第三話

 入道雲の湧く、際立って暑い朝。私たちは足速に停車場までの一里の道を進んだ。学校前を通り過ぎて駅に着くと、彼は慣れた様子で切符を二枚買い求めた。

 プラットホーム端の長椅子で待つ間、彼は、鞄から小さなスケッチブックと色鉛筆を取り出して、赤い旗を持って立つ駅員の姿を描いて見せた。私があれこれ描くよう言ううちに、駅員が旗を掲げて声を挙げ、機関車の入場を報せた。やがて、大きな石炭庫を引く蒸気機関車が目の前に止まった。私は初めて汽車を間近に見た。

 早朝の車内は空いていた。私たちは一両目の右手の席に向かい合って座った。直立した

背もたれや、絶え間なく揺れる座席は、快適とは言いづらかったが、汽車が走り出すと、

開けられた窓からは、絶えず強い風が入り込んで来た。

 私が制帽を脱いで、涼しいなと彼に問いかけると、彼もまた帽子を取って笑い返した。窓からはどこまでも広がる青い水田。葉に受けた日差しが一本の線を保って、汽車を追いかけた。三ヶ根山さんがねさんが見えて、汽車は山間の集落に入った。

 彼は幼いころに両親と共に訪れた江ノ島えのしまでの思い出を話した。人混みで迷子になってしまった彼は、島へと続く一本道の入り口に立ち続け、両親を待っていたという。そのとき、鞄に入れていたキャラメルを一粒ずつ食べて不安を紛らわしていたらしい。

 そんな話を聞く間に、汽車は谷を抜けようとしていた。彼が窓から外を指す。

「もうすぐ海が見えるよ」

 汽車は左カーブを進む。前方から流れる山が開けるのを待った。一風、強い風が吹き込むと車内は潮の香りで満たされ、同時に、日差しに照り返る青い海が目の前に広がった。波のきらめきに目を細めながら、私は思わず歓声を上げた。

「海だ!」

「海だね」

 事実の確認でしかないその一言も、感動を共有するには十分だった。

 旅館に着くと、弁当と水筒だけを雑嚢ざつのうに入れ、『勇敢なる水兵』を歌いながら浜へ出た。遠浅の白浜は大きく潮が引き、島へと続く。私たちは下駄を手にして歩いた。

 粗末な浴衣を絡げた何人もの女たちがまばらに散って浅利を取っていた。私たちが行く少し先に、十五歳くらいの少女がいた。笠の下には真っ黒に焼けた美しい顔があり、私は思わず彼女に目を取られた。彼女が私に気付いて笑いかけた。歯の白さが浮いて見えた。

 私の全身が、鼓動に震えた。更に見ていたい。しかし、同時に、彼の目にこの娘を留

めたくないとも思った。

 私は帽子のつばを深く下げて脚を速め、彼女と反対方向、西浦の岬の上に旋回し合う二匹のとんびを指して、戦っているのかなと、わざとらしく彼に尋ねた。鳶は弁当を攫っていくとの話を聞くうちに島に着き、振り返ったとき、目があまりよくない私には、彼女の姿を捉え直すことは出来なかった。

 小島の森に沿う急峻な石段を上り社殿に詣でた。木陰で弁当を食べた後、社殿の脇から続く島の裏手への小道を下り、南の磯に出て遊んだ。

 雲丹うにを拾った彼が肩掛け鞄から折りたたみナイフを取り出して切り割った。小さな雲丹はキャラメルのような濃厚な味わいだった。綺麗な貝殻を競って拾い、小海老も捕まえた。彼が磯の生態をスケッチして周る後ろを、私は付いて歩いた。夢中になるあまり、満ち潮が帰り道を失わせているということにも気付かなかった。

 三時を過ぎて慌てて島の入り口へ回ったが、四百メートルほどあった白浜は深い海へと変わっていた。私は情けなくも磯に座り込んだ。

「僕、泳げん」

「知らない海は泳いではいけない。それに、荷物もある……」

 彼は一つ息を吐くと私の側へ鞄を置いて、灯籠の立つ岩場に上がった。岸に戻る漁船がないか見渡していたが、遠くの沖にいくつか浮かぶ船は見えても、こちらへ来る気配はない。待つしかないと言って、彼は岩場を下りた。私たちは木陰に隣り合って座った。

 水筒の水がなくなり、空腹を覚え始めると、口数は少なくなった。しゃべると喉が渇くからと彼が言い、私もその通りだと黙った。夏の日にさらされた疲労が、帰れる当てのない不安と相まって、お互いの機嫌を少しずつ削いでいることはわかっていた。

 潮は満ちて、竹島の磯は海に沈んだ。私たちはひたすらに船が通るのを待った。風が吹き出して夕立の気配が見えた。上の社殿へ行って、宮司に助けを求めようかと言おうとしたとき、彼が引き潮の時刻を尋ねた。潮干狩りの娘に会ったころだったろう。

「十一時くらい……かと思う」

「じゃあ、あと六時間もすればまた潮が引く。船が来なくても、必ず帰れるから大丈夫」

 彼はぎこちなくも微笑んだ。彼の優しさは、このようなときによく現れると思った。私を安心させようと自身の動揺も不安も隠す。しかし、私を慰めようとする態度は、何とも狡く感じられた。

 彼だって不安で焦っているから、宮司に助けを求める手段に思い至らず、ここで待ちぼうけているのに、それを隠して、私ばかりが幼く動揺する存在で、自分はそれを守る兄のような顔をする。余所行きの顔だ。私は顔を背けた。その行いこそが幼さの現れとはわかっていた。彼は五月に十三歳になっていたが、私は十二月がくるまで十一歳だった。

 再び訪れた沈黙は、遠くから響く少女の声によって破られた。岸から向かって来る小舟の舳先へさきには、あの海女の少女が立ち、私たちを呼びかけながら手を振っていた。私は勢いよく立ち上がって手を振り、渇いた喉で叫び返した。

 少女は伯父だという五十過ぎの男が舵を取る小舟に私たちを乗せた。痩せた膝を抱えた少女は白い歯を見せて安堵に笑った。

「たまにおるの、行ったっきりで帰って来れん子たち。旅行の人? 夏休み?」

「ああ、夏休みだ。岡崎から来た」

「あ、やっぱ、そん帽子、二中だら?」

「あは、よくわかるね、そう」

「小学校のときの同級生も二中に行って、それ被っておいでた」

「へぇ、じゃあ先輩かな。何年生?」

 小雨の降り出す中、私は彼が余所行きの話し方で答えるのを黙って聞いていた。少女の顔を見ることはできなかった。浜で見たときは胸が騒つくほど美しいと感じたのに、そのときは、艶のない髪を無造作に結ぶ、ただの田舎娘に見えていたことが悲しかった。

 夜には大雨になった。洋燈を点けた蚊帳の中で、私は拾った貝殻を並べ、一つずつ手拭いで磨きながら、磯の様子を話し続けた。不自然なほどに、機嫌の良い顔をしていたかもしれない。彼もまた、あの少女のことは口にしなかった。その晩、私たちはどちらからともなく同じ布団で寝た。

 雨は翌朝も降り続け、私たちは外出を諦めて、部屋の中で話して過ごした。昨晩のような明るさはなく、会話が途切れると、彼は窓から霞んで見える竹島をスケッチし、私はその側で英語の小説本を読んだ。彼の手許を見遣るたびに、灰色の空と暗い海に囲まれた沖の小島が描かれていった。

 私は、雨さえ上がれば、彼へと無心に笑いかけられるような気がしていた。けれども、雨足は弱まりそうもなく、昼食を待たずに帰ることになった。


 客車は、席の半分は埋まっていた。二人で座れる席を探して歩いて行くと、車両の中央辺りに、三十路過ぎの男性が一人、眠っていたので、私たちは向かいの空席に隣り合って座った。汽車が動き出し、日常に戻る実感が刻々と迫り来た。すると、昨日の夕方から胸奥に沸き立っていた理不尽な憤りが、拠り所をなくしたかのように、霧散していった。

 蒲郡という非日常世界は、私たちを二人きりにさせた。互いのために感情を揺るがす親密な時、出来事は全て二人の出来事。けれども、日常世界は、私と彼とを一部でしか共有させない。このまま別れることが惜しまれた。

 私たちは黙っていた。意味のある沈黙だった。下を向いたまま、目だけを彼の方へ向ける。彼の太腿にある手が、客車の揺れに従って少しずつ滑り、擦れたビロード張りの座面へ落ちた。返された手の人差し指の先が、私の裾の縁に当たっていた。

 私たちの隙間を押し広げる日常世界へ戻されることに、彼も抗いを見せているのだと思った。手を重ねてみれば、彼は当然に握り返した。私の抵抗は終わった。

 向かいの男性が欠伸あくびをして目覚めた。懐から煙草を取り出して、火を点ける。雨のために車窓は閉じられていたので、行き場のない煙は私たちを包んだ。煙たい中に深く香ばしい匂いがあった。ふと男性が顔を上げて、

「坊ちゃんらぁは、二中の生徒さんかね」

と話しかけた。彼は私から手を離すと、ええと答えた。私も今度は微笑んで見せた。

「懐かしい。ワシも二中に行っとったよ」

「先輩だったんですか」

「いやぁ、とは言っても、四年の途中で家のガラぼうを継がんといかんでと、辞めてまったもんでのぅ。しかし、良い思い出だ。どうだ、牛追いの爺さんはまだおるだか?」

 男性は指に煙草を挟んだ手を振って、鐘を鳴らす仕草を真似た。私たちは、ぱっと顔を見合わせて、思わず笑い合った。

 二中談議は弾んだ。男性は十五年ほど前に二中へ通っていたという。校舎裏で松葉を集めて芋を焼き、雪が積もれば組別対抗で雪合戦をした。寄宿舎では、遅くまで勉強をして、話にふけっては、夜を明かした。彼らとは、中退した後も仲が良いらしい。

「賢くて面白い、いろんな奴がおった。今じゃ、神戸で商船やったり、北海道に石炭を掘り行ったり。大陸に渡った奴もおる。どうだ、君たちは何になるだね?」

 男性は私を見た。戸惑いながら彼を見ると、彼も前屈みに座り直して私を見た。

「僕は……うーん。家は代々書道具屋ですけんど、姉が継ぐもんでして。僕は……」

 私は自身の将来を、いずれは家を出て、外で勤めるとの程度にしか考えていなかった。男性は質問を変え、好きなことを尋ねた。

「……英語の本を読むのは好きですのぅ。翻訳してみたりもします」

「ほうかい。素晴らしいのぅ」

「実比古くんは教えるのも上手なんですよ。英語でわからなかったら彼に聞けと、専ら教室ではそうなっています」

 私は照れて、思わず座り直してしまった。 彼は、考えを巡らす呟きを漏らすと、私を透かし見るような目をして言った。

「だから、僕、実比古くんは……教員になると良いんじゃないかと思うんです」

 大きな声ではなかった。窓を叩く雨、汽車の軋み、周りの席の話し声、その他たくさんの雑音の中で、私の耳は妙な鮮明さをもって、教員という単語を捉えていた。

 背広に身を包む自身が思い浮かんだ。銀杏の青葉が映る硝子窓、高い教壇。生徒たちの視線を一身に集めながら、堂々と講義を行う姿。自分の性格では仮にも想像したことのない姿が、はっきりと見えたのだ。

「君自身はどうだん? 学校の先生」

「考えたこともなかったですけんど……ほいでも、良いなと思いました、うん」

 私は気恥ずかしい思いを抱えながら、彼に微笑んだ。彼も頷いて笑い返した。

「実比古くんは教員で。君、北条くんは?」

「僕はもう決めてます。五つのときから」

「ほう、早いのぅ。家業かね?」

「そういうわけではないのですけれど、海軍です。父も伯父も、そうなので」

「おお、それは立派だ! 孝行な息子だのぅ、お父上も嬉しかろまい」

「そうだと良いのですが」

「ほりゃあ嬉しいがね。ウチの親父さんも口には出されんが、息子が同じ職を選んでくれるとは、嬉しいもんらしいぞ」

 男性は彼の肩を叩いた。それに任せて、彼がはにかみながら、身を揺らした。珍しく彼に年相応の幼さを見た。汽車は三ヶ根山を抜けて平野へ出た。雨は少し弱まっていた。

「お父上は、今は何処いずこに?」

「旅順におります」

「旅順! ワシの友人も海軍にいるが、今は大変だそうだのぅ。発表されとらんが……」

 男性は声を潜めて私たちを引き寄せた。

「いくつか船が、沈んだげなて」

 急に寒気が押し寄せた。思わず彼を振りむくと、彼は顔を青くして、固まっていた。

「あの……どの船が、とかは、ご存知ですかいのぅ?」

八島やしまは確実だ。乗っておった友人たちが揃って怪我して陸におる」

初瀬はつせは……」

 震える声を受けて、男性は取り繕った硬い笑顔を見せて、彼の肩を叩いた。

「大丈夫だ、きっと」

 岡崎の停車場で降りると、雨は上がっていた。私はそれでも、道が悪くなっていることを理由に、馬車鉄で帰ろうと提案した。安易な慰めすら浮かばなかった。別れ際まで、黙って彼の手を握るのみだった。

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