安陽

安陽がジ国の首都であることは既に述べた。

この時代のむらや都はそのほとんどが城壁によって守られたつくりをしている。それは遠い昔から外敵の危険に晒されてきた故のものであろう。城壁そのものも時代を経ることでより強固なものへと変遷している。

安陽もまた壮麗な城壁に囲まれた都である。およそ十五里(六キロメートル)四方の石造りの堅牢な壁で、その高さもこの時代にはもはや五丈(約十メートル)を越えようかという代物であった。

勿論もちろんこのおおきさは都であるからで、他の辺境の邑などになれば矮小なものとなる。それでもユウ国やタイ国の首都などは既にこれに匹敵する広大な都を有している。

こうした城塞の中にすっぽりと都の人々の生活空間が収まり、そこで生活を営んでいる。城主はもちろん、その臣、吏人りじんを始め、商人や平民など、この時代でもすでに万を越える数の人で形成されている。邑内の区画も貴族と平民など、階級ごとに整然と分けられている。


ここで簡単に階級について述べておきたい。

この王朝下では、言うまでもなくジ王が頂点に位置する。その王が諸侯への任命権を有している。ユウ国、タイ国のユウ公、タイ公は勿論、亡きシインの祖父もレツ公であるので諸侯と呼べよう。その他有力な諸侯はジ国とユウ国の中間辺りに位置するキュウ国、東方にはコ国などが挙げられる。

各諸侯は広大な土地を管理、運営していくために臣下を抱えるわけだが、それらも大きくは大夫、士の二つに分けられる。大夫の方が階級は上にあり、その大夫の中でも実際に国政に関わるものは卿と称される。

シインの父シキョウはこの卿であった。卿の立場を預かる者は国の中でも一握りである。

この卿らが諸侯を補佐し、その諸侯が王を奉戴することで王が国家を運営する。この構造でもって天下を安寧たらしめてきたわけだが、時の流れは人が築くものをいつまでも存立させるものではないらしい。人の上に立つ者が必ずしも優れた人物であるとは限らないのだ。代わりに臣下である諸侯や大夫がその下で力をつけていく。今のジ王朝はまさにその力が逆転し始めた時であった。ユウ国やバン国などの諸侯が台頭してきたのである。少しづつであるが確実に世の流れが変わっている。しかしそれはこの時を生きる人々に感じ取ることが出来るものであったであろうか。


シンユウ達が安陽に起居するようになって一年ほどが経った。

ここでの生活に慣れたシインに、シンユウは学問や武芸を学ばせることにした。王都ということもあり、そうした学舎などは豊富にある。

「シインさまは書物よりも武芸の方がご興味が深いようですな。」

ランキはにこやかにシンユウへと話かけた。

「シキョウさまに似ているのかしら。それとも見習っているのかもしれないわ。」

そう答えるシンユウも平素の柔らかな表情である。


時は辛い体験の傷を和らげてくれる。それぞれが新しい生活へと溶け込んでいる。

先の見えない状況に変わりは無いままだが、それでも出来ることをしていきたい。シンユウがそう思い、時期は少し早いがランソクを付き添わせ学舎へと通わせた。

「それに引き換え、ランソクは熱心に典礼を学んでいるようですね。」

せがれには倅の、領分というものがございますれば。」

ランソクはシインよりも少し年上である。とはいえ十を過ぎた頃か、という年なので童子には変わりない。

そのランソクにランキは固く言いつけてある。

なんじは常にシインさまのお側にいて、シインさまをお助けするのだ。」

助けるというのも、ただ武芸を磨けばよいという単純なものではない。

ランキもまたシインが君主となることを信じている。君主の側にいるものとしては様々な典礼にも精通している必要がある。

この時代ではとにかく礼に細かい。君主に謁見する際、外交の際、上下関係においてもそれぞれにそれぞれの礼が必要とされる。王侯貴族や士大夫などはまずこれが出来なければ話にならない。

特に外交においては、典籍などの豊富な知識がなければならない。機知に富んだ話術も時には必要とされるからだ。

そうした観点からすれば、早くに学んでいくことに越したことはないが、それにしても童子とも呼べる年頃の二人にはまだ早くはないだろうか。


この日も二人は連れ立って学舎へと赴き、部屋の端で小さく座って学んでいた。

今日の講釈も終わり、舎を出て帰路に就こうと街路へ出たところ、何やらいつもと違う喧騒を遠くに聞いた。

「なんでしょうね。市のほうでしょうか。」

ランソクは街の中心へと向かう道へ様子を伺いに行った。

「行ってみたい。行こうソク。」

好奇心の抑えられない年頃のシインはランソクの手を引いてせがんだ。

ランキに怒られはしないかと心配はしたが、ランソクもやはり好奇心の方が勝った。二人は町人の足の向く方に誘われながら市場へと辿り着いた。

そこはいつも以上の人で大いに賑わっていた。皆手には買ったものを抱えている。ランソクが横目にそれらを覗いてみると、なるほど普段では見られない物ばかりである。

市場の入り口には守衛の兵がいるが、二人は見つからない様こっそりと忍び込んだ。中へ入ると一層の熱気だ。みせの商人は大きな声で呼びかけては、半ば押し付ける様にして商品を売っていく。普段の市の商人よりも強引な客引きであるが、そのまま話に釣られてしまう雰囲気である。

ここに並ぶ商品はシイン達にとっては正に珍品奇物といえるものばかりで、中には食べ物なのかも分からないようなものや、内陸にはない海で採れる貝などもある。とにかく目にするもの全てが真新しく、眺めているだけでも楽しい。二人は目を輝かせながら雑踏の中を縫うように歩いていった。

「おや小さいお客さん達だね。どうだい、見ていきな。」

気さくな店主が声をかけてきた。

「どうだい、つるで編んだ籠だ。しっかり作られてるから、たとえ坊やが入っても壊れやしないぞ。」

冗談交じりに見せた籠は、なるほど目の細かいつくりだ。確かにちょっとやそっとでは壊れることは無さそうだ。大小様々な籠を手に取ったりしながらシインは店主に尋ねた。

「おじさんはどこから来てるの。」

「おじさん達ははるばるバン国からきてるんだ。どうだい…おっとどうした、坊や。」

店主の言葉を聞き終わらないうちに、顔を青くしたシインは足早にその場から離れていった。


シインは複雑な気持ちに陥った。彼は自分の父親を殺し、国を奪った者が誰なのかを勿論知っている。ただ、母や家の者はバン国の事についてほとんど口にしない。彼らはシインが怨みだけを増長させて年を重ねることを心配し、その様に振舞っているのだが、幼い彼にはまだそこまで思慮は及ばない。しかしそのおかげか、今の彼に暗いかげはまとっていない。

しかし今店主からの返答に、彼は心の奥底にあった感情を逆撫でされたような感覚を覚えた。

その結果、弾かれる様にその場から離れたのだ。彼は心の奥ではバン国を嫌っている。

だが、この市場にいる人たちは皆明るく、シインが彼らを嫌いになる要素は一つもない。その相反するものが彼の中で混在し、シインを悩ませた。

ランソクも同じ様な気分を覚えたのか、シインの取った行動に反問せず後についてきた。


彼らはそのまま市場を出た。二人とも何ともつかぬ顔を浮かべてとぼとぼと歩いていく。

そんな中でランソクがふと街並みの隅に目をやると、小さな影が集まって何かをしている。よく見ると、一人が三人を壁に追いやっている。奇妙な構図である。追いやられたうちの一人はシインよりも小さい子であるようだ。ランソクがそちらへと歩を進めるより先に、シインがそちらに向かって歩いていた。


「おい、早くそれをよこせよ。」

居丈高な言い方で、三人を脅しているのは、シインよりも少し年上の少年である。身なりの良さから町人ではないことが分かる。対して、三人はどう見ても身分の高くない者たちだ。

先ほどの市場で買ったであろう物を大事に抱えている少年は、黙って首を横に振っている。その後ろに隠れるように小さな子が足にしがみついている。

「聞き分けのない奴だな。痛い目をみたいのか。」

立場の違いを匂わせながらその少年はしつこく食い下がる。


「何をしているの。嫌がっているよ。やめてあげなよ。」

背後から思わぬ仲裁を受けた少年は反射的に振り返った。そこには自分よりも年下であろう子供が立っている。

(なんだ、俺よりも小さい奴じゃないか。)

しゃくに障るやつ、と一目見て不快に感じた彼は、思い切りシインを睨みつけた。

「なんだ。関係ない奴が、文句をつけるな。」

そう言ってシインの肩を押しのけようとしたが、すかさずランソクが間に割って入った。

ランソクはこの少年よりも体格がいい。それに習いたてとは言え、武をたしなみ始めたところなので、構えをとると十分相手を威圧するに足りた。

それを見た少年は少し強張ったようだったが、それを見透かされまいとさらにわめいた。

「ふん、人に守ってもらうとは情けのない奴だ。口だけ出して後ろに隠れるのか。卑怯者め。」

それを聞いたシインも黙ってはいない。ランソクの前に出て応じた。

「卑怯者じゃない。卑怯なのは自分の方じゃないのか。」

服装でおおよその身分が分かる。町人などは士大夫の身分の者にはそうそう逆らえるものではない。あとでどう難癖をつけられるか分かったものではないからだ。それ故にこの町人の三人はおとなしくしていたのだ。

「なにを。そういうお前は見ない顔だな…どこの家の者だ。」

自分よりも位の低かったらただではおかない、そう言外している。

シインが答える代わりにランソクが応答した。

「こちらは上大夫シン氏の、シインさまだ。お前の名前も聞かせてもらおう。」

「…セキだ。」

上大夫と聞いて急に勢いの無くなったセキは、一言名前だけ言うと、氏姓を明かさずにその場から逃げ出した。

悔しそうに振り向いた彼だが、その眼は恥辱と悔恨とが入り混じった暗い色をしていた。

その尋常でない目つきをシインは見落とさなかった。


残ったのは五人である。

あの、と年長の一人が二人に話しかけた。

「ありがとうございます。」

まだ十かそこらの年の子供達である。気持ちの全てを言葉にできない。しかしながらも、精一杯の感謝の意を示そうとしていることは理解できた。

「事情は分からないが、何もなくてよかった。まさかシインさまが行かれるとは思わなかったですが。」

当のシインは高揚しているようで、鼻息が荒い。

「お前たちはこのあたりに住んでいるのか。」

ランソクがそう聞くと今度はもう一人の少年が答えた。

「そうです。僕たちは家も近いのでよく遊ぶんです。今日はガンの家のお使いに一緒に市場に来たのだけれども…」

話を聞くと、彼らが買ったものが最後の一つであったらしく、それを求めていた先ほどのセキに見つかり、脅し取られそうになっていたということであった。

「そうか。あのセキというやつは知り合いなのか。」

「いいえ、初めて会いました。でも自分の親は兵長だぞ、と言っていました。」

兵長ならば、シンカン様の方が上か、とランソクは納得した。

「みんなの名はなんていうの。」

ようやく落ち着きを取り戻したシインが三人に尋ねた。

「僕はテキです。あと弟のシン、それと友達のガンです。」


その後、しばらく共に時間を過ごした彼らはすっかり打ち解けた。

「さて、シインさま、そろそろ帰りましょう。遅くなりました。シンユウ様が心配してしまいます。」

「そうか、分かった。じゃあまた会おう。今度はおうちに遊びに行くよ。」

日が傾き始めている。互いに手を振りながら道を曲ると二人は駆け出した。

シインにとってはこの街で初めての友人、というべきか。まだ身分の違いなどを意識しなくてよい年齢である。とにかく彼にとってはとても嬉しい出来事であった。ランソクにとっても同様であるらしく、二人は顔を見合わせてにっこりと笑いあった。


その後、テキら三人はシインの邸宅に出入りしたり、逆にシイン達がテキの家に遊びに行ったりと交遊を深めていった。

ランソクは学舎で習ったことを三人に教えたりもした。三人はつたないながらも真剣に聞き学んでいる。何しろ一般の町人では習えないようなことも多い。その分興味は尽きない様だった。

これから数年の間、シインはこの安陽で学び、成長することとなる。



シインがこうしている間、世界も安穏、とはいかない様である。

ジ国から遠く離れたユウ国に、一人の俊傑な君主が鎮座している。さらにその脇にはもう一人、卓抜たる賢臣が控えている。ユウ国が強大となった所以はこの二人にあると言ってもいい。

このユウ国がついに動き出そうとしていた。

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