リキの乱

タイ国の君主となったショウはしっかりとその地歩を固めてのち、長子のキショウに後を託して崩じた。その功績を称えられ、ブ公とおくりなされた。

後を継いだキショウはのちにケン公と諡号しごうされるので、ここではケン公と呼ぶこととする。

因みにこの数年前にユウ国でカン公が即位している。


このケン公が即位してからもタイ国は伸長を続け、近隣の小国は一つ二つと併吞されていった。

順調にいくかと思われたケン公の治世であったが、そうはいかなかった。陥穽かんせいはどこにあるのか分からないものである。しかもそれを一人の女が引き起こすことになるとは、この時のタイ国の誰もが予想し得なかったであろう。


タイ国はその地理上、支配圏内外に多くの遊牧民族が存在していた。国を治める上で彼らの服従、もしくは懐柔は欠かせぬものであった。

ケン公はその為に、遊牧民族の女を娶ることもしばしば行った。中央からすればこうした夷狄との婚姻など唾棄すべき行為であったが、ケン公はそういったことには頓着しなかった様である。

このあたりも既存のジ王朝の体制の崩壊を見て取れる事柄と言えよう。


タイ国の首都高夅こうこうから東の地にリジュウと呼ばれる異民族がいた。ここで今、二人のむすめが正装をして送り出されようとしている。

音楽を鳴らし、それに合わせて厳かな舞踊がなされている。明るい雰囲気ではあるものの、どこか哀愁が漂っている。というのも当の女が泣きださんばかりの顔をしていたからだ。

彼女達はこれからタイ国へと嫁いでいく。ケン公とリジュウの間で盟が行われ、その紐帯を確かなものにするためリジュウから妾を送ることになったのである。


「そう悲しそうな顔をするものでない。そなたたちのおかげで我らも無駄に血を流さずにすむのだ。」

彼女達の親である首長が宥める。

破竹の勢いで領土を広げていくケン公は、同盟か滅亡かの二択を迫ってくる。リジュウの民も戦闘では後れをとるものではないが、タイ国の力は最早リジュウ一族のみでは敵わない程に強大化している。半ば従属するような形で盟を結ぶことになっていた。

「ええ、でも…」

女の一人であるリキは言い澱んだ。今とはまるで環境の違う所へ行こうというのだ。不安の方がはるかに大きい。

盟約の為の婚姻とはいえ、実情は人質と変わりはない。彼女はジ王朝の民が遊牧民をどのような目で見ているのか、よく理解している。

「心配するな、既にタイジュウからも入嫁しておる。粗略に扱われることもないだろうよ。」

これより前に、ケン公はタイジュウという族からも入嫁をさせていた。ホクテキタイキという名の妾で、一男をもうけている。男児の名はジュウビと言った。

「大丈夫ですわ、お姉様。私も共に参ります。二人で助け合えばよいのです。」

隣に同じく正装をした妹のショウジュウキがリキの手を取りそう慰めた。


妹も同じく妾に入るのは、万一リキに子が為せなかった際の代わりとしての役割があった。これはようと呼ばれ、血胤を重んじる当時ではよく行われるものである。


一時ひとときの祝宴が催された翌日、タイ国から大夫が二人を迎えにきた。

他国からきさきを迎える際は、自国から相手国の爵位に合わせた格の大夫を迎えにやる。公爵であれば、大夫の中でも最高位のけいを遣わせるし、低い爵位であればそれ相応の大夫が対応する。リジュウは無論爵位などは持たないので、大夫もそう格の高い者ではない。その大夫が先導し、高夅へと旅立った。


リジュウが拠点としている地より高夅へはおよそ百里の道程である。

高夅の東を流れる永河は巨視的には東西に流れているが、タイ国内では南北に走っている。高夅から北に延びた先で西に湾曲をしていく。一行はこの長大な永河を渡らなければならない。

大地には視界を遮るものは何もなく、ただ遠くにある峰嶂ほうしょうの稜線を眺めるばかりである。一見すぐにでもふもとに辿り着けそうに見える峰々であるが、それは大きすぎる山のせいで遠近感が掴めないからで、実際にはかなりの距離がある。広大な大地には人はあまりにも小さい。

その中を砂塵に塗れながらリキの一行は西行していく。特に危険な目にもうことなく永河を渡り、いくつかの邑を経て、高夅へ入った。


ここでケン公は初めてこの二人の女を見た。

「ほう…」

姚姚ようようたる姿の二人をみて、ケン公は思わず声が漏れた。

「まさか、東の涸れた地にこの様な美しい花があったとは思いもよらなんだわ。」

ケン公に気に入られた二人は後宮へ入り、暫くして後にそれぞれが男子を生んだ。



タイ国に来たリキは生活が一変した。

美衣を纏い、美食に飽き、美酒に酔った。

都での優雅な生活にすっかり虜になったリキは、かつての不安がっていた過去の自分をわらってやりたかった。

この生活に慣れてしまっては、最早もと居た辺境の地になどには二度と戻れない。そんな思いに駆られた彼女は、次第にこの地位を守ることに固執していった。この立場を長く堅持するためには、この生まれたばかりの我が子をタイ国の主にすることが最も確実である。そうなれば、裏から自分が指図をすることも出来る。

(つまりはわらわがこの国を自由に操れる、ということじゃ。)

この陰謀は彼女の妹、ショウジュウキと側仕えの大夫などを巻き込んで、ゆっくりと着実に進められた。

まずは我が子が成長するまで待たねばならない。その間リキは、ケン公の信頼を十分に得るために砕身して仕えた。


傍から見れば献身的とも言えるリキの務めは、その甲斐あってタイ国の廟所の管理を任されるまでになった。もともと廟所の管理を司るのは君主のつまであったのだが、リキは他の婦を抑えてこの地位を得た。それだけケン公の寵愛も深かったのであろう。


その後も暫くケン公の治世が続いた。そんな中、リキの子セイケイは十四才となった。

健康そのものに成長した我が子を見て、リキは目を細めた。

ケン公は精力的に領土拡大を行い、戦いとなれば自らも出陣した。齢は六十を迎えようかというのに、一向に陰りを見せない。これはリキにとっては喜ばしいことであった。

「我が子セイケイはもうすぐ元服。一方の長子達はどうじゃ。シンセイ、ジュウビなどはもう四十を超えておる。先が見えておるわ。それに引き換え、公の寵愛を受けておるのはこの私。私が説き伏せれば、セイケイが次のタイ侯になるのも夢ではないぞ。」


しかし、ケン公はなかなかその首を縦に振らなかった。ケン公の子である、シンセイ、ジュウビ、イゴはそれぞれが名声高く、実際誰が後を継いでもおかしくはなかった。それ故に、ケン公がいまだ出来の分からないセイケイを後嗣に指名しないのも無理はない。

ならば、とリキは遂に実力行使にでた。まずは継承順の低いジュウビとイゴを首都から遠ざけるべくケン公に働きかけた。まずは自分に味方しそうな大夫に目を付け、まいないを握らせてケン公にこう進言させた。

「近頃、再び夷狄の者の活動が活発になってきております。特にコウジュウ(南東の遊牧民族)の勢いは見過ごせないものになってきております。ここは我が国の威光を見せるためにも、ジュウビ様にへ赴いていただき、南東の守りとすべきかと存じます。」

甫という邑は首都高夅より南東にある。確かにこの地域の遊牧民族の動きが無視できない状況ではあった。そこにリキ一派は着眼した。この甫の近くにはジュウビの母親の元居たタイジュウ族も住んでいる。ジュウビの母親も遊牧民族の出である。その族の後援を得ながら、この地を治めよ、という名分を立てることができる。

似たような理由をつけて、イゴも高夅から引き離した。ここまでは順調に運ぶことが出来た。

「さて、あとはシンセイのみであるが…」

シンセイは長子であるので、他の辺境の邑へ送り出すことは難しい。難癖をつけようとしても、その様な隙の無い太子である。

「ならば理由を作ればよいのです。」

リキの下にいる大夫が悪戻あくれいな一計を案じた。


「シンセイ様におかれましては、祖霊を祀り守らせるためにも、よくをご統治なされてはいかがかと存じます。」

礼制の一つとして、各国で先祖を祀る社稷で祭祀を行う。古くからその国で伝えられてきた青銅器などを使い、様々な供物を用いて盛大に祀るのである。こういった類の祭祀は細かく存在する。事あるごとにこうした祭祀が催されると思って良い。リキ達はこの祭祀に目を付けたのだ。


シンセイはそうした陰黠いんかつな事情も知らず、素直に従って沃を治めた。

こうした太子達の処置を進める一方で、リキの一党は協力者を増やしていった。見返りはセイケイが君主となった際の地位の約束である。

彼らを巧妙にケン公の近くに侍らせるようにしながら、ケン公の信頼を得させ、発言力を高める様にしていった。地固めは万全である。


ある時ケン公は狩に出かけた。

この時代の狩はただの君主の遊興ではなく、練兵を兼ねた大掛かりなものであった。各人が弓や兵車の熟達さを見せる場といってもいい。その為一度狩に出かけると数日は戻らない。

この日を見計らい、リキはシンセイにこう勧めた。

「あなた様は沃で祖廟をお守りする立場になりました。あなた様のお母上のセイキョウ様がみまかられてから幾年か経ちますが、近頃お母上が夢に出られたとか。いかがでございましょう。ここでお母上の為にお祀りさなっては…」

「なるほど、これは善いお言葉をいただいた。そうさせてもらおう。」

何の疑いも持たないシンセイは早速犠牲や酒を用意し、亡き母の為にこれを献じた。これはそのままケン公のいる高夅へ送られた。そうするのも儀礼の一環である。

リキはこの肉を密かに手元へ回させて、ケン公が帰ってくるまで隠し持っていた。

六日ほどして漸く、ケン公が狩から戻ってきた。狩で得た獲物もまずは祖廟へ供え、それから宴をしてそれらを食す。

「此度はいつにも増して多くの獲物を狩ることができた。ますます祖霊のご加護も篤くなったのであろう。」

ケン公は上機嫌だ。先の戦でも既に国を二つ潰している。まだ侵略の欲が尽きないケン公に善い兆しは嬉しいことであった。

その宴にシンセイからの肉や酒も出された。

事情を聞いたケン公は笑いながら、

「あやつのやりそうなことよ。よい、これも共に献ずることにしよう。」

と、早速その酒を手に取った。

自らが飲む前にまずは地祇ちぎへと献ずる。大地に酒を撒くのだ。ケン公は礼に則って献酒した。

するとどうであろう。酒を撒いた途端に妖しげな煙が昇り立った。これを訝しいぶかしんだケン公は、今度は肉の方を犬に食わせると、これもたちまち泡を吹いて死んだ。

「毒だ。」

俄に宴の場が騒然となった。シンセイが毒を盛ったとなると一大事である。

嫡子に裏切られたと思ったケン公は拳を震わせた。

なるほど今に至るまで、正式に後嗣を明言してこなかったケン公である。候補が多くいる中で迷っていたのは事実だが、シンセイを指命しなかったのはやはりどこかに物足りなさを感じていたからだ。武を振るってここまで国を大きくしてきたケン公なので、後を継ぐ者にも同じものを我知らず求めていた。その点シンセイは忠も徳もあるが肝心なこの武に欠けている。ケン公はそこが気に入らなかった。

(その上この様な卑劣な手段でこようとは、陰惨極まりない。)

そう思いを巡らすケン公の脇で、リキは突然泣き崩れた。

「あのシンセイ様がこの様なことをする筈がありませぬ。きっと悪人が側についておるのです。」

この場合、悪人とは正にリキのことを言うのであろうが、ケン公らの目には一族の長子を思いやる健気な妾、という風にしか映らなかったであろう。これでリキはまんまと正体を眩ますことに成功したことになる。

この一件の後、シンセイのもり役が処刑された。

その報を聞いたシンセイの周りの大夫達は口を揃えてケン公に弁明するよう訴えた。

「近頃リキの周りが怪しい動きをしておりました。にわかにリキの味方をする者が増えておるようです。きっとあの者が自らの子を押し立てる為に暗躍しておるに違いありません。ここはシンセイ様自らがケン公へ身の潔白とリキの専横をはっきりとお示しになられるべきと存じます。」

こう進言したのはコクリという卿である。

これに対して、シンセイは

「今やリキはケン公の起きてから寝るまでの全ての世話をしている。公の全幅の信頼を得ているのだから、その様な話を私からしても少しも信用はしてもらえないであろう。」

と鬱悶として答えた。

「なれば、リキを粛清し、正すべきです。」

「それは公を悲しませることになる。父を不幸にするは不忠な行いだ。私にそれは出来ない。」

どこまでも忠孝両全なシンセイであった。


遂に彼は自らの命を絶ってしまった。

タイ国の民は皆悲嘆した。シンセイは徳望はあれど醜聞など出たこともない。シンセイ、ジュウビ、イゴの三公子は皆優れていると専らの噂で、誰が跡継ぎであっても、次の世も安泰と思っていた。それなのに、急にシンセイに暗殺の疑惑が出たかと思うとそのまま自死してしまったのだから、国が動揺しない訳がない。

しかし、事はこれだけでは済まなかった。

この暗殺騒ぎにジュウビ、イゴの両名も荷担していたというのだ。この虚言の出所は勿論リキからである。

一度猜疑心を抱いてしまったケン公はこの話を一片も疑うことなく信じた。ケン公は頑なに、

(ジュウビ、イゴも我の座を狙っていたということか。)

と思い込んだ。老いによる判断力の鈍りはそのまま国に暗い影を落とした。


直ちに甫邑に詰問の使者が向けられた。この使者もリキの息の掛かった者である。ジュウビを暗殺するように密命を授かっていた。使者は型通りの口上を述べたが、ジュウビは当然その疑惑を否定した。

使者はなじる様にしてジュウビに近づいてきたが、頃合いをみるや、隠し持っていた刃物で斬りかかった。

寸でのところでこの襲撃を避けたジュウビであったが、袖は深く切られてしまった。しかし命を取られずに済んだ彼はそのまま遁走し行方を眩ませた。


この一見凡庸そうな公子の周りには優秀な臣下が多くいた。彼らは遠く辺境の地に在りながら、しっかりとリキの策動は掴んでいた。ジュウビは使者を迎える前に臣の一人からこう献策されていた。

「シンセイ様を死に追いやったリキは、必ずジュウビ様、イゴ様にも手を打ってくるに違いありません。このまま手をこまねいていれば相手の思う壺です。」

「ならば如何にする。」

ジュウビの長所は賢能を発掘し、その意見を素直に採り入れる所にある。

「まずは速やかにタイジュウの元へ奔り、身の安全を図りましょう。ケン公が存命の間は手を出すことは出来ますまい。」

「そうか…帰るに何年待てばよいやら、な。」

ジュウビも既に四十過ぎ。そう気長に待てる歳でもない。

「ここは辛抱いただきますよう。」


使者の襲撃を辛くもかわしたジュウビは、そのまま臣下達と共にタイジュウ族のいる地へと避難した。

同じような使者はイゴの元へも派遣されていた。こちらは話し合いの末に国外へ退去となった。イゴは隣国のサンへと身を預けることにした。サン国はジ王朝の中でも最も東辺にある国である。

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