宿儺斬鬼行
蝸牛くも
一之巻 宿儺姫
序.宿儺
必死の形相の、小僧である。
まだ若い。夏を二十も迎えてはいないだろう。
青年と言うには少し幼げで、少年と呼ぶには背が高い。
汗水垂らし、歯を食いしばり、懸命になって森の奥へ、奥へと進んでいく。
その髪はぼさぼさと乱れ、その着物は薄汚れている。
袖裾から覗く肌は、枝葉に切られたと思わしき赤い筋が幾重も刻まれている。
だが、その瞳が燃えていた。
爛々と、異様な――殺気だった、あるいは必死ともいえる何かが、火の薪だ。
その背には刀があった。
拵えこそ立派だが、薄汚れ、いくさ場から掻っ攫ったような大ぶりの刀。
腰に帯びては体が傾ぐ。故に背負うしかない。
山の麓で会った老人は、目をぎょっと見開いて言った。
「なにをお斬りになるおつもりか」
馬鹿馬鹿しい。フルクマは吐き捨てた。
「鬼を斬るのだ」
◆
ヒダノの地。
人の通わぬ深き山を越えたその先、鎮守の森の奥に
宿儺とは身のたけは
ひとたび宿儺が人の世に降り立てば、鬼の尽くを
しかし心せよ、宿儺は人に非じ。
息を吸うが如く鬼を屠り、魔を討つあれらは、荒御魂に他ならぬ。
人にできる事は、ただ両の手を合わせ、何卒どうか我らを救い給えと願うのみ。
……という話を聞いたなら、大概の者は一笑に付すであろう。
迷信深い田舎者の考えそうな事だとか、何とか言って。
おおかた鎮守の森とやらに子供を寄せ付けないための教訓話。
あるいは森の奥に値打ちものでもあるやもしれぬ、とか。
実際、どこにでもあるのだ。そういった話が。
森の奥には神がいる、怪物がいる、鬼がいる。
――鬼。鬼など。
ヤマトは帝の御威光に満たされているのだ。鬼も、宿儺も、いるわけがない。
そう思うのが当たり前だ。
フルクマも例外ではない――――数ヶ月ほど前までのフルクマであれば。
獣すら歩けぬ深い森、茂みを抜けて歩く。
フルクマは大きく息を吐いた。
額に滴る汗を、まるで邪魔者を殴りつけるかのように拳で拭った。
昼尚暗い森の中。陽光は届かず、風さえ吹かず。
だというのに、梢がざわざわと揺れていた。
ひどく、暑い。
空気そのものが熱を帯びているように思える程に。
そしてなにより、濃い緑葉の香りの中に混じる異臭が、フルクマの鼻についた。
腐肉とも違うそれは、何か生き物の臓物を思わせる臭いでもあった。
それがこの森全体の、大気のように感じられて仕方ない……。
(これが『山の神域』とやらなものか)
宿儺とやらは、鬼なのやもしれぬ。フルクマは思った。
別にそれでも構わない。それなら宿儺を斬るだけのことだ。
そうしてふと見やったその先に――フルクマはそれを見た。
社だ。
ぽっかりと、まるでそこだけ木々が避けているかのように出来た空白。
そこに、古びた社が建っている。
鳥居があり、注連縄があった。
石仏があり、札が貼られていた。
卒塔婆が地面に突き立てられ、呪言が刻まれていた。
いくつも、いくつも、いくつも、いくつも―――……。
何かを祀っているのではない、これは――……。
(畏れている……)
フルクマは、構わずに進んだ。
ずんずんと下生えを踏み散らし、社の前に立つ。
奥に向けて、叫んだ。
「宿儺よ、いるか!!」
返事はない。当然である。人の気配などなかった。
――ここは生ける者のいる場ではない。
ざわざわと、フルクマを嘲笑うように木々の葉が、風もないのに揺れ動いた。
だが、フルクマは社の奥を睨みつけたまま、微動だにしない。
握りしめた拳。爪が掌に食い込み、血が滴り落ちる。
(ここまで来たならば、何としてでも会わねばならぬ。何としても……)
と、その時である。
「――あなた、宿儺を求めて参られたのですか?」
背後から、瀟と涼やかな声が響いた。
清らかで、鈴の音のような、声。
フルクマは無言のまま振り向く――そこには、二人の少女がいた。
歳の頃はまだ十五にも満たないだろう娘らだ。
顔立ちは、瓜二つ。双子と見えた。
片方は腰まで伸びた艶やかな黒の長髪を揺らし。
片方は同じ程に長い髪を結っている。
巫女と思わしき装束で佇む二人の姉妹。
彼女らは、この世のものと思われぬ雰囲気を纏って、そこにいた。
男なれば、声を失うだろう。それほどまでに美しい、二人の娘。
無論、彼女たちはその美貌を隠すような、揃いの白い清らかな衣を纏っている。
だが、だからといって、その色香が衰えるわけではない。
ふくりと膨らんだ腿から膝が緋袴を持ち上げる稜線にせよ。
巫女装束で覆われて尚も崩れる様子のない胸元の豊満さにせよ。
その肌の白さ、黒髪の艶やかさにせよ。
満月か三日月のような金色の瞳、淡桃色の唇にせよ。
どれをとっても完璧な美しさを持った女体であった。
その二つの顔が――――……一つの胴の上に、あった。
やや幅広い肩の上に、細い首が二つ。
すらり伸びて、美しい娘の顔が、やはり二つ。
左側に穏やかな微笑を湛えた、長い黒髪の娘。
右側に同じ美しい黒髪を結った、凛々しい娘。
そしてふくよかな胸を覆う巫女装束の右肩からは二本、左肩からも二本の腕。
しかし、その異形さえ彼女ら姉妹の美しさを損なってはいないのだ。
その姿にはある種の妖しさがあった。
この世のものではない、儚げな花の美しさがあった。
双面、四臂。フルクマの、声が震えた。
「……宿儺」
「問うならば、まずはお前から名乗れ」
剣で打つような、凛とした声。応じたのは、髪を結った方の娘だった。
研ぎ澄まされた刀のように鋭い目が、フルクマを睨む。
だがフルクマはその視線を真っ正面に見つめ返しながら答えた。
「俺は、鬼を殺すものだ」
すると、もう一人の……黒髪を流した娘の方が口を開いた。
「では何故ここへ? 鬼を滅するのであれば、鬼のいる場に行けば良いでしょうに」
宿儺を求め、わざわざこのような場所に足を運ぶ必要はないはずだ。
穏やかな口調と、声。最初に呼びかけたのはこの娘の方だろう。
だが、そこには薄皮一枚、明確な拒絶の意志があるように思えてならない。
姉妹はフルクマを、敵として見ている。
肌身を突き刺す重圧を、フルクマは感じ取っていた。
胃の腑がねじれて、吐きそうなほどだ。
機嫌を損ねればフルクマなど一捻りであろう。それが、わかる。
(だが、構うものか)
死んだも同然の身だ。死ぬのは構わない。やれるだけの事をやった後ならば。
「宿儺よ、あなたがたが真に鬼を降伏する術を知っているというのならば――……」
フルクマは、言った。
「俺に、鬼を殺す術を授けてくれ……!!」
ざ、と。沈黙を遮るように――初めて、風が吹いた。
少女――長い黒髪、左側の頭の娘は、ぱちくりと目を瞬かせた。
フルクマが何を言っているのか、わからないといった風だ。
「どういう意味かしら、それは」
「そのままの通りだ」フルクマは言った。「俺に、鬼を殺す術を教えてくれ」
「だからそれじゃあわからないんです。具体的に言ってくれませんか?」
「……殺さねばならん、鬼がいるのだ」
フルクマは言う。双子の表情に驚きはなかった。
むしろこうなることを予測していたかのような反応だ。
そうして二人は目を見合わせたあとに、もう一度、問いかけてくる。
「鬼を殺してくれ、ではないのです? どうして、あなたが殺す必要が?」
娘の声に険が入る。
彼女は、問いを投げかけながらもフルクマのことを疑っているようであった。
無理もないことだと思ったが、今更引き返すつもりはない。
「それは――……」
「……面倒くさいな、姉さん。もう良いだろ?」
双子の片割れの言葉が響いた、と思った瞬間に、全ては終わっていた。
女の半身が舞い踊るように翻るや否や、強烈な打撃が異様な方から彼を襲った。
腕である。それも四つあるうちの一つ、左腕が凄まじい勢いで振るわれたのだ。
(は、や――――!?)
咄嵯に構えた腕が、大木槌で殴られたかのようにひしゃげ、軋む。
激痛に呻く暇もなく、フルクマの体は大きく吹き飛び、地面に叩きつけられた。
「ちょっと、ヒコナ……!」
「良いだろ。手加減はしたし」
「相手はただの人なのよ、死んでしまったらどうするの!?」
「――……したけど、受けられるとは思ってなかったな」
そんな姉妹の声を聞きながら、フルクマの意識は暗黒の海に沈んで、消えた。
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