【短編】【朗読推奨】『不幸の手紙』

雨宮崎

『不幸の手紙』

 その母の手紙はまず『拝啓』で始まっていた。

『拝啓、わたしは幸せにはなりません。けっして幸せになることはありませんから、どうか心配しないでください』

 手紙にはそう書かれてあり、それを最後に母は二度と家には帰ってこなかった。

その手紙の短い言葉は、残念ながら娘であるわたしに宛てたものではなく、わたしの父に宛てたものだった。


 わたしの父はあまり表情を表に出す人間ではなかったが、このときばかりは相当ショックを受けたのか、手紙の前でただただ一点を見つめていた。まるで身体の大事な機能を失ったかのようにしばらく動けないでいた。

 母はどちらかといえば大人しい性格の人間で、口数もあまり多くはなかった。頑固な面を表に出すことはほとんどなく、いつも家族のことを第一に考えるような人間だった。

 母が出て行ったとき、わたしは中学生になったばかりであった。当時のわたしにはまだまだ母親が必要であり、依存したり、精神的に甘えたり、また反抗したりする相手が必要だったのだ。けれども母はなにか重大な罪を背負ったかのような言葉を残し、ある日突然、姿を消してしまった。

母の最後の言葉を、父がどう受け取ったのかはわたしにはわからない。少なくとも父は最期のときまで母の事を一切口にはしなかった。

 父はわたしが二十四で結婚した次の週に心筋梗塞でこの世を去ってしまった。父の死に顔には、置いていかれた人間が帯びる孤独な表情が残っていた。

 

 父が亡くなって、わたしは父の遺留品を整理しなければならなかった。

 遺留品の中には、母が残していったその短い手紙もあった。四角形の缶の箱の中にひっそりとそれはしまってあった。 

 父はあまり物に執着しない人間であったが、この手紙だけは大事に取っておいたみたいだった。その四角形の缶の箱の中には、母が最後に残していった手紙のほかに、もう一通手紙が入っていた。その手紙は、父の文字で書かれていた。その手紙を広げ、冒頭を少し読み、おそらくこれは、父が去っていった母に書いた手紙であるとわたしはすぐに理解した。母の行方を父が知っていたかどうかは今となってはわからない。宛先を書いていないところを見ると、その手紙は出されずに終わったのだと推測できる。それでも父は母にその手紙を書かずにはいられなかったのだろう。

 

 母が去ってしまってからの父は、どこか注意散漫だった。小さな工場を営んでいた父は、その日からよくケガをして帰ってくるようになった。母と別れる前まではそんなこと一度もなかったのに。ひどいときには腕の骨を折り、身体のあちこちに包帯を巻いて帰ってきたときもあった。料理なんかしようものなら、いったいまな板に流れているのは父の血なのか、それともカワハギの血なのかわからなるくらいの大量の血が排水口に流れていった。

 そんな様子だから、わたしは母が出て行ってから自然と家事をするようになった。わたしは父と自分の弁当を作り、支払うべき請求書を計算し、包帯を洗濯したりした。それにともなって、父の口数は日に日に減っていき、一点を見つめる場面は増えていった。愛する妻に一方的に別れを告げられたのだから、ある程度おかしくなってもしかたがない。     

 当時のわたしはそう思った。

 

 四角形の缶の箱にしまわれてあったその父の手紙には、わたしが想像していたものとはまったく違う内容が書かれていた。たしかにそれは、父が出て行った母へ書いた手紙であることは間違いなかった。出されることのなかったその手紙の文面はどこか落ち着いていて、憎しみや悲しみをまったく感じさせなかった。


 その父の手紙は『拝啓』で始まっていた。

『僕はたしかに、あなたを幸せにするとは一言もいったことはない。もし仮に今あなたが僕のもとに戻ってきたとしても、僕はそれを言うつもりはない。僕は君と結婚すると決めたとき、あなたと一緒になら不幸になっても構わないと思ったのです。これは嘘偽りのない言葉です。僕はもともと、幸せになれる相手とは結婚するつもりはありませんでした。僕はね、一緒に不幸になってもいい相手と結婚すると、人生のある地点でそう心に決めたのです。僕にとって結婚とは、つまりそういうものなのです。どんなに君が離れてしまっても、どんなに遠くへ行ってしまっても、あなたの不幸は僕の不幸でもあるのです。僕はこの不幸を大事にしたいと思います。それが唯一、僕とあなたの絆であると、そう思っています。僕はこの先、この不幸を苦しみぬいて、この不幸とともに生きていきこうと思います。だから僕の人生は、最後のときまで、あなたと共にあるのです』

 父の手紙はそこで終わっていた。

 母に届くことのなかったその手紙は、その子であるわたしに届いた。これが父の考えていたことだとしたら、なぜ父の最期の表情はあんなにも寂しそうだったのだろうか。父にとっての幸せとはどういったものなのだろうか。

 結婚したてのわたしには、幸せがいったい何なのかわからなくなってしまったのだった。


 二人のあいだになにがあったのか、父が死んでしまった今、それを知る術はわたしにはない。二人は親戚との付き合いがまったくなく、彼らの両親、つまりわたしにとっての祖父母にも、わたしは一度も会ったことがない。

 もしかしたらわたしは幸せではない夫婦のあいだに生まれたのかもしれない。ひどく孤独な家庭に育てられたのかもしれない。けれどもその夫婦はわたしをちゃんと育ててくれた。わたしの人生はけっして不幸せなものではなかった。父がいて、母がいて、わたしはそれだけで十分幸せだったし、母がいなくなっても、父の血液とカワハギの血液が混じったあの魚料理に、わたしはたしかに父の懸命な愛情を感じたのだ。


 わたしは結局、その二通の手紙を焼却することにした。いろいろ考えたけれど、それがいちばんいいと思った。わたしは死んだ父へ手紙を書き、それも一緒に燃やすことにした。死後の世界を信じているわけではなかったが、わたしにはどうしてもその儀式が必要だった。つまりそれは、不幸の手紙の連鎖であり、もしかしたら死んだ父へ届くかもしれない。わたしの思いが、わたしの決意が届くかもしれない。

 だからわたしのその手紙を『拝啓』で始めることにした。

『拝啓。最愛なる父へ。わたしは、あなたの分の不幸も背負っていきます。たしかにあなたと生きた人生は苦労ばかりだったけれども、それでもわたしはとても幸せでした。悲しい顔でこの世を去っていきましたけど、あなたは孤独ではありません。不幸な人生だったのかもしれませんが、あなたはけっして孤独ではありません。あなたの不幸を、今度はわたしが背負いたいと思います。

わたしはあなたの不幸を苦しみ抜き、あなたの不幸とともに生きていきます。

だからあなたも、そろそろ幸せになってみてはどうでしょうか』

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