失くした左手
第22話 刹那の時間
『コトさんはいつも本を読んでいますね』
待ち合わせの五分前、必ず約束より早く俊彦はやってくる。だから、コトはそれよりも前に着いて、こうして今日の気分に乗る本を読みながら待った。彼が来ることを思いながら読み進める話は、一人家で読むよりもずっと気分が良い。本を閉じて鞄に仕舞い、すぐ隣に座った俊彦の涼やかな顔を見つめる。
『ええ、だって物語は、幼い少女にして時には恐ろしい殺人鬼にして、色香を放つ淑女にして、いつだって私を驚かせてくれるのです。こんな間近な冒険は他に無いわ』
彼とは物心付いた頃からの付き合いで、幼馴染というものであった。一歳年上の彼は、知的で、鋭い瞳はいつもコトの前で柔らかに細まり、その顔を見ただけでコトの心は舞い上がってしまう。言葉は相手を思いやる優し気な雰囲気で包み込まれていて、十代であるのに年齢よりずっと上に思える落ち着いた大人の男だった。
『嬉しそうですね。私も読んでみようかな』
『そうして! 私のでよかったらお貸しします』
鞄ごと前に突き出すコトに、両手を胸の前に出して横に振る。
『いえ、私は私で買うよ。だから、良い本があったら教えてください。一緒にここで読んで、感想を言い合いましょう』
秋が葉の色を変えて、でこぼこの道を一つまた一つと塗り広げていく。木々の傍に置かれたベンチも同じで、俊彦とコトを赤や黄色が祝福した。明日も二人はここで会う。ベンチに座り、穏やかな、ゆっくり流れる時を楽しむだろう。
こんな日が続けばいい。
何が欲しいとは言わない。今あるこの時があれば。
一年後も、十年後も、五十年経ったってここで手を取り合って。
『では、私はこのベンチがいつまでもここにいてくれることをお願いしますね。私たちのとっておきの場所だもの』
『それはいいですね。是非、そうしてください』
触ると木の温かみを感じ、俊彦の心と同じでそのまま横になって眠ってしまいたくなる。大切な逢瀬の場は二人だけの秘密に思え、この先誰と座ろうとも隣に俊彦を思い浮かべるのだろう。たとえ家族であっても、やはり俊彦に敵う者はいないのだ。
『ずっと一緒に』
俊彦が手のひらをコトのそれに重ね、一回り小さなコトの手はすっぽりと覆われて見えなくなる。
『ええ、私は毎日あなたを想っています』
『私だって、想わない日はありません。未来の気持ちを証明することは出来ませんが、何年経ってもコトさんが私の一番であり続けることは確かです』
贅沢な物はいらないから、ずっと未来で、痛くなった腰や足をお互いに支えて、孫が走る姿を眺めてみたい。
『何か形に残る物が欲しいですね』
『え?』
思いがけない誘いにコトが見上げる。俊彦の顔は眩しく、コトを一直線に貫いた。
『私たちの想いは言葉だけでは表しきれない。そして、何処にいても二人を繋げる物があったら良いと思いませんか』
『それなら……日本でもすでにされている方もいらっしゃいますが、西洋では結婚する男女が指輪を贈り合う習慣があるのです。先日読んだ本にも書かれていまして、左手の薬指に付けるそうですよ』
『指輪ですか。いいですね、きっとコトさんに似合う。でも、贈り合うということは私も付けるのですよね。この指に似合うかなぁ』
手のひらを空に翳して左右に振る。何気なく言ってみたことをさっそく真剣に考えてくれる様子に、鼓動が速くなるのを感じながら自分の左手も隣に並べる。
『平気です。俊彦さんは繊細で、それでいて少し骨ばった男の人らしい素敵な手をしていますから』
並んだ手のひらが重なり一つになる。コトは心臓の音まで聞こえてしまうのではないかと、嬉しさの中で恥ずかしさを一杯にさせた。
『有難う御座います。家に挨拶を済ませたら、二人で買いに行きましょう』
『はい』
将来の約束を交わす。
幸せというものは、環境ではなく気持ちの問題である。人からしたら不幸に思えても、気の持ちようで幸せになれるものだ。しかし、今この瞬間は、誰に話しても幸せだと手放しで認めてくれるだろう。それくらいコトにとって奇跡の瞬間であった。
――幸せ過ぎて怖いというのは、こういうことをいうのね。
握られた手のひらの温かみがコトを真綿に包み込む。運命の相手に出会えたのだ、明るい未来しか思い描けない。コトは想いを噛みしめながら目を閉じた。
俊彦に召集令状が下ったのは、翌年のことだった。
コトは泣いた。二人の悲劇に、日本の未来に泣いた。女の自分に出来ることもなく、毎日祈る日々が過ぎる。戦地へ向かう前、平和だった頃に購入した指輪を嵌めて再び会うことを誓った日を想った。指輪だけが、俊彦と繋がる全てに思えて、俊彦が無事帰ってくることを励みに必死に生き抜いた。
一年が経ち、国に沈黙が訪れ、やがて他の兵士とともに俊彦も帰ってきた。しかし、俊彦は俊彦でなかった。コトは確認するや否や涙に溢れ、立ちすくんだまま動くことが出来ない。撃たれた腹は皮膚がただれ、左手は五指の内四指を失っていた。痛む体を引きずってコトを訪ねた俊彦は膝を付き、地面に頭を擦りつけた。
『申し訳が立たない体となりました。コトさんとの結婚は出来ません』
俊彦の姿を見て体の心配ばかりしていたコトは、思いもよらない科白に言葉を失くす。俊彦は続けた。
『私はもう、あなたを両手で強く抱きしめることも、あなたとの想いを左手に嵌めることだって出来やしない。ご両親も当然反対なさるでしょう』
俯いた頭から地面に染みが広がる。
『左手にあなたとの約束があると知っていたのに、銃を握る右手を庇ってしまったのです。銃が持てなくなれば二度と会えなくなると思ったら……僕はあなたに会う為に、あなたを裏切ってしまった』
自由の利き出した体を、地面に蹲る俊彦へ投げ出す。赤子を抱くように弱く強く、決して離さないと誓いながら背中を擦る。
『違います。それは違います。生きて帰らなければ、叶うものも何一つ叶いません。俊彦さんは、私との約束を守る為に動いてくださったのです。私は指輪が大切なんじゃありません。俊彦さんがいて初めて、その指輪だったのです。だから、あなたがいなくてはッ私はあなたがいなくて、どうして生きていられましょうか!』
顔を上げた俊彦の瞳と重なる。顔中、涙と泥に塗れ、汚らしい様はそれでもコトの唯一だった。
帰ってきてくれた。
コトには返してくれない。
『でも、僕は死ぬのです。あなたと手を取り合って生きていかれない僕に、あなたを守る資格は無い』
左手を見る。白い布が幾重にも巻かれていて、その先にあったものを思うと、コトも大粒の水を流すしかなかった。今も指輪は戦地に置いてけぼりにされているのだろうか。コトと出会うことを、今か今かと待っているのだろうか。
布に手を触れる。
『治しましょう。左手はもう、ありませんが、他の治療ならば受けられましょう。私にはあなた限りなのです。あなた無しでは、この世はもうあの世と何も変わりません。指輪だって、まだ私のものがあります』
『指輪……なら』
無事である右手をズボンのポケットに手を入れ、乱暴に引き出す。そこには、俊彦と刺繍されたベージュのハンカチが握られていた。震える手がコトの右手にぶつかる。
『開けてください』
『これは……』
中に、汚れた輪が一つ。ところどころ赤茶色く変色してしまっているが、確かに二人の約束証であった。ハンカチでごしごしと拭いてやるが、一向に汚れが落ちることはない。
血だ。
俊彦の血で、指輪も泣いている。
きっと、覚悟して必死に指輪を守ったのだ。自分の指から引き抜いて、指輪だけでも持ち帰ろうと。
『とても見られたものではなくなり、私はもう嵌めることは出来ませんが、どうしても置いていくことは出来ませんでした。勝手だと、我儘だと罵ってくださって結構です。皆が戦い抜く間、私はコトさんを想ってしまいました』
『何をおっしゃいます。同じです。皆それぞれ大事なものがあって、大切な人がいて、その為に戦っていたのです。だから生きようと思うのです。何も違いません。私たちの大切な指輪を守ってくださって、有難う御座います』
両手で包み込む。温もりが伝わってくる。
『磨いたら綺麗になるやもしれませんよ。それに、左手は無くなってしまったけれども、右手が残っているじゃありませんか。傷がよくなればきっと、日常生活も送れますし、指輪も右手に嵌めればいいのです』
コトの願いは一つ。俊彦と一緒にいることだけ。
誰に反対されようと、コトの道はそれしかなかった。
俊彦が来た時と全く同じに、地面に頭を擦り付けて言った。
『それなら一年、あと一年待ってください。それまでに私の体がよくなれば……。もしその間に良い人が現れたら、迷わずその手を取って結構です』
コトも俊彦に合わせて頭を下げる。
『すでに一年、遠い地にいる俊彦さんを待っていた私です。もう一年なんて、あっという間ですよ。私は軽い女ではありません、重い女だと面倒に思ってくださっても待ち続けます』
『……あなたはいつでも嬉しい言葉をくださる』
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