第四話

 夏休みの間、彼はテニス倶楽部へ顔を出すことも、墨水堂に訪れることもなかった。一度だけ葉書が来た。神奈川郵便局の消印から、伯母の家へ行っていたことが知れた。裏面には、宿から見えた竹島の姿があった。穏やかな碧海に浮かぶ小島の水彩画に、六所神社の拝殿を描いたときの肉迫さはなく、線の一つを挙げても、どこかひ弱な印象だった。

 私は彼を訪ねようと思ったが、彼が級友の訪問を避けていたことが気にかかり、結局、彼とは会わないまま、新学期になった。

 彼は以前と同じように、教室の中心で級友たちと談笑していた。休み明けの試験では、期末に続き学年一位を取り、秋の弁論大会では「ノブレス・オブリージュ」を主題にして優良賞に選ばれた。テニスに打ち込み、三日に一度は店へも訪れた。

 彼は一見、何も変わらないように見えた。私も変わらずに接しようと決めたが、中間考査の明けるころには、彼の顔色は常に青ざめ、目許も陰るようになっていた。初瀬の安否どころか、八島が沈んだことすら、報道はなされない。彼は、教室に新聞の切り抜きを持ってくることもなくなり、倶楽部も休みがちになった。

「北条は、どこだか悪いじゃないかん?」

 菅沼さんに尋ねられても、私は曖昧に首を振るばかりだった。

 次の日の授業後、菅沼さんが私たちの教室を訪ね来て、彼を呼んだ。菅沼さんの隣にはもう一人上級生がいて、私はその人を、墨水堂で油絵具を買い求める客の一人として見知っていた。はやしさんといって、菅沼さんと同じく四年生だった。

 彼は授業後に図画室へ通い出した。昼放課も弁当を持って行くようになり、やがて彼の手には油絵の具が着いた。顔色はいくらか戻っていた。

 私たちは相変わらず、教室内では別々に過ごした。教室移動や登下校の道などで、彼が話しかけてくるのを待った。その話題が、今日の弁当のことだったり、数学の解法だったり、他愛もないものであるごとに安心していた。

 それでも、級友の目から離れるとやはり、彼は長い沈黙に沈んだ。決まって私の手を握った。帰りたがらない脚を殿橋に留めた夕暮れ、もしくは、図書室の半月机の下や、私の部屋で。不安と葛藤に揺れる彼が痛ましく、見てはいけないように感じた。私は、彼に手を差し出しながら、頭の中をドイツ語の動詞変化の復習に使っていた。

 彼が私に慰めを求めているとは思えなかったのだ。彼が心を鎮めるために、私の手の熱ばかりを求めていたらと考えて、寂しさが募った。けれども、何もしてやれないのだから、せめて手ばかりは貸してやりたいと、献身的な思いを抱きもした。

 私たちは、互いを遠ざけたいとは決して思ってもいないが、しかし、思考も感情も己の内部に留めたまま、歩み寄れずにいた。

 十一月の末、寒さの増す、晴れたある朝。新聞を読む父が、オロシアからの兵が来たと声を挙げた。私はロシア兵が日本に攻め寄せるのかと思い、新聞を覗き込んだが、父に示されたのは、全国で収容されるロシア虜囚の一部が名古屋の東別院ひがしべついんへ移されたとの記事だった。私はその頁をもらうと、すぐに朝食を食べ上げて、家を走り出た。

 彼に伝えなくてはならない。日本の戦果、千人ものロシア虜囚は、彼を勇気付けるはずだ。そして、彼は名古屋へ行くことを望むだろう。同行を願う者がいたとすれば、それは私であるはずだと思った。

 しかし、学校が近付くにつれて、伝えてどうするとの声が聞こえた。彼が欲するのは父の安否であって、ロシア虜囚を桜か紅葉かのように見物することではない。そも、何と言って伝えよう。彼はどれだけ父のことを考えていても、決して口には出さないのに。

 考えるうちに足は遅くなり、息が切れ、教室に着くころには、私の勢いはなくなっていた。彼は既に机に向かっていたが、私は挨拶をしただけで、彼の前の席に着いた。

 昼放課、彼は弁当を提げて教室を出て行き、予鈴が鳴らされても、すぐには戻らなかった。私は折り畳んだ新聞を取り出して、初瀬の特徴をロシア虜囚に伝えることで、その安否を問うことはできないものかと考えていた。

「──何の記事?」

 突然、彼に覗き込まれた。私は反射的に隠そうと動いた手を抑え、彼を見上げると、新聞を勢いよく突き出した。

「大陸で降ったオロシアの兵が、捕虜になって名古屋に来た。東別院におるげなて」

 一息に言い切った。彼は喉の奥に短い息を通したきり、まばたきもしなかった。彼の目に私の影を見たが、暗幕の掛かった瞳孔に私の姿を捉えている様子は見て取れなかった。彼の胸に触れる新聞は、羊毛の冬服に負けて、中頃で折れた。差し伸ばした右腕に、彼の鼓動が伝わり来るような気がした。

「君も知りたかろまいと思って……」

 しかし、彼は口を引き結んで顔を背け、弁当を椅子に置くと、教室を去った。午後の授業には出ず、下校時にも戻らなかった。

 私は一人、教室で彼の帰りを待ちながら、彼へと謝り続けていた。とんだお節介をしてしまった。私は不意に心に触れられる恐ろしさ、それが厚意と同情からくるものであったときの居心地の悪さを知っていながら、無闇に彼の心奥へ触れてしまったのだ。


 高等小学校へ上がってすぐ、「お母さまへの感謝」という作文が週末の宿題に出された。私は先日に納骨したばかりの母の墓へと供えに行こうと、頭の中で早々と作文を書き始めたのだが、終礼後、先生から教室に残るように言われた。

 師範学校を出たばかりの若い女の先生は、床に膝を付き、私の肩を撫でて言った。

西村にしむらくんは、お母さま、おいでんらっしゃんらぁ? 今週の宿題はなしです、のぅ?」

 私は帰り道で泣いた。このときほど、母のいないことが悲しかったことはない。感謝を伝える相手が側で生きていないというだけで、書き表す機会を取り上げられたこと、それが配慮という形で与えられたことに、私は憤った。

 私にだって感謝の言葉はあると作文を書き出したが、数文字書くと涙があふれて手が震えるので、日曜を丸一日かけて取り組んだはずの作文は、用紙の半分も埋めることができなかった。月曜日、先生は私からの提出に驚きながら作文を受け取った。評価はお情けの良だった。優を付けられた同級生の朗読を、私は無表情で聞き過ごした。


 教室に入る最後の西日が陰り、室内は急に寒くなった。細い日の筋を追って暖を取っていた私は、諦めて自分の席に座った。振り返り、彼の椅子の上の弁当箱を見ていると、写生会での品目豊かな中身が思い出された。祖母が詰めてくれるという弁当箱が、寒々しい教室に取り残されている。藍色の包み布には、白い縫糸で北条と刺繍されていた。

 行灯の傍で縫い物をする母の姿がぼんやりと思い浮かんだ。私は弁当箱を彼の肩掛け鞄に入れて立ち上がった。図画室を尋ね、誰もいないことを確かめると学校を出た。

 旅館やホールが並ぶ伝馬通を横切り、随念寺の門前町へ至る。山門脇の小道を入ると、寺の白壁に対して、黒塗りの板塀が長く続く杉浦邸があった。暮れかけた群青色の空に、母屋の高い軒瓦が黒々と一直線に伸びる。太い松が架かる表門は、既に閉じられていたので、私は勝手口へ廻った。

 肌寒さに身震いしながら、中をうかがうように戸を三度叩いた。しばらく待ったが、誰も出てこなかった。つんと冷たい空気の中に、醤油と味醂みりんを煮立てる甘い匂いが漂っていた。人がいるのは確からしいと知れた。

 私はもう一度、戸を叩いて三歩下がり、

二中にちゅうの西村と申します」

と声を張り上げた。返事はまだなかった。

「北条くんにお届けものを持って参りました。二中の西村でございます」

 厨戸が開き、砂利を踏む音が近付いて、私は緊張に固まった。勝手戸を開けたのは、三十半ばの小綺麗な婦人だった。

篤敬あつのりに用でござるの?」

「はい。北条くん……あ、篤敬くんの鞄を届けに来て」

 両手を差し出そうとすると、厨から、

「みねや、どなた?」

と言う柔らかい老婦人の声が響いた。みねと呼ばれた女性は、門扉の外まで出て来て小腰を屈め、名を尋ね直した。私は差し出した鞄を握る手を慌てて体側へと添えると、小さな声で答えた。

「一年い組の西村実比古です」

「あの墨水堂の?」

「え、はい」

 彼女は歓声を挙げると、門戸の内へと呼び掛けた。

「母さま、墨水堂の坊ちゃんがおいでたわ!」

 彼女は彼の伯母だと名乗った。すぐに夫人が門まで出て来た。

「あれあれ、実比古さん! 篤敬の祖母でござります。いつも坊と仲良くしとくれまして、ありがとうござりますのぅ」

 深く頭を下げられ、私も間合いを取って、頭を下げ返した。

「こちらこそ、いつもありがとうございます。何かにつけて、北条くんに助けられとりますは、全くこちらの方でございます」

「まあ、ご丁寧に。さすが、墨水堂の坊ちゃんでおいでますわぁ」

 夫人が頬に手を添えて笑った。こういうときの口上を父の側でよく見てきたお陰か、詰まらず言えたことに安堵した。夫人は大変品の良い小柄な人で、彼の着ている服と同じ匂いの着物をまとっていた。

「実比古さん、こんな暗くにご足労おかけいたしましたのぅ。お夕食まだでござりましょう。お上がりになっていっとくれんさい、のぅ?」

 夫人が言うと、彼の伯母も手を叩いて、寒かっただろうと言いながら、私を門の中へと押し込めた。私は重ねて辞したが、二人の勢いに負けて、表玄関へと連れられた。


 座敷には既に杉浦さんが座っていた。杉浦さんは痩せた居住まいの物静かな人物で、私へと静かに一礼したきり、袖の中で腕組みをしたまま黙っていた。夫人は、杉浦さんに次いで私の前へと膳を運んだ。私が深く返礼すると、

「ほんなにかしこまらなんでも。あの子、いつもお宅にお邪魔しとりますに、いつまでたっても、坊ちゃんをお招きせんで」

と夫人は笑った。私は、彼が招かないのに勝手に上がり込んだことに、強い後悔を抱いていた。そこに、私の家へ電話をしていた彼の伯母が帰って来た。

「お嬢さまが出られましたわ。可愛らしい方で。今度は是非、篤敬をお誘いしますと言っとくれたの、母さま」

「あれ、嬉しいのぅ」

 喜び合う姿は、温かな家族そのもので、彼がここへ帰りたがらない理由は見て取れなかった。四人分の膳が揃い、杉浦さんが箸を取って食べ始めた。彼の分はなかった。

「あの、奥さま。……篤敬くんは?」

 夫人は私に箸を取るように促し、眉を下げて答えた。

「あの子、お昼過ぎに何も持たずに帰ってから、部屋の二階に上がってまって。呼んでも返事せんもんでして。何かあったか、ご存知でらっしゃいません?」

 私は軽く会釈して箸を持った。心当たりは明確であったが、返答できなかった。

 夫人はあまりしゃべる方には見えなかったが、それでも孫の様子が気になるらしく質問を重ねた。勉強のことや倶楽部のこと、また行儀良く座っているか、友達とは上手くやっているかなど、中学生に対する心配にしては幼いものも少なくなかった。

「おかしゅうござりましょう? 十分大きな子に対して。ほいですけんども、坊はずっとあちらで育ったもんで、なかなか……遠い子でしてのぅ」

 夫人は娘の方へ顔を向けて、同意を求めるように首を傾げた。彼の伯母も頷き、妹が亡くなってから、甥が打ち解けようとしないと話した。夕食の直前に帰ってきて、食べたらすぐに部屋へと籠る。学校でのことを聞いても、特にないといって聞かせない。

「特に最近は、同席すらもせんよになりましてのぅ……」

「……ねぇ、実比古さん。坊は、学校でもお話せん子なんでござりますのかのぅ?」

 学校での彼が活発な生徒であると知りながら、信じられずに確かめる口振りだった。心配は伝わり来るが、家人から距離を置きたがる彼の気持ちも、よく理解できた。

 自分のいないところで、実は家庭では良い子ではないのだと明かされた彼を思うと、胸が痛い。彼は自分の見せようと思っている自身以外が見られることを嫌うと、私は知っている。だから、彼は隠し通すのだ。

「篤敬くんは、学校でいつも友人に囲まれとります。勉強もよう出来ます、先生も頼りにしておいでるくらい」

「ほう、ですか……」

 彼を代弁するかのような私の言葉に、夫人の目は悲しみに揺れた。私は、それを見てなお強気を保つことはできなかった。すぐに頭を下げた。

「ご免ください……」

「いいえ、いいえ……! 坊には、実比古さんがおると知れて、安心いたしましたわ。本当にありがとうございます……!」

 私とて、何も知らない。俯いたまま杉浦さんを見れば、杉浦さんは、秘匿しがちな自身の孫が、私へもほとんど開示していない事実を察して、心痛の目で見返していた。

 知れないとは、不安で辛いことだ。愛する者の胸の内ならば、なおのこと。私は、迷いながらも、弁論大会にての北条くんの主張を伝えた。

 義務教育がたった四年間のこの国で、私たちは中学校にまで進んだ。勉学の成果は個人の努力でもあるが、学に専念できたとは、大いに、私たちが高い社会階層に生まれたが故の恩恵であるのだ。エリートとなり世に出てゆく私たちには、恩恵の利息を還元する義務がある。自分は海軍将校を志すが、例えその最期が海に沈み、郷里きょうりに眠ること叶わずとも、国のためを思えば、甘んじて受け入れたいと。

 尊い自己犠牲の精神に、講堂には大きな拍手が沸き起こった。けれども、私は泣きそうな心地で、彼の凛とした目鼻を見ていた。

「篤敬くん、もちろん海軍を志す気持ちに嘘があるとは思いません。ですけんど、その、お父さまのこと……」

 彼の伯母が顔を覆ってすすり泣いた。夫人も目頭を押さえる。消え入りそうな声で杉浦さんを呼びかければ、杉浦さんも腕を組んで俯き、噛みしめるように言った。

「いずれ、ならば……酷なことであるとはいえ。今のままでは、気も休まらんだろうて」

 私の胸を、冷水の濁流が貫いた。彼が新聞に探し続け、やつれるほどまでに求めた事実は、屋敷の内、大人にのみ共有されていたのだ。

「西村くん」

 杉浦さんが懐から葉書を取り出した。北条少佐の同期からという報せは、簡潔で挨拶文もなく、「勇敢デアリマシタ。必ズヤ帰ツテオ聞キカセ致シマス」とだけ走り書きされていた。

 彼は父までをも亡くした。しかし、戦争の経過は報道されず、検閲をくぐり抜けた報せも彼には伝えられない。夕飯も食べずに、暗い部屋で一人、父親の生存を祈り続けているかと思うと、私は目の前で泣き合う杉浦家の三人に強烈なやるせなさを覚えた。

 すぐにでも彼の許へ行き、抱き締めて、背を撫でてやらねばならない心地がした。隠されていた悲しみを理解してやれるのは、私しかいない。彼の孤独を見過ごせない。彼が私の手を握るのは、悲しみの打ち明け方すら知らなかったからではないのか。

 立ち上がろうとしたが、部屋を支配する重苦しい空気に、私は動けなかった。

 彼に声をかけてやってくれないかとの夫人の頼みに遠慮を示し、私は屋敷を辞した。一歩ごとに無力感が込み上げてきた。 伝馬通は街灯に照らされ、華やかな明るさに賑わう。芸妓衆とすれ違いながら、私は彼のために、何かできないだろうかと考えを巡らせていた。生まれて初めて人の力になりたいと心から願った。

 ある料亭の門柱灯の下で立ち止まり、震える手で万年筆を握ると、名古屋まで行かないかとノートに書き付けた。破り取り、女の子がやる千代紙の要領で複雑に折り畳む。北条くんへと表に宛名を書いてから、私は意を決した。荷物を残したまま杉浦邸へ駆け戻り、郵便受けへと手紙を投げ込んだ。

 翌日、私は小遣いを全て入れた財布を雑嚢の底に押し込み、杉浦邸の角で彼が出て来るのを待った。来ないのではないかとも思ったが、彼は始業に間に合うぎりぎりの時間に門から出て来た。道の先に立つ私を見付けると、一瞬眉を寄せて足を止めたが、まっすぐに歩み来て、黙って私を見つめた。

「どっちへ行こうまい?」

 私の問いかけに彼は目を濡らし、歩き出した。答えずとも、彼が制帽を鞄に仕舞ったことから、目的地は知れた。

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