#2 清算は現金でお願いします
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あっさりと婚約を破棄されたエミリーは、婚約指輪を含めたすべてを売り払い、きれいさっぱり清算することに決める。
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いつの間にか、エミリーは受話器を握ったまま座りこんでいた。――君はしっかりしているから。フィリップの言葉が耳の奥でこだまする。また、それなの? あまりにも身勝手な言いように、涙さえ出てこなかった。
これまで付き合ってきた男性はみんな、同じ言葉を残して去っていった。確かに、エミリーはニューヨークに出てきてからずっと、しっかりしなければと思って頑張ってきた。それの何がいけないの? 真面目に働いて、節約して生きてきた。そうして貯めたお金で、新居にふさわしい家具を買った。納得がいくまであちらこちらの店をめぐり、これだという自信をもって選んだ家具たち。
エミリーは座りこんだまま、広々とした居間を見渡した。どれもこれも美しい品だ。こんな事態になったからといって、美しさは損なわれない。けれども……買う時に思い描いていた暮らしの何もかもが音を立てて崩れ去った今は、見ることさえつらかった。エミリーは下唇を噛んだ。どのくらい時間がたったのだろう。別れの言葉を聞いた時には流していなかったはずの涙が、いつしか頬を伝っている。
その瞬間、エミリーは決心した。全部売り払ってしまおう。家具も車も指輪も。
車はエミリーの名義になっている。指輪もほかのものも……返さなくていいとフィリップ本人が言ったでしょう? 幸い、今日は金曜日。明日は仕事が休みだ。明日のうちにすべて、いっさいがっさい、何もかもきれいに清算しよう。
そう決めても、いきなり婚約を破棄されたショックは薄れなかった。モリーに電話して、話を聞いてもらう? でも、モリーははじめからフィリップのことをあまり気に入っていなかった。最後には祝福してくれたけれども――
「直感でしかないけど、フィリップはあなたに合わないと思うのよ」フィリップと付き合い始めた頃、モリーは心配そうに言った。結局、その直感が正しかった。
やっぱり電話するのはやめよう。
打ち明けづらいだけでなく、モリーはパティシエで、クリスマス・シーズン中は目が回るほど忙しい。結婚相手はシェフで、いつか自分たちの店を持つために、ふたりとも一所懸命に働いていた。二歳年下のモリーは、自分よりよほどしっかりしているように見えた。とにかく、よりによってこの時期に彼女をわずらわせたくない。クリスマスが終わってから、ゆっくり話を聞いてもらうことにしよう。
エミリーはなかば茫然としたままシャワーを浴び、ベッドに入った。もちろん、眠れるはずはない。どうしてこんなことになってしまったの? 答えのない問いが頭の中でぐるぐると回る。フィリップとエミリーは一目惚れで恋に落ちたのではない。むしろ熱心だったのは、祖父のミスター・バロウズのほうで、ふたりとも、その熱意に押し切られる形で婚約を決めた。
それでも、はじめてフィリップに会った時には、あのキュートな笑みを向けられて、胸がときめいた。少々頼りないと思うこともあったが、その分、フィリップには人のいいところがあった。楽天的なフィリップと現実的なエミリーは、それなりにお似合いの夫婦になるだろうと思っていた。燃えるような恋でなくても、ゆっくり時間をかけて愛情を育んでいく夫婦もいる。自分たちもきっとそうなるのだと思っていた。まさかこんな裏切りを受けるなんて。ようやく深い怒りがこみあげてきたけれども、不思議ともう涙は出なかった。
空が白む頃、やっとエミリーはうとうとしたが、眠りは浅く、結局はまだ早い時間に目を覚ましてしまった。ぼんやりと窓の外をながめたあと、家具や家財道具、車を引き取ってくれる業者を調べた。営業時間を待ち、朝一番で電話をかけて、手配をすませた。電話を終えてから、もう一度、窓の外に目を向けた。
ここはニューヨークにそびえる高級コンドミニアムの一室だ。窓からは街を一望できる。夜のうちに降り積もった雪が、神々しいまでにニューヨークの街を輝かせている。でも、この景色も見納めだ。婚約を解消した以上、もうここには住めない。
昼過ぎには、家具と家財道具、車が全部引き取られていった。かさばる私物のほとんどはトランクルーム業者にあずけた。クリスマス・シーズンには、不動産屋も開店休業の状態になるから、新しい住まいをすぐに見つけられるとは思えなかった。しばらくはホテル暮らしをするしかないだろう。この時期に部屋が取れるとすれば……。
エミリーはため息をついた。クリスマスには帰省するつもりだ。早めに帰ることも考えたが、まだ仕事がある。婚約したことは母に話してあった。兄たちにももう伝わっているはずだ。浮気され、婚約破棄を言い渡されたなどと知ったら、あの過保護な兄たちがどうすることか……。エミリーはかぶりを振った。今すべきことに集中しよう。来週までに、何かもっともらしい言い訳を考えればいい。
がらんとした家の中で、エミリーは必要最低限の荷物をまとめた。少しでも早く出ていきたかった。それに、あとひとつ、処分しなければならないものが残っている。婚約指輪だ。これは貴金属店に持っていけばいい。エミリーは支度を終えて、小さなボストンバッグを手にコンドミニアムをあとにした。
一時間後、貴金属店から出てきたエミリーは、ゆうべよりもさらに茫然としていた。これですべて売り払うことができた。その合計額が……なんと十五万ドルにもなったのだ。家具類はたいした金額ではない。車は高級車だとはいえ、一度でも乗ったからには値がさがる。何よりも高く売れたのは指輪だ。買う時にはいったいいくらだったの? それをあっさり捨てるのだから、フィリップにとってはたいした額ではなかったのかもしれない。それとも、いくら損をしてもいいから、早く婚約を解消したかったということ? また怒りが湧いてきた。いずれにしても、こんなお金は持っていたくない。
何もかも現金で買い取ってもらったのは、そのほうが早くお金を手放せるからだ。今、全額がバッグに入っていた。こんな時期に大金を持ってうろうろするのは危険だ。どうしよう。いっそ全部使ってしまう? 十五万ドルも何に? 途方に暮れて、あたりを見回した時、高級ブランドのショーウィンドウが視界に入った。ごくりと唾を飲みこんで、エミリーはその店のほうに足を踏み出した。
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