耳の話
子供の泣く声で目が覚めた。
辺りは濃い闇を纏い、光は薄らと遠くに揺らめいている。
高すぎる天に灯る灯は深い底までは照らしてくれない。
湿った地面と濁った空気。
日常とは遠すぎるこの場所にその光は届かない。
何故。
どうして。
そんな怨嗟が渦巻く地の底で、一人少年は闇の奥を見詰めていた。
嘆く人々の間に埋もれて、ただ闇のその奥を。
――お前等がただ嘆くだけなら、早く其処を退いてくれ。
死の予感に纏わり付かれて絶望に酔い痴れるのなら好きにすればいい。
此処でじっとしていればいい。
少年はごめんだった。
こんな所で、何もせずに死の来訪を待っているのは嫌だった。
――退け。退いてくれ。
折り重なって倒れ込む身体が、少年の動きを奪う。
自分の身体がどんな姿勢をとっているのかもよく解らない。
そこら中が痛みを訴えている。
それでも、少年は生きている。
その瞳は遠くに光を捉え、この心臓は確かに力強く脈打っている。
――俺は、生き残る。
少年は力を絞って肉塊を掻き分ける。
ほら、腕が見つかった。
見つかった腕に力を込めて、肉塊から這いずり出る。
ほら、胴体が見つかった。
殆ど屍の様な肉塊を乗り越える。
ほら、足が見つかった。
見つかった足に力を込めて、少年は立ち上がった。
生まれたての動物の様に。
よろよろと数歩進むと、何かに頭をぶつけた。
ああ、頭も見つかった。
ほら、五体満足。
傷だらけでも、なんだか無性に重くても、この身体は存在した。
振り返る。
其処には巨大な蠢く影。
大量の肉塊を乗り超えて、自分は此処から生まれ出た。
少年は次に天を仰いだ。
遠く、遠く深い空洞。
その遥か先に、確かに小さな灯りが見える。
それは此処には届かないけれど。
少年には其処にある事が判ったから。
小さな希望を脳に刻んで、少年は入り組んだ暗闇を進み始めた。
どれだけ歩いたか判らない。
右の膝が嗤って、存在を消す。
まだ左足が残ってる。
壁に手をつきながら、片足を引き摺って少年は進んだ。
直に、左の足も消失した。
力の入らない腕で、少年は地を這い進んだ。
掌が消えた。
胴を蠢かせて進んだ。
心臓が、煩い程に存在を主張する。
俺は、まだ、此処に在る、と。
動けなくなった少年は、ただその音を聞いていた。
静かな冷気が、その鼓動すら奪おうとやってきた。
歯が震えて音を立てる。
その存在を主張する。
まだ、俺は此処に在る。
荒く漏れる呼吸が、この存在を主張する。
まだ、俺は此処に在る。
それも、直に消え失せる。
少年は空を仰いだ。
果たしてその先が、本当に天かは判らない。
それでも、少年が今上だと思う方向を、思い切り睨み付けた。
横穴を進み、もうあの光は見えないが。
それでも、心に残したその残像が見える気がした。
在るのはただ闇ばかり。
その奥に、深い、揺らぐ様な闇を見た。
『 ―ギギィ、ギ― 』
軋む様な不快な音。
何故かその音を、少年は『嗤っている』んだと思った。
『 ―ギ、オ前ハ、ギギギ、死ヲ、ギ、拒ム、ノカ…― 』
闇が、少年に問い掛ける。
それは言葉ではなかったが、少年はその声を感じ取った。
明らかな異形。
それでも、この状況で、ソレに恐怖は感じなかった。
当たり前の様にその声に答えた。
――死なない。俺は、あの光の下まで行く。
『 ―何故― 』
理由などなかった。
あまりに唐突に奪われた日常を取り戻しに行くのだと。
この理不尽な状況から平凡な日常に戻るのに、何の理由がいるというのか。
生きたい理由などない。
生き残る使命などない。
ただ、だって、ムカつくではないか。
こんな理不尽を受け入れるのは、腹が立つ。
だから否定するのだ。
戻って、日常に戻って、この理不尽を否定する。
しかしこれでは、それすらも侭ならない。
――あぁ、ムカつくな…。
『 ―助カリ、タイ…カ?― 』
――アンタは何を聞いてたんだ?当たり前だ、こんな所、俺は…出て。
光の下へ、あの光の届く所まで、行くんだ。
『 ―ギ、ギギギ、ギギギギギ― 』
闇は嗤う。
『 ―オ前ニ、助カル、力、ヲ…ギギギ…ヤロウカ― 』
少年は嗤う闇を見据える。
その真意を探る様に。
『 ―ギギギ、代ワリニ、欲シイ、ギギ、― 』
ふぅっと、息を吹きかけられた様に感じた。
あらゆる音が途絶えた。
彼の生命を告げていたあらゆる音が。
滴る滴の音も、淀みながらもゆったりと流れる空気の音も、遠くに反響する大地の音も。
『 ―オ前ガ聞イテキタ、ソノ音ガ、欲シイ― 』
脳に直接書き込まれるようなその情報すら、音ではなかった。
暗く沈んだ世界の底で少年は、自分の存在を見つける術を遂に失った。
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