第16話 癖
「お久しぶりです」
なんと声をかけていいかわからずに、橙子はとりあえず身近にあったありきたりな言葉で目の前の大介に声をかけた。
一緒にいた頃の親しさとは違う、よそよそしい口ぶりのこの一言が数年間の空白を表していた。
橙子の声に気づいた大介がこちらを向いた。
「おぉ久しぶり! あの、今回はありがとう。突然連絡してさ。」
目を少し細め後頭部を右手で撫でながらにこりと笑う大介。
これは照れ隠しだったり、困った時にする大介の昔からの癖だ。
待ち合わせに遅刻した時も、ケンカして仲直りする時もこの仕草だったし、就職する前に夜景を見ながら指輪をくれたときもそうだった。
大介の姿を数秒見ただけでそんなことを思い出した自分が今だに大介という過去を引きずっていることにあらためて気づかされた。
しかし、その細目で笑う大介の顔は橙子が繰り返し思い出してきたそれとは違っていて、随分とくたびれたような気がした。
橙子と別れてからかなり長い時間が経ったのだから仕方ないことではある。
ただ、それとも違っていて、昔の感覚から思うに『精神的に疲れている』状態なのだということが感じ取れた。
「なにかあったの?疲れてる顔してない?」
心配する一言をかけたかったが、それを今や彼女でもなんでもない橙子が、大介の近況も知らないなかで口にしないほうがいい気がして言葉を飲んだ。
「久しぶりに帰ってきたら、道もさっぱり分からなくなっててさ、店はこっち?」
橙子と付き合っていた頃は、この辺りにもよく飲みに来ていたのだが、そんなことも忘れてしまったのだろうかと思うと少し悲しくなった。
「あ、はい、こっちです」
つっけんどんに言うことで、大介との再会を待ち望んでいたことが悟られないようにした。
そして大介より一歩先に歩くようにしてすぐそこの待ち合わせの店へ誘導したのだった。
本当は会いたかった。
もう、何年も、何度も会える機会を待ち続けた。あんな別れ方をしたけれど、大介だって私のことをきっぱりと忘れるはずはないと信じ続けた。思いに蓋をすることで忘れようとするだろうけれど、2人で過ごした時間や経験はそう簡単に忘れられるものではないと、信じた。いや、そう信じることでしか橙子は自分で自分を支えることができなかった。
そうやって、耐えてきた。何年も。
康之と付き合っても、どうやっても埋まらない穴を、その他の人から見れば馬鹿らしく思えるにちがいない空虚な思いでなんとか修繕しようとしていた。
塞がるはずもないのに。
やっと会えたね。
橙子は胸の中でつぶやいた。
遠距離恋愛でなかなか会えなかった二人が、初めに交わす言葉だった。
駅の改札でも、車の中でも、軽い抱擁と一緒に大介は優しくその言葉をかけてくれた。
しかしそれはもう、2人が今の橙子が選べる言葉ではない。口にしたところで、大介にとっては迷惑なことだろうし、橙子が今だに気持ちを引きずっているなんて思われたくなかった。橙子は自分の気持ちをとにかく表に出すまいと、硬い表情にならざるをえなかった。
2人同時の登場に、秋生は驚き、聡太は少しほっとしたような表情で迎えてくれた。
この日の飲み会は秋生にセッティングしてもらったものだった。
秋生は聡太の後の部長だったから、みんなの連絡先を知っていたし、
図書館メンバーと言っても、映研部員の派生みたいなものだったから、秋生に声をかけてもらうのが一番だった。
テーブルにつき聡太の隣に大介が、秋生の隣に橙子が座った。
「お前たち、待ち合わせて来たの?まさか?」
耳打ちするように秋生が聞いてきた。
「まさか!店の前でばったり会ったのよ」
大介と別れた時に、大介に会いに行くべきだと最後まで言ってくれたのは秋生だった。
秋生はいつも明るくてひょうきん者なのだが、ここぞと言った時には頼りになる男だ。
「大介さんめちゃくちゃ久しぶりですね!
元気にしてたんですか?
もー、連絡も取れないから心配してたんですよ!」
秋生は、橙子がうまく話せないことを読んでのことか、大介との会話のきっかけを作ろうとしてくれた。
橙子の席の目の前に大介が座ったことで、
橙子は大介を直視できず、目を合わせないように終始うつむき加減でいるしかなかった。
「うん、ごめんな。地元の友達には全然連絡してなかったんだけど、このところ、プライベートでもちょっとあってねー。だからなんとなくみんなに会いたくなって連絡つけて貰ったんだよ。」
ちょっとって、なんだろう?
なにがあったの?
橙子は気になって仕方がなくなったが、それを問い返すより、問い返したときに集まるみんなの視線が思い浮かんで何も話せなくなっちゃう。
こんなことなら、集合時間より早めに待ち合わせて2人で話でもしたらよかったかな。
でも、そんなこと私からは言えない。
私からは大介に近寄らない。
自然と口が一文字になっていたことを橙子自身は気づいていなかったが、
しんみりした話になりかけたのを察してか、「全員揃ってないけど先に飲み始めようか」と、聡太が言い出して、まずはビールで乾杯することになった。
生ビールのジョッキが四つ、テーブルに運ばれてくると、各々手に取り乾杯をした。
よく冷えたビールは、夏もいいけれど、寒い冬の暖房の効いた暖かい部屋で飲むのもまた格別だな、と二口目にいこうとしたときに、
真正面からの視線に気づいてしまった。
もちろん大介だった。
「お酒、そんなに飲める方じゃなかったよね?無理しなくて、ほかの頼んだら?」
大介が気を利かせたつもりで言ってきた。
「え?全然平気だよ?すぐ赤くはなるけど」
タメ口で話した後で、あ、しまったと思った。
別れてから何年経ったと思ってるの?
少しイラついたのが語尾に出てしまったかもしれない、とそちらも気になったが、お互いよそよそしいままだったためか、大介は口ぶりについては気に留めてはいないようだった。
「昔は、弱かったけどね。うちの会社飲み会多くてさ、鍛えられたのかな?何でも飲むよ。」
大介と別れてから、異動があり、その部署の上司がお酒が好きで、毎週のように飲む機会が増え、料理に合わせてお酒を変えると言ったことが橙子もできるようになっていた。
家でも康之と食事をしながら晩酌することもあり、二十代前半のまだ甘いカクテルぐらいしか飲めなかった自分とは違うこと、それから大介の知らない時間を過ごしてきたことを暗に伝えたかった。
そうなんだ。と、二口目を口にする大介の、ジョッキの持ち手ではなくグラス本体を掴み、小指を立てないように気を配るせいか。小指が小刻みに動く癖は相変わらずだった。
「大介くんひさしぶり!元気にしてた?」
乾杯後、間もなくして深雪と紘子がすでに一杯飲んできたのだろうとわかるほんのり赤くなった顔で現れた。
「森谷、野崎、先にで飲んできたの?好きだねー、お前たち」
と、聡太が相変わらずだ、と言わんばかりの表情をして、生ビールでいいか?と飲み物を追加注文していた。
その後隆もあらわれて、久しぶりのメンバー集結となったのだが、紘子とは今も定期的に会っているし、映研の飲み会は不定期ではあるがたまに開催されていたから、橙子が久しぶりに会うのは大介と隆だった。
「橙子、今日はひかりちゃんのこと康之さんが見てくれてるの?」
紘子が聞いてきた。
「うん、今日は2人で夜中ゲームするってはりきっててさ、私がいない方がうるさいのがいなくなって嬉しそうだったよ。『ママゆっくりしてきてねぇ』だって。」
「そりゃあ、パパのほうが子供に甘いからね、好き放題できるよね。康之さんならちゃんと面倒見てくれるし、今日は、ゆっくり飲めるね」
明るく笑いながら、顔を正面に向けると、大介がこちらの話を聞いていたのか目が合った。
到着順に席について行ったため、奥から聡太、大介、深雪、その向かい側に秋生、橙子、紘子が座り、隆はお誕生席に着き久しぶりのメンバーでスタートした。
再会 ひらり @hirahira34
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