#1 婚約を〝キャンセル〟ってどういうこと?
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クリスマス・シーズンのニューヨーク。大富豪の孫、フィリップと婚約中のエミリーに最悪の言葉が告げられる。「君はしっかりしているから……」
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夜の街にまばゆい光があふれている。赤、緑、そして金色にきらめく光。子供の頃からよく知っている歌がそこかしこで流れ、街角の店には、サンタクロースに扮した店員が立っている。クリスマス・シーズンのニューヨークでは、誰もが浮き浮きした気分で歩いていく。エミリー・キャッスルも例外ではなかった。大学進学をきっかけに、中西部からこの大都会に出てきてもう十年近くたつけれども、クリスマスが近づくと、ここは特別な街なのだと思わずにいられない。
エミリーは白い息を吐きながら、軽い足取りで、会社から家までの道を歩いていった。引っ越したばかりの新しいコンドミニアムへ――婚約者のフィリップと結婚後に暮らすための新居だ。結婚式は四カ月後だが、ちょうどルームメイトのモリーも結婚が決まり、先月、引っ越してしまったので、エミリーもアパートメントを引き払って、フィリップよりひと足先に新居での生活を始めていた。
高級コンドミニアムと車、そしてゴージャスな婚約指輪は、フィリップが用意してくれた。正確に言えば、婚約指輪以外はフィリップの祖父であるチャールズ・バロウズが贈ってくれたものだ。ミスター・バロウズはいわゆる大富豪だ。エミリーは仕事を通じてミスター・バロウズと知り合い、それが縁で、孫であるフィリップと婚約することになった。
「玉の輿よねえ」今日も会社で同僚のマリアンヌに、つくづくうらやましそうに言われたばかりだ。
「そんなことは――」ないとは言いきれなかった。
エミリーの勤め先である〈ウィルソン&ラッセル〉社はアンティークを扱う企業だ。大金持ちの美術品蒐集を手伝ったり、オークションで名前を出したくないという顧客に代わって、指定の品を競り落としたりすることが仕事だから、富豪たちとの付き合いには慣れている。だからといって、エミリー自身はお金持ちでもなんでもない。早くに父親を亡くし、母ひとり兄三人のつましい家庭で育った。その後、兄たちは三人ともそれぞれの分野で成功を収めたが、エミリーはごくふつうの会社員として、毎日地道に働いている。大学時代の学費こそ兄たちに援助してもらったが、より深い知識を身につけるため、働きながら大学院に通った。そのかいあって、仕事での評価は上々だ。〈ウィルソン&ラッセル〉でミスター・バロウズの担当になれたのも、そうした努力の賜だと自負している。
入り口の守衛に軽く頭をさげて、エミリーはコンドミニアムのエントランスに入り、エレベーターを待った。専用のキーがなければエレベーターにさえ乗れないこの場所には、なかなか慣れない。
はじめの頃はとくに、高層階のコンドミニアムや高級車、派手な婚約指輪に気後れを感じた。私にはそぐわない、と。しかし、家も車もミスター・バロウズの祝福の気持ちの表れだ。頑固ながら、何ごとにも一本筋の通ったミスター・バロウズのことは尊敬している。担当になって以来、個人的にも親しくしてもらっていた。結婚話が出る前から、本当のおじいさんみたいだと思うこともあった。何にしても、バロウズ家の御曹司のフィリップに、狭いアパートメント暮らしをしろとは言えない。エレベーターの中で、エミリーはその姿を思い浮かべ、くすりと笑った。
住まいを用意してもらったかわりに、家具は自分のお金で買おう――そう決めて、このところ、エミリーはアンティークショップやインテリアショップをまわり、新居にふさわしい家具を揃えていた。仕事柄、というよりも、もともと美しいものは大好きだ。とりわけアンティークには目がない。そんなエミリーにとって、家具選びが楽しくないはずはなかった。ただ……フィリップが一緒に選んでくれたら、もっと楽しかっただろう。
フィリップは先月から修行という名目でイタリアに長期出張に出かけている。もしや仕事で何かミスをして、そのほとぼりが冷めるまで、国外に追いやられたのではないだろうか。エミリーは薄々そう感じていた。そう思われるふしもあった。フィリップは同族会社に勤めている。融通がきくはずなのに、あまりに突然出張が決まった上に、事情を聞こうとしてもはぐらかされるばかり。そのことにふれてほしくないという雰囲気がありありとにじみ出ていた。
フィリップはキュートで優しい男性だが、どこか頼りないところがある。一方でエミリーは、しっかり者だと言われることが多い。だからこそ、ミスター・バロウズもフィリップとエミリーの結婚を押し進めたのだろうけど……。
軽くため息をついて、エミリーは新居の鍵をあけた。中に入ったとたん、電話が鳴りはじめた。受話器をあげると、フィリップの声が聞こえた。
「もしもし、エミリーかい?」
「フィリップ? ローマはどう?」
「ああ、この街は最高だよ!」イタリアに行ったばかりの頃は毎日のように不満を聞かされていたが、今日のフィリップは明るかった。「それで、ちょっと話があるんだ」
「話って?」
「じつは……君との婚約をキャンセルしたいんだ」
「え?」レストランでオーダーをキャンセルするようなあっさりした言い方に、一瞬、エミリーは何を言われたのか理解できなかった。
「こっちでイタリア人女性と知り合ってね。お互いに一目惚れさ。本物の恋ってこういうことなんだなあ。彼女、僕がいなきゃ生きていけないって言うんだよ」
言葉が出なかった。婚約をキャンセル? ほかの女性に一目惚れ? フィリップはまだしゃべり続けている。
「――でも、君はしっかりしているから、大丈夫だよね」
エミリーは慌てて口を挟もうとしたけれども、フィリップは浮かれた声でさらに続けた。
「婚約指輪は返さなくていいよ。ほかも気にしないで使ってくれ。すべて君のものだ。彼女には新しいものを用意するから」
そして、電話が切れた。
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