亡国
レツ国
シインの生まれた国はレツ国という。
この時代では数ある国の中でも王を称する者は一人しかいない。ジ国の王のみである。歴史的区分を附けるのであればジ王朝と呼んで差し支えない。このジ国が前王朝を打倒し天下を平定したのが
直系となるコ公は、ジ国の北隣にあたる要地を与えられ、危急の際には真っ先に駆けつける尊王の国となった。それゆえ歴代の王に
シインの父はキキュウ、字をシキョウという。
更にシキョウの父は現君主であるレツ公である。シキョウは一族の中でも特に武に秀で、所謂後の将軍職にあたる司馬に就いていた。
さて、シインらの逃亡の理由を知るため、少し時を
その日、暮陰には少し早い頃に、シキョウは我が家へと帰り着いた。
彼が帰れば妻子は
「お帰りなさいませ。」
「うむ。」
妻にはその原因が分かっている。昨今のレツ国の状況の悪さである。現ジ王の度重なる外征に従属し、国力が疲弊しているのだ。しかもその外征も失敗に終わることもあり、得るものの無い戦に国民の不満も高まりつつある。無計画な出兵は農業への労働力を奪うことにもなり、国の蓄えを
シキョウはそれらを目にしながらも、宗主国の要請を拒否出来ない葛藤に悩まされているのである。
「お疲れでしょう。温かいものを御用意しております。お召し上がられませ。」
家宰のランキがそう促した。彼はこの家の一切を司る。家宰の手腕によって家風が知れるものだが、その点彼は申し分無い。
いつも通りに食事を済ませた後に、シキョウは妻の部屋へ赴いた。
「シュウはどうか。」
「はい。近頃はソクと一緒に虎退治ごっこをしていますわ。」
ソクは家宰ランキの息子である。シインより少し年上で彼の良き遊び相手になっている。
ここで少し名前についても述べておきたい。
シインの一族は皆キ姓である。そしてそれぞれに名前(
「虎退治か…」
親として子の成長を見守るシキョウである。武でもって家を保っている彼にとって、勇武を好むことは嬉しいことである。心身共に
「強く育てねば、な…」
寝息を立てているシインを優しく撫でながら自答した。
先々代ジ王であるユウ王はレツ国を含む近隣諸国に号令し、遊牧民族に対し外征を行った。
この世界には至る地域に様々な遊牧民族が
ユウ王も当然の如く外征を繰返したが、
そしてその後のトウ王が現在のジ王であるが、シキョウの目には、今のところ先代達を凌ぐ様な賢明さは見てとれない。
中央が弱体化すると、相対的に周辺が力を増してくる。ジ国の西にあるユウ国は賢臣を得ることで富国政策に乗り出し、今では最も大きい勢力を持つに至っている。また、南東のタイ国も近年君主が入れ代わり、徐々に周辺国へと侵攻しているとの話も入ってきている。
あとはレツ国の北にあるバン国だが、こちらは情報があまり入手できない怪異な国である。
レツ国を流れる河を遡ると長大な河へと繋がる。太河と呼ばれるこの河を渡った先にバン国の
「あなた様、夜も更けております。そろそろお休みになられては。」
「ああ、もうすぐに寝ることにする。時に、そなたの家は
シキョウの妻はジ国の臣であるシン氏から入嫁している。
「ええ、我が家は
「そうだな。…シン氏から何か
中央からの情報は各地の詳細を知る事の出来る、唯一且つ重要なものである。情報の読み違いが命取りになりかねない。特にシキョウの場合は、それがそのままレツ国の存亡にも繋がりかねない。彼はそういう立場にいる。
寝所で横になったシキョウであるが、
シキョウの不安をよそに、それから暫くは何事もなく時は過ぎた。
残暑も衰えをみせ、涼風が顔を撫でる様になった。城郭から外を眺めれば稲穂も金色の波を靡かせている。
そんな
「
彼は愕然とした。
これでは唐突に首元に刃を突きつけられた様なものである。何者かが
「君には伝えているのであろうな。一体何処の軍で…いや」
察しはつく。
「異様な
急使の憶測と彼の予想は一致していた。周辺国とは少なからず交流がある。戦となる場合には大抵その原因が露呈しているものだが、今はどの国ともその様なことはない。となると、残されるのはバン国のみである。
ともあれシキョウのすべきことは一つである。
「
シキョウには兄弟がいる。長兄のシコウは宰相、次兄のシヨウは司空を務めている。司空は法を司り、宰相は司空、司馬などの全ての職を統括する。
この時代では兵の多くは農民である。有事の際には召集され、夫々の領主の下へ配属をされて戦地へ送られる。農民である故に士気の安定は難しく、将の資質に依るところも大きい。
今回の尋常ならざる招集に国民にも緊張が走った。ここが落とされれば国が亡くなる。ともすれば戦う前に離散しかねない状況であった。
シキョウはまず、父であるレツ公に謁見した。
「君よ、危急存亡の時です。急ぎ戦支度を整え敵を迎え撃つのです。」
「まるで、こちらの懐を見透かされているようであるな…しかし、ここを死守せねばジ国への道をも空けてしまう。」
「仰せの通り。まずは倉を開いて武器、兵糧を与え、民を落ち着かせましょう。その上で軍を編成すべきかと。」
「うむ、一切は司馬に任せる。余も出よう。さすれば兵の士気も少しは上がろうよ。」
「御英断でございます。きっと君のご威光に敵も退くことでしょう。」
「このような時にまで畏まらずともよい。キュウよ、存分にいたせ。」
「…必ずや父祖の御前に祥報を献じましょう。」
決然と宮室を退去したシキョウに兄達が走り寄ってきた。
「キュウよ、
シヨウが急き込みながら詰め寄った。
「ええ、事は一時を争います。」
「これから
シコウは口調は落ち着いているものの、顔色は決して良くない。
「
「城に籠らずに迎撃するというのか。」
意外であったのか、シコウは思わず聞き返した。
「ええ、兵車も十分にあります。戦意を示すためにも出るべきです。」
一つ気になることがある。
となると、この城でも警戒しなければならない。その為にもまずは敵と当たってみたい。何しろ相手の情報が皆無なのだ。
早速彼は陣立てを行った。
この時代の軍隊は上中下の三軍で構成される。中軍が
この時も同じように構成された。
上軍 シキョウ
中軍 レツ公
下軍 シヨウ
宰相であるシコウは城に残った。
城中が混乱する前に一連の準備を迅速に済ませたシキョウは、実に上手く兵の鋭気を整えた。
ここまで見事に行える者はそう多くはいない。
小国となったレツ国が
ともあれ、一夜の内にすっかり戦支度を終え、翌朝に城を出たレツ軍は
時を置かずして、バン軍もその姿を現した。
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