第23話 図書館にて

「俊彦さんは優しい人ですね」

「でも、残酷な人だ。コトさんはずっと待っていたのに」


「時代がそうさせたのでしょう。今ですら、先立たれる予定の男性と好んで結婚しようとする人もあまりいません。親戚なら尚更反対する。その渦に巻き込みたくなかったのだと思います」


「そう。これはどうかな」

「あ、芥川龍之介の「煙草と悪魔」ですね」


 日曜日、色葉と桃也は図書館にいた。日は大分経ったが、ようやく桃也が読める本を探しに来たのだ。本屋でもよかったが、最初はコトの家にある彼女が好きな小説を読んでみたいと言い出したので、古書の種類が多い図書館の方が見つかるだろうとやってきた。

 ずっと聞きそびれていた俊彦の話になり、予想以上の過去にうまい言葉が見つからなかった。


「分かりやすいタイトル。煙草は悪魔の仕業……ってことかな?」

「ええ、間違っていません。でも、こんなことを書きながら芥川は煙草が大好きなんです。この本も最後まで読めば分かります、自分への皮肉ってところなのかな」

「へぇ、人間らしいね」


 ぱら、ぱら、人のいない図書館は音があちらこちらに飛んでいき、小さな音でも研ぎ澄まされた自然の呟きのように響き渡る。


「短編小説が集められた本であれば、日に何作か自分のペースで読めますからおすすめです」

「確かに、これならすぐ読み終わっちゃうね。こういうの借りてみようかな」


 立ち読みする桃也の横で、ひょいひょいと何冊か見繕い椅子へ座るよう促す。持ってきたものは短編ばかりで、これが色葉のおすすめなのだろう。休憩スペースで隣り合わせに座り色葉が説明する。


「芥川は特に短編で有名ですからいいと思います。彼は虚弱体質であるのに、一日百八十本もの煙草を吸っていたそうです。元来真面目な性質の彼が何故そこまで無茶な生活をしていたのか私には理解出来ませんが、ついには自殺で人生を終いにしています。小説を書く際も何度も推敲しながら進めていたらしいですから、真面目で頑固故そうなってしまったのかもしれません。まあ、一高の受験の時など真面目とは言えないところもありますけど。それと、彼を尊敬していた太宰も自殺の”癖”があって、最後は本当に自殺してしまいます。真相は分かりませんが、私は虚言自殺の先であったように思えてなりません」


 話を聞きながら、本棚にある芥川の文字を伝って太宰まで流していく。

 本に親しみの無い桃也でも芥川と太宰の名前はよく耳にするし、最期が自殺であることも知っている。知らない桃也ですら思うところはあるというのに、色葉にとってはまさに核心に迫る話題だろう。


 何処を見ているのか、はたまた何も見えていない瞳で、先ほどまでいた本棚に顔を向けたまま一人宣言する。


「私は自殺が嫌いです。いつでも自分が自由に出来る唯一の命であるのに、それすらも大切に出来ない人間は嫌いです。世の中には生きたくても生きられない人がいて、健康なのに自ら命を絶つのは我儘だと言う人もいるでしょう……ただ、ただどうにもならないことが心うちで起きて、自分自身生きられない状況に陥ったらと思うと、例えば不治の病である日亡くなってしまうことと何が違うのだろうと思うのです。当人がどういう状況にいてどう思っているのか分からないのであれば、誰かが見えないところでその人も蔑み責めたてるのはまた、間違いであるとも思うのです」


 静かな告白。


 横にいるのは色葉であるはずなのに、遠くにいる架空の存在にすら思えてくる。早く話しかけないと手が届かなくなりそうで、桃也が話題の中に入り込む。


「それは、自殺は病気だと?」


 前を向いていた色葉が桃也へ振り向く。少しの笑顔にようやく安心した。


「中には、調べる術が無かっただけでそういう人もいるでしょう。ただそれだけじゃなくて、本人にしか知られない出来事があって、その果てにあるものが何かということで、他人が誰の人生をとやかく言う権利は無いのかなって。まあ、友人が命を終わらせようとしていたら全力で止めたいし、自分は絶対に自ら捨てることはしないと決めているくらいですけど」


「難しいことだね。前から思ってたけど、色葉さんていろいろなことを考える人だよね。この話もそうだし、本が好きなだけじゃなくて書いた人のことまで考えてる」


「そんな高尚なことは考えてないですよ。思ったことをだらだら言ってしまってすみません。つまんなかったですよね。私、本のことで話せる人ってコトさんくらいだし、夢中になっちゃって。兄にも、見た目と合わないから止めろって」


 項垂れる色葉の頭を桃也が撫でる。桃也より幾分か低い位置にあるそれを優しく撫でる様はまさに母親で、気持ちがこちらまで流れ落ちるようだった。二十歳にもなって甘えてしまい、途端に恥ずかしさで一杯になり逃げだしたくなる。


「お兄さんも、色葉さんを否定したくて言ったんじゃないと思うよ。もっと良いところを出せばいいってことだと思う。それに」


 今度は両手で色葉の頬を挟む。無気力な呻き声が鳴った。崩れた顔を見て桃也が笑う。


「前も言ったけど、色葉さんは色葉さん。アドバイスをもらってどうするか、止めるのも止めないのも、新しいことをしてみるのも全部色葉さんだよ」

「い」

「い?」

「痛い、です……」


「ご、ごめん!」思ったまま行動していたら力加減を間違えて、ぎゅうぎゅうに押しつぶしていた。謝って手を離すと、ほんのり赤くなった頬を擦って色葉が苦い笑いを零した。


「有難う御座います。ちょっと分かった気がします」

「いえいえ」


 途中で放られていた本の選択に会話を戻して、二人で「これは何回も読んだ」「これは怖い話だけれど大丈夫か」とあれこれ言い合って、とりあえず試しに借りる本を数冊選ぶことに成功した。


 今までは、コトの家にある本のタイトルを適当に覚えておいて、本屋で見かけたら買ってみて読んで途中で挫折の繰り返しであったので、興味が持てそうな本を見つけられただけ大した進歩だ。忙しい中付き合ってくれた色葉に感謝し、「礼がしたい」と伝えれば「では、また美味しいご飯をご馳走になりたい」と言われた。謙虚な年下の学生に頭が下がる。


「僕のなんかでよければいつでも。コトさんも色葉さんといるといつもじゃ考えられないくらい明るいから」

「普段は違うんですか? でも、私も俊彦さんだと思われてるからだし」


 褒められても、他人が褒められていることを聞いている気がしていまいち喜べない。桃也は何度も首を振った。


「それだけじゃないよ。顔が似てるだけじゃ全然違う。色葉さんだからコトさんも俊彦さんだって思うんだよ」

「そう……かな」

「そうだよ」


 年下の、まだ少女とも呼べそうな色葉がくしゃくしゃにさせて笑うものだから、公共の場でなければ思い切り抱きしめてやりたくなる。礼についての返答も健気で、つい口を突いて出てしまった。


「お弁当……作ろうか」

「え! お弁当?」

「やっぱ迷惑、かな」


 色葉が美味しいご飯が食べたいと言うので、一人暮らしで料理も出来ないと聞けば弁当を作るのはどうかと思ったのだが、近しい者がする行為だと色葉の反応を見て反省する。急な話過ぎた。慌てて提案を引っ込めようと謝ると、色葉の顔が徐々に朱に染まり始め、両手を左右にぶんぶん振られた。

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