第五章(16) 長い旅のはじまり

 これから過酷な旅が始まるというのなら。


 数日ゆっくり休んだ方がいいと、メサニフティーヴは提案した。

 月が二度と戻らないと言うのなら、なおさら。起きたことは、もう戻らない。急いだところで、変わらないのだから、と。


 最初こそ、フェガリヤは反対したが、最後には兄の言うことを聞いた。


「少し、時間をいただきます」


 ……メサニフティーヴは彼女に心の整理が必要なことは、見抜いていた。

 例え、正体が何であろうとも、小さな彼女に背負わされた、あまりにも大きな使命。現実。世界。それをもっとしっかり受け止める時間が必要だと思ったのだ。


 そしてメサニフティーヴ自身にも、時間が必要だった。

 この谷を離れる決意と、妹と共に旅に出る決意、その二つを改めてする時間が。

 決して迷いがあったわけではなく、心により、刻み付けるために。


 フェガリヤの言う通り、赤い月は二度と銀色には戻らなかった。夜になる度に、世界は重々しい赤色に包まれる。


 朝起きて広い世界を見渡せば、どこかから激しく煙が昇っている。耳を澄ませば嘆きか、それとも憎悪か、悲鳴が風に乗って聞こえてくる。


 この世界に、旅立たなくてはいけない。


「兄様、ありがとうございました」


 ついに旅立ちの朝。メサニフティーヴの隣でフェガリヤはふと微笑んだ。緩やかに吹く風が、銀髪をなびかせる。


「もう、大丈夫です……兄様は、大丈夫ですか?」


 黒い竜は深い緑色の瞳を細めた。


「私も大丈夫だ」


 その視線は、広い世界へと向けられる。

 一体何が待ち受けているのだろうか。どれほど過酷な旅になるだろうか。


 何にしても。


「……私にはお前がいる。お前がいるから、これからも大丈夫だ」


 言えば、フェガリヤはきょとんとしてしまった。しかし声を漏らして笑った。


「私にも、兄様がいます……兄様がいれば、大丈夫」


 銀の少女はひらりと兄の背に乗った。

 妹を乗せた兄は、ついに崖から羽ばたく。


 ――過酷な旅が始まった。いつ終わるかもわからない、救済の旅が。

 しかし奇妙な兄妹は微笑んでいた。微笑んで、太陽が昇る空へ飛んでいった。


【第五章 月の涙と守護者 終】

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