蠢動する大国

遠路

レツ国の大邑たいゆうりょで壮絶な戦いが繰り広げられている間、シインを連れた一行はまだ野天の下を歩いていた。目指すはシンユウの父の居るジ国である。

ジ国とレツ国はおよそ百三十里ほど離れている。軍の移動距離が一日三十里程とされているので、そこから換算すれば四、五日で到達できる道程となる。しかしこれは健脚な兵でのことなので、女子供の足ではもっと遅くなるのは当然のことである。

それでも一刻も早くジ国へ入りたいランキは、皆を励ましながらどんどんと歩を進めていった。

天下の中心であるジ国と、その隣国のレツ国であるので、比較的安全であるとも言えるが、道中で野盗や遊牧民族らと出くわさないとも限らない。


太陽も中天をゆく頃、ようやく一行は足を止めた。沢に木陰のある草地へシンユウとシインは腰を下ろした。

「どうやら追手は無さそうですな。」

供の者に指図をしながらランキが二人に歩み寄ってきた。

「ええ、その様ですね。」

彼女の容貌に暗い陰が垣間見えるのは、疲れだけでは無いようだ。しかし、彼女は余計な事は一切口にしなかった。

(つよいお方だ。)

ランキはシンユウの様子を見直した。

様々な不安に押し潰され、激しく錯乱してもおかしくない状況であるのに、この婦人は必死に耐えておられる。シイン様や皆が不安にならないようにしておられるのだ。流石はシキョウ様のつまである。と改めて主の偉大さを確認した思いのランキであった。

今でも克明に脳裏に映る、兵車を駆るシキョウの最期の後ろ姿。彼のその後を想うと歯噛みし、うつむきそうになるが、彼に託された真直な思いがランキを前へと突き動かす。

(私の使命はこのお方達を無事に送り届けることだ。)

何があってもそれだけはやり遂げなければならない。


それにしても。と、彼は今度はシインの方に目を移した。

この童子もまた一言も不満を言わず、ぴったりと母の傍を離れずにいる。強張った面持ちでいることから、不安を感じているのは間違いないのであろうが、時折見せる表情には母を守ろうとする意志がはっきりと表れている。

かつての邸宅に住んでいた頃にはこの様な顔は見たことがない。

シキョウ様が最期にシイン様に何かを話していたが、それが原因であろうか。

人は苦境に立たされた時、本当の姿が露呈する。或る者は絶望に忘我し、或る者は狂乱する。

しかしこの二人はそのどちらでも無かった。ランキは改めてシキョウの存在のおおきさに畏敬した。


「都まではどれくらいなのでしょう。」

シンユウはそう言いながら、ランキから手渡された飲み水の入った器を手の内でもてあそんだ。

「そうですな、まだまだ先は長いですが、五日ほどは掛かるかと。」

元々彼らがいた閭のすぐ南側には大河が流れている。

先に述べた太河たいがと同じ規模の河で、永河えいがと呼ばれている。東から西の海へ流れていくこの河筋を上流へと進んでいくと、やがて大きく南へと湾曲する。そのまま南へと更に遡っていくと、途中で一つの川との合流点が見えてくる。この川は洛水らくすいと呼ばれ、今度はこの洛水を辿っていくと漸くジ国の首都である安陽がある。

「まずは永河と洛水の合流点にある樊陽はんようを目指します。このまま行けば二日もあれば着くでしょう。」

「樊陽まで行けば、閭の様子を聞くことが出来るでしょうか。」

「急使が我々を追い越しているのであれば、或いは。」

樊陽はジ国の邑である。足の早いものを遣わしていれば可能性はあるが、その肝心の急使が閭から脱出出来たのかも定かではない。

「もしかすると、もうジ王様が兵をお遣わしになっておられるやも。」

シンユウはまだ閭が健在であると信じているようだ。

ランキもまた同じ気持ちではあるが、彼は囲んだ兵の多さを目の当たりにしているので、少しも楽観することはなかった。

「そうですな。」

曖昧な返答しか出来なかった彼は、シンユウ達に水を飲むよう促し、供の者達に再出発の用意をさせた。



その後、更に一日かけて、この一行は永河沿いの道を進んだ。その日の小休止をとった時、シンユウは野辺で草結びをした。

草結びとは文字通り野草同士を結んでいく行為なのだが、古来より遠い地にいる想い人との心の結びつきを思ってするものである。うたうたいながら今は会えぬ相手を想い結ぶ。ある種の呪的行為とも呼べるものだが、まだこの時代にはこうした行いが多く残されている。


緑広がる大地でシキョウを想い草を結ぶシンユウ。陽光の下で彼女の顔がきらめいて見える。

それはとても美しい光景だった。

純粋な母の心を目の当たりにしたシインはこの時の光景を、後年もずっと美しい情景として記憶していくこととなった。



一行は予定通りに中間の樊陽へと辿り着いた。

まずは情報を得るため、ランキは兵のいる屯所へ向かった。

そこにいる精悍な顔立ちの兵長が、彼を迎えてくれた。

「我々は閭から逃れてきたのだが。」

「とすると、レツ国の者か、…此度は災難であったな。」

「やはり既に知っておられたか。我々は一足先に脱出してきたので、その後の行方は知らぬのだ。どうなったのか、聞かせてはもらえまいか。」

「そうであったか。そうだな、丁度昨日、ここにも閭からの急使の者が来たのだがな。」

兵長は言いよどんだ。



「ぜ、全滅。」

シンユウの側にいた供の者が思わず言葉を漏らした。

当のシンユウは黙して、ただランキの報告を聞いていた。

「ただ、民にはほとんど手を出さずにいるようです。」

事を告げるランキ自身も沈鬱な表情である。当然の事である。彼らは一気に生きる気力を失ったと言っていい。苦しい逃避行も、当主であるシキョウが生きていればこそ、その希望がもたれていたのだ。一同は項垂うなだれてしまった。


その沈黙を破ったのは、やはりシンユウであった。

「都へ行きましょう。安陽へ行き、この子を安全な場所まで連れていく。今なすべき事はそれのみです。」

彼女の言葉は希望を無くした者たちに目標を与えた。なにがあっても生きて、そしてシインを守り育てていく。これは亡き夫の切望した思いでもある。

「そうです。ここで立ち止まるわけには参りますまい。」

ランキも皆を励ますように同調した。シンユウの決然とした態度をみて、供の者達も再び活力を取り戻した様だった。

ひとまず彼らはここで一泊をし、翌朝安陽を目指して行くこととした。


その夜遅く、シンユウは寝室で一人声を押し殺しながら泣いた。涙を拭うことなく泣くその姿は、純粋な子供のようであった。

それを扉の影で見守っているランキも彼女の胸裏を推し量り、黙って泣いた。

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