジェームズは手を差し出した。
「僕はジェームズ・ウィルキンスだ」
彼女は最後の迷いを見せた。
「指一本触れるなといっても、握手くらいはかまわないだろう? だいたい、婚約者のふりをするなら、腕を組まざるを得ない状況も出てくると思うが?」
彼女はため息をつき、おずおずと手を握った。
「エミリー・キャッスルよ」
エミリーの手は華奢で、柔らかく、肌はなめらかだった。手を離す時、ジェームズはいつまでも握っていたいという気持ちを押し殺さなければならなかった。
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