第3話 手中へようこそ
「可能でございますよ」
目的の骨董品屋に着いて早々、店主は明るくそう言った。
店はしとりとした静寂に満ち、リキュールの匂いが薄く漂っている。柿渋で手入れされた木の床がきしりと鳴るそこは、ランプの明と夜の暗が程良い色気を醸し出し、店内の空気を琥珀色に染めていた。
店主は店の雰囲気を一点に集めて人間にしたような人だった。奇妙な店だ。戸口から店の隅まで、果ては店主の目を含めても、私という不安定な存在を圧するものは無かった。
だからだろうか。常ならば心の奥にしまい込んでいる本音が、つい滑り出てしまったのだ。花に愛されたい。清浄な視線に洗われたい、と。人、の持つねっとりした熱がない花に、包まれたいのだと。
店主は店の奥へ引っ込み、一つの花瓶を抱えて戻ってきた。陶器製のそれは細めの儚げなフォルムで、色味も相まって、壊れやすい桜貝を彷彿とさせた。
「この花瓶にお好きな花を一輪挿して、朝陽が当たる窓辺に置いて下さい。じきにあなたの願いは叶います」
店主は穏やかに言いながら、花瓶を手渡してくる。私は肩をすくめて小さく笑った。おまじないのような言葉を添えて、私の夢に寄り添いながら商品を勧めるのは商売上手と言える。
「頂きます」
銀貨数枚と引き換えに、私は琥珀色の店から花瓶というほのかな夢を買った。店主の言葉を鵜呑みにしたわけじゃない。だけど店主の言葉によって、まどろみのような心地良さがこの花瓶に絡んだから、欲しくなった。
店主の言う通りに花を飾ろう。何も起こらないだろうけど、それでいい。この花瓶が私の好きな花を生かす瀟洒な家になるだけで、私は満たされる。帰宅した私は、早速白い矢車菊を活けて眠りについた。
花瓶から花が消え、代わりに清艶を体現したような小さな女性が現れたのは、翌朝の事だった。
「……綺麗だ、あなたは」
自然に落ちた声は、濡れていた。はらはらと涙がこぼれていく。目の前の光景に心が耐えきれず、呆然としたまま、私は立ち尽くしていた。陽光の無垢な輝きと調和する、女性のまばゆいばかりの美しさに、飲み込まれてしまったのだ。
私は、生まれて初めて恋をした。一目惚れだった。
正確に言うなら、意識の下で花というものに激しく恋焦がれ続けていた事に気付かされた。人の姿をした花に、私は鏡花と名付けた。触れたら崩れる砂糖菓子のようなその人は、硝子コップに注いだ水だけを口にして、日に日に大きくなっていった。人間と同じサイズになった頃には、私は彼女の虜になっていた。
愛する人はいつも窓辺の椅子に腰掛けて、微笑みながらハミングしている。隙を見ては名を呼び合い、額同士をすり合わせてくすくす笑い合った。店は繁盛していった。まるで彼女が来て、店に魔法でも掛かったかのように。
◇◇◇
「手練手管の蛇と、無知な卵。端から薫さんに逃げ道はありませんでしたね」
窓辺で蜂蜜酒のフレーバーの煙を吐き出して、あたしは下ろした髪を後ろへ撫でつけた。夜はきりりと香りが立つ。あたしもそう。
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