二.姉妹
闇。血。肉。咀嚼音。断末魔。命乞い。嘲笑。
妹の悲鳴。自分の名。戸を開け。外へ。走る。
◆
「あら、起きたみたいですよ」
傍らに立つ巫女装束の女の姿を認めて、フルクマは跳ね起きた。
空を見る。木漏れ日に陰りは無い。
意識を失った時間は、きっと十かそこら数える程度。
少女はそれを避けることなく見送り、「元気ですねえ」と言っただけだった。
巫女装束の少女の名は、確か。そうだ。名前は何だったか……。
「宿儺……?」
「はい、スクナと申します」
スクナは微笑んだまま答える。
その仕草があまりに自然すぎて、かえって違和感を覚えてしまうほどだった。
何しろスクナの隣――いや、横か――には、姉妹らしい、もう一つの顔がある。
もう一方の黒髪を結った娘の視線は、刺々しい。
友好的ではない雰囲気がありありと感じ取れるほどに。
フルクマは言った。
「さきほど、俺を殴ったのはそなたの方だな……」
「そうだ」と言うのに合わせて、「こら、ヒコナ!」とスクナが叱責する。
ヒコナと呼ばれた娘は、舌打ちを一つ。
「ヒコナだ。姉さんの妹。そっちはなんだ」
「なんだ、とは……」
「名前だ」
少女――宿儺を少女と呼んでいいのか疑問だが――はやや苛立たしげに言った。
「こいつが名乗らないなら、私も名前で呼ばんぞ、姉さん」
つまり、ずっと「あんた」だとか「こいつ」とか呼ぶという事か。
そういえば確かに名乗りがまだであったことを思い出しつつ、フルクマは答えた。
「俺は、フルクマという」
するとヒコナは再び不機嫌になり、「あんた」と言って舌打ちをした。
隣から姉のスクナが穏やかな、けれど鋭い目で睨んだ事を察知したからだろう。
忌々しげに、言い直す。
「フルクマは、まだやる気か?」
「当たり前だ」
フルクマは言って、自分の右腕からの燃えるような痛みに、顔をしかめた。
まるで腕が二倍に膨れ上がったかのようだ。脈拍と共に、ずき、ずきと疼く。
これでは刀を揮うどころか、まともに握ることすらできないだろう。
(……だから、なんだというのだ)
腕一本なくとも、いや。
たとえ手足がなくとも、首だけになったとて、鬼を殺す。
その覚悟に揺るぎはない。
「あら、まぁ。……それなら仕方ないですね」
「……くそッ」
「ヒコナが条件を出したんですもの。フルクマ様はそれを満たした。でしょう?」
ソッポを向いてしまった妹に苦笑しつつ、彼女はフルクマの右腕をそっと撫でた。
「ごめんなさいね」という囁き声。
「これでは乱暴すぎると私は反対したのですけれど……ヒコナは少々短慮なのです」
「姉さんが気長すぎるんだ」
ヒコナが忌々しげに吐き捨てた。
「いちいち付き合ってたら、時間が足りない」
スクナのたおやかな白い指先が腕をくすぐる度、不思議と痛みが引いていく。
何より、スクナが顔を近づけるということは、ヒコナの顔も近づくということだ。
異様なまでに美しい姉妹の相貌。
それを間近にフルクマは、どこに目を向け、何を感じれば良いかわからなくなる。
芳しい香り――それが各々で異なるのだ――が呼気と共に肺に吸い込まれる。
まるで頭がくらくらと、酩酊したかのように揺れ動く。
似て非なる、けれど間違いなく極上の美酒を二種、同時に口に含んだようだった。
色香。そういうものか。
(気を、しっかともて……!)
呑まれては、いけない。
これは異形の、人外の美だ。フルクマは、意識を振り絞った。
「……条件、とは?」
「ヒコナの一撃を受けても、心が折れない事、ですね」
「あと、今日中に起きるかどうか、だ」
ふん、と。ヒコナが鼻を鳴らした。
不本意だと言わんばかり――いや、それはスクナも同じか。
フルクマに向ける言葉も、感情も、全てが『仕方ない』というものでしかない。
(だが、僥倖だ)
どうであれ、鬼を殺す術を教われるのならば。
「では、鬼を殺す術を」
「教えてさしあげるしか、ないようですね」
微笑みながら立ち上がった彼女たちは、ゆったりとした動きで社の方へ歩き出す。
ちらりと肩越しに振り返ったヒコナが、小さく鼻を鳴らした。
(ついて――ついて来い、ということだろうか?)
フルクマが姉妹の背中を追うように歩き出した時――……。
不意に、背の重みが消え失せた。
慌てて振り返ると、背負っていたはずの刀が、ない。
「これは、今は使わないだろ」
預かっておくと、そう言うヒコナ――彼女側の腕に、刀が掴まれていた。
(いつの間に――!?)
つい一瞬前まで、たしかに刀はフルクマの背にあったのだ。
それがヒコナの手に握られている。
どのように奪われたのか――……。
フルクマにはまったくわからず、彼女の背を呆然と見送る事しかできなかった。
そうして、スクナとヒコナの姉妹は、フルクマを古びた社へといざなった。
人が暮らすような建物ではないと思ったが、事実、その通りであった。
彼女らがフルクマを先導するのは、社の奥に隠された岩屋である。
薄暗い中、姉妹は地下深くへと続く階段を指し示す。
「こちらへ」
「転ぶなよ。面倒だ」
(……何が、
前を行く二人は、せいぜいが
(それにしても――この二人は……。)
何から何まで、異様であった。
二人の娘が顔を寄せ合い、小鳥が嘴を交えるように仲睦まじく話し、歩んでいる。
だが、彼女たちの頭は同じ一つの胴の上に乗っているのだ。
神々しさすら覚える整った肢体の、その上に。
脚を進めるつど、美しい黒髪が動く。
長く艷やかなものと、丁寧に結われたものとが。
巫女装束から覗く腕は四本。
それが各々の意志でもって、完璧に調律を保った整った動きで揺れている。
二本の足の歩みと、四本の腕の動きに、狂いは無い。
間違いなく異形。それでいて――そう、それでいて、美しい。そして……。
(……強い)
フルクマは知らず、先程打ち砕かれた片腕を撫で擦っていた。
どうしたわけか、痛みは殆ど感じられなくなっていた。奇妙で、恐ろしかった。
(だが、これならば)
鬼を殺す術とても、学べるはずだ。
その確信があった故に、彼は迷わず階段を下っていったのだが……。
果たして、そこには地獄のような光景が広がっていたのである。
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