亡国

レツ国

シインの生まれた国はレツ国という。

この時代では数ある国の中でも王を称する者は一人しかいない。ジ国の王のみである。歴史的区分を附けるのであればジ王朝と呼んで差し支えない。このジ国が前王朝を打倒し天下を平定したのがおよそ六百年前であり、シインのいる時より後もしばらく続き、結果としては歴史上でも稀な長命な王朝となった。初代ジ王であるブン王は自らの血族である者達を中心に各国を治めさせ、所謂いわゆる封建的制度でもって統治を行った。レツ国の祖もその例外ではなく、ブン王の子の一人であるコ公である。

直系となるコ公は、ジ国の北隣にあたる要地を与えられ、危急の際には真っ先に駆けつける尊王の国となった。それゆえ歴代の王に寵愛ちょうあいされてきたのだが、先々代にあたる十五代ユウ王の時を境に、ジ国の求心力が低下し始めた。それに伴いレツ国も衰退していき、シインの生まれた頃には他国に圧倒される有様ありさまであった。


シインの父はキキュウ、字をシキョウという。

更にシキョウの父は現君主であるレツ公である。シキョウは一族の中でも特に武に秀で、所謂後の将軍職にあたる司馬に就いていた。

さて、シインらの逃亡の理由を知るため、少し時をさかのぼり様子を見てみることにしよう。



その日、暮陰には少し早い頃に、シキョウは我が家へと帰り着いた。炬火きょかにて明かりを取る時代である、日の出と供に参朝し、日没には寝支度を整える。そういう生活を基調としている。

彼が帰れば妻子は勿論もちろん家宰かさい、召使い一同も出迎える。

「お帰りなさいませ。」

嬋娟せんけんな笑顔で迎える妻に対してシキョウはこのところ暗然たる面持ちである。

「うむ。」

妻にはその原因が分かっている。昨今のレツ国の状況の悪さである。現ジ王の度重なる外征に従属し、国力が疲弊しているのだ。しかもその外征も失敗に終わることもあり、得るものの無い戦に国民の不満も高まりつつある。無計画な出兵は農業への労働力を奪うことにもなり、国の蓄えを耗減もうげんさせる。

シキョウはそれらを目にしながらも、宗主国の要請を拒否出来ない葛藤に悩まされているのである。

「お疲れでしょう。温かいものを御用意しております。お召し上がられませ。」

家宰のランキがそう促した。彼はこの家の一切を司る。家宰の手腕によって家風が知れるものだが、その点彼は申し分無い。

いつも通りに食事を済ませた後に、シキョウは妻の部屋へ赴いた。

「シュウはどうか。」

「はい。近頃はソクと一緒に虎退治ごっこをしていますわ。」

ソクは家宰ランキの息子である。シインより少し年上で彼の良き遊び相手になっている。


ここで少し名前についても述べておきたい。

シインの一族は皆キ姓である。そしてそれぞれに名前(いみな)を持っている。よってシインは姓はキ、諱はシュウとなり、キシュウが所謂いわゆる本名となる。しかし、諱はごく親しい間柄でのみ使われる。父母はシュウと呼ぶが、家宰等は皆あざなでシインさま、と呼ぶ。


「虎退治か…」

親として子の成長を見守るシキョウである。武でもって家を保っている彼にとって、勇武を好むことは嬉しいことである。心身共につよく育って欲しいのだが、出来得ることなら早く大人になってもらいたい。そう願いたくなるほどに、彼は現状に不安を抱いている。

「強く育てねば、な…」

寝息を立てているシインを優しく撫でながら自答した。


先々代ジ王であるユウ王はレツ国を含む近隣諸国に号令し、遊牧民族に対し外征を行った。

この世界には至る地域に様々な遊牧民族が跋扈ばっこしている。彼らは皆土地を定めないので国というかたちを成さないが、勢力としてはそれに匹敵する程の巨大な部族も存在する。農耕に根差した者たちとは古来よりの敵対関係といっていい。歴代王朝は常に彼らとの戦いを宿命としている。

ユウ王も当然の如く外征を繰返したが、ことごとく失敗をした。宗主国の戦いの不味さに同盟国は皆眉をひそめたが、それを背中で感じているユウ王は躍起やっきになって更なる征伐を敢行した。その結果、得るところは何もなく、失意のうちに崩じたユウ王の跡を継いだレイ王も同じ手段を用いたが、捗々はかばかしい成果を得られぬままこの世を去った。

そしてその後のトウ王が現在のジ王であるが、シキョウの目には、今のところ先代達を凌ぐ様な賢明さは見てとれない。


中央が弱体化すると、相対的に周辺が力を増してくる。ジ国の西にあるユウ国は賢臣を得ることで富国政策に乗り出し、今では最も大きい勢力を持つに至っている。また、南東のタイ国も近年君主が入れ代わり、徐々に周辺国へと侵攻しているとの話も入ってきている。

あとはレツ国の北にあるバン国だが、こちらは情報があまり入手できない怪異な国である。


レツ国を流れる河を遡ると長大な河へと繋がる。太河と呼ばれるこの河を渡った先にバン国の大邑たいゆう(首都)がある。元はジ王朝とは文化を異にする国であったが、ジ国の勢力圏が拡がるにつれ彼らとも接触することとなった。敵対的な立場を取ってきたわけではないが、レツ国からは不気味な国と見られている。そしてこの国もまた中央の耗弱こうじゃくを感じたのか、この十数年の間に太河を越え勢力を伸ばすに至る。シキョウは知らなかったが、既に何ヵ国かは併吞、同盟国化されている。


「あなた様、夜も更けております。そろそろお休みになられては。」

「ああ、もうすぐに寝ることにする。時に、そなたの家は大事だいじないか。」

シキョウの妻はジ国の臣であるシン氏から入嫁している。あざなをユウといい、それ故シンユウと呼ばれる。

「ええ、我が家は春官しゅんがんですので、粗略に扱われる事は有り得ませんわ。」

春官しゅんがんはジ国に数百ある職分の内の一つになる。職分は天地春夏秋冬の六職に大別され、そこから更に細分されるのだが、春官はその内祭祀さいしを行う職で、国内では特別視される。先祖をまつる事は立派なまつりごとの一つである。

「そうだな。…シン氏から何かしらせがあった時はぐに教えてくれ。」

中央からの情報は各地の詳細を知る事の出来る、唯一且つ重要なものである。情報の読み違いが命取りになりかねない。特にシキョウの場合は、それがそのままレツ国の存亡にも繋がりかねない。彼はそういう立場にいる。

寝所で横になったシキョウであるが、迷昧めいまいとしてしまい、なかなか眠ることが出来なかった。


シキョウの不安をよそに、それから暫くは何事もなく時は過ぎた。

残暑も衰えをみせ、涼風が顔を撫でる様になった。城郭から外を眺めれば稲穂も金色の波を靡かせている。

そんな平生へいぜいの中、職務をこなしていたシキョウの元に、遂に急報がもたらされた。

じんが落とされたと言うのか。」

彼は愕然とした。じんはシキョウのいる大邑たいゆうりょから十数里と離れていない。それが攻められている、ではなく、既に落とされたのだ。

これでは唐突に首元に刃を突きつけられた様なものである。何者かがりょにも攻め寄せてくるのは明白であった。

「君には伝えているのであろうな。一体何処の軍で…いや」

察しはつく。

「異様な風体ふうていの軍であるとのこと、バン国であるかと…」

急使の憶測と彼の予想は一致していた。周辺国とは少なからず交流がある。戦となる場合には大抵その原因が露呈しているものだが、今はどの国ともその様なことはない。となると、残されるのはバン国のみである。

ともあれシキョウのすべきことは一つである。

ぐに支度を整えよ。迎え撃たねばなるまい。宰相、司空殿らにも伝えるのだ。」

シキョウには兄弟がいる。長兄のシコウは宰相、次兄のシヨウは司空を務めている。司空は法を司り、宰相は司空、司馬などの全ての職を統括する。


この時代では兵の多くは農民である。有事の際には召集され、夫々の領主の下へ配属をされて戦地へ送られる。農民である故に士気の安定は難しく、将の資質に依るところも大きい。

今回の尋常ならざる招集に国民にも緊張が走った。ここが落とされれば国が亡くなる。ともすれば戦う前に離散しかねない状況であった。


シキョウはまず、父であるレツ公に謁見した。

「君よ、危急存亡の時です。急ぎ戦支度を整え敵を迎え撃つのです。」

「まるで、こちらの懐を見透かされているようであるな…しかし、ここを死守せねばジ国への道をも空けてしまう。」

「仰せの通り。まずは倉を開いて武器、兵糧を与え、民を落ち着かせましょう。その上で軍を編成すべきかと。」

「うむ、一切は司馬に任せる。余も出よう。さすれば兵の士気も少しは上がろうよ。」

「御英断でございます。きっと君のご威光に敵も退くことでしょう。」

「このような時にまで畏まらずともよい。キュウよ、存分にいたせ。」

「…必ずや父祖の御前に祥報を献じましょう。」

決然と宮室を退去したシキョウに兄達が走り寄ってきた。

「キュウよ、じんが落ちたというのは本当か。」

シヨウが急き込みながら詰め寄った。

「ええ、事は一時を争います。」

「これから如何いかにするつもりだ。」

シコウは口調は落ち着いているものの、顔色は決して良くない。

ぐに倉を開き、食糧と武器を民に渡します。敵に城に詰め寄られる前に迎え撃たねばなりますまい。」

「城に籠らずに迎撃するというのか。」

意外であったのか、シコウは思わず聞き返した。

「ええ、兵車も十分にあります。戦意を示すためにも出るべきです。」


一つ気になることがある。

じん容易たやすく陥落したことにシキョウは疑問を感じている。配下の者を走らせてはいるが、あるいは内通者がいるのかも知れない。

となると、この城でも警戒しなければならない。その為にもまずは敵と当たってみたい。何しろ相手の情報が皆無なのだ。


早速彼は陣立てを行った。

この時代の軍隊は上中下の三軍で構成される。中軍が所謂いわゆる大将のいる軍となり、通常は上軍に強力な兵を配置する。

この時も同じように構成された。

上軍 シキョウ

中軍 レツ公

下軍 シヨウ

宰相であるシコウは城に残った。

城中が混乱する前に一連の準備を迅速に済ませたシキョウは、実に上手く兵の鋭気を整えた。

ここまで見事に行える者はそう多くはいない。

小国となったレツ国が塵滅じんめつせずにいるのも一重ひとえに彼にるところが大きい。

ともあれ、一夜の内にすっかり戦支度を終え、翌朝に城を出たレツ軍はじんりょとの中間にあたる平原に布陣した。

時を置かずして、バン軍もその姿を現した。

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