第二話

 それでも、私は変わらず一人、教室で本を読み、彼は別の級友と話した。悲しみに燻る横顔など元より持ち合わせていないように、快活な少年の顔を見せていた。

 あの告白は、一体何だったのか。黙って聞いていただけの私は、望まれた働きを果たせなかったのではないか。彼は自身を知られた気不味さに、私を近寄らせたくないと思っているのではないか。気掛かりでも、確かめる術はなかった。

 見ているうちに、彼は交友を避ける節があると気付いた。授業後や休日に誰かの家へと誘われても、丁重に断りを入れる。級友を家に招くこともない。けれども、学校からまっすぐ家に帰る日もない。図書室に残るか、テニス倶楽部へ行くか。墨水堂も寄り道先の一つで、しばしばチューブ入りの水彩絵具などを買い足していった。

 彼の祖父は代々の地主にして、町の議員でもあったので、「門前町もんぜんちょう杉浦すぎうらさま」といえば、誰もが屋敷地を知る名家だった。

 彼とはやがて、店奥の座敷で一緒に勉強するようになった。 海軍兵学校の入試では、国数英と地歴、物化が課されるのだが、彼はいずれもよく出来た。物理、化学の履修は四年次からなので、授業後に特別に教わっているという。

 私は数学系は不得手で、彼に習った。反対に、英語はよく出来たので、たまには彼に教えることもあった。彼はいつも私の教える英語はわかりやすいと言ってくれた。 彼の携行する英英辞典は、その父が入試対策の際に使用していたものらしく、どの頁にも親子二代による注釈が書き込まれていた。 

 あるとき、彼が大きな羊羹ようかんを一竿持って来たので、姉も呼んで一緒に食べた。私の家は、当時まだ珍しく電話を備えていた程度には、平均より豊かだったが、それでも、食卓に甘い物が上ることは滅多になかった。

 姉の高小、私の中学。小さな町の文房具屋で姉弟二人分の学費を捻出してくれた父の苦労が偲ばれる。 数年後、町に新設された女学校へ姉が通い始めた年に、私は高校へ行きたいと父に願った。父は白毛の混じった眉を寄せて、何とも済まぬというように、授業料のかからない高等師範では駄目かと言ったのだった。

 梅雨に入ったころのある夜、灯下に本を読む私へと切った瓜を持って来た姉は、神妙な面持ちで隣に座った。父が婿取りに動き出したいと明かしたそうだった。

「相手はまだ決まっとらんけんど、伯父さんとこからだて」

「え……ほ、ほうかぁ。三郎兄さんとかかなぁ、同い年だし、優しいし……」

「優しいだけじゃあかん、しっかり店支えてくれる人でなぁ」

「三郎兄さんもしっかりしとるよ」

「しっかりしとるだけじゃあかん、夫婦になるだもん」

 姉は両頬へと手を当てて、ため息を吐いた。私は物語の中にある恋愛というものが、姉にも芽生えているのかと察した。姉を取られたような気がしたが、幼い嫉妬心など見せては情けない。平然とした顔で尋ねた。

「姉さん、のぅ。他に嫁に行きたい人のおるんなら、僕が店を継いでも良いよ」

「おらんよ、そんな人なん」

 早口に言い切った姉は、瓜に爪楊枝を勢いよく刺して、いくつも口に運んだ。私は高等小学校の元級友たちを思い浮かべては、一人ずつ石を投げつける気持ちで消していった。彼らに取られるくらいなら、三郎兄さんなり気心知れた従兄弟を婿に迎える方がよっぽど良い。


 体操の時間は、好きではなかった。十三、四を迎えた同級生たちは、急に背を伸ばし、腕や脚も太くなっていたが、十一歳の私はまだ細っこく、特に走ってはドベだった。北条くんは、周回遅れの私を励まして、颯爽と抜き去って行く。私はもう対抗心さえ覚えず、諦念を持ちながら、空が良い青だとか思いつつやり過ごしていた。

 それなのに、彼は私をテニス倶楽部へと誘った。当然断ったが、彼に引っ張られてラケットを握らされ、振り方を教わっていると、先輩たちも集まって来て、下校時間には入会届に名前を書かされていた。流された結果ではあったが、私はすぐに倶楽部が好きになった。あまり技巧的に詰め込まれず、楽しく身体を動かす雰囲気が性に合ったらしい。

 菅沼すがぬまさんという面倒見の良い四年の先輩が、ラケットのお下がりを私に与え、ルールなども細かく教えてくれた。倶楽部帰りに校門前の菓子屋で団子をご馳走してくれたり、倶楽部室では、香港ほんこんの雑誌を私たちに見せた。実家は、豊橋にて海運を営んでいたそうだ。

 菅沼さんも、やはり洋服を着ていた。その上珍しく、靴を履いていた。赤い靴下を合わせるので、歩くたびにズボンと靴の間から、ちらちらと赤が覗いた。少し気取ったところはあったが、やはり気の利く良い先輩だった。

 毎日楽しみにしていた倶楽部も、期末試験が近付くと休止になり、私は代わりに図書室へ通った。図書室は好きだった。本棚から立つ黴の匂いと、誘われる眠気に薄い幕の掛かる意識。その中で書き起こす万年筆の青い文字列が一番身体に馴染み、頭に残る気がするのだ。

 明るい場所にある机は、既に上級生の指定席とされていたので、私は奥の本棚の合間、五十センチ四方の小窓の下に置かれた半月机を使っていた。

 台風が近付き、大粒の雨が窓硝子をうるさく叩く。薄暗い机で英文を書き写していると、数学の教科書を抱えた彼が私を覗き込んだ。私は一つ頷くと、急いで教科書を掻き寄せて机の右半分を開けた。彼が座り、数学のノートを開いた。この前、墨水堂で買っていったものだった。先を細く削られた緑の鉛筆もそうだった。 軽いリズムで数式が書かれていくが、雨音に掻き消されて、図書室は無音であるように感じられた。それが心地良かった。

 下校の鐘が鳴ると、辺りは一気に騒めきを取り戻す。私たちも片付け、立ち上がった。彼は窓から外を見て、今日は真っ直ぐ帰った方が良さそうだとこぼし、次いで、そういえば、と思い出したように宙に向かって言った。

「僕、海へ行きたいんだ」

「ああ、もう夏休みだでのぅ」

「うん。ここらへんだと、どこが良いのかい?」

幡豆はずあたりが良かろまい。少し遠いけんど、小旅行には丁度良い」

「どれくらいあるんだ?」

「四里半くらいかのぅ」

「確かに少しあるね。君、行ったことは?」

「幡豆? 僕は、ないよ」

「そうか。じゃあ、一緒に行こう」

 私の返事を待たず、彼は廊下へ向かって歩き出した。私は話の流れをもう一度思い返してみた。彼は海へ行きたくて、私は海への距離を知ってはいるが、実際に道を辿ったことはない。一緒に行くことになる流れではなかったように思えた。

 また不意に、彼が普段構えている形とは別の彼をちらりと見せながら、すぐに隠された気持ちになった。下校の道中では、彼が菅沼さんより借り受けた過去問を元に、数学の問題がどこから出るかの予想を話していたので、海の話はそれきりになってしまった。

 夏休み、彼と、海へ行く。三項以上にはなされていないながらも、この約束は、私に夏休みを待ち遠しくさせるには十分だった。帰ってから、自慢気に姉へ報告した。姉はいかに自分が私の交友関係を気にしていたかを話し、私の手を取って、何故か彼への感謝を述べた。私は大袈裟だと澄まして返したが、その晩はすぐに眠れなかった。

 私の期待とは裏腹に、彼は翌日、店へ来たときも、その話をしなかった。その次に来たときもしなかった。私は、彼が案外気まぐれな質であると考えることにした。家庭の話だとて、私に対してしたわけではなく、たまたま、彼の口から寂しさが漏れ出た時に私が居合わせただけだったのだ。

 そう考えると、六所神社での話も、海の話も、何やら現実味を帯びていないように感じられてきて、心から離れていった。

 私は試験勉強に没頭した。級友たちと教室に残って、得意教科を教え合った。私は英語とドイツ語を請われた。彼は自ら予想問題を作って、数学と地理を教えた。テストの一週間前には、下校後も店の奥座敷で勉強した。

 私の家は六時の店仕舞いを終えた父と姉とで夕食を作るので、支度が調うのは七時を過ぎることが多かった。姉が夕食に呼びに来ると、彼は帰って行く。一緒にと誘うのだが、彼は毎度、家の者が待っているからと丁寧に辞した。

 彼が来た日の食卓では、姉はいつも彼の話をした。私は、彼自身もまた、姉を悪く思っていないことを感じており、どちらかが相手のことを好きだと口にする時が来るのを密かに恐れていた。

 店へ降りる階段の格子からは、帳場の机が見下ろせる。姉はそこで宿題をしたり、本を読んだりして、店番に当たるのだが、ある夕方、白い便箋を前に物思いのため息をついていた。手には小さな色紙があり、それを見つめては、更にため息を重ねる。

 私は階段をきしませないように慎重に格子へと顔を寄せ、姉の手の内を覗いた。色鉛筆にて彩色された、姉の似顔絵だった。それが北条くんからのものであること、彼が春先、ミルクホールの女中へと渡していたものの正体、姉が書こうとしている手紙の内容。一瞬にして繋がった。

 その男は気が多いから止めておけと姉に言いたかったし、この女は頑固で気が強いから止せと彼に言いたかった。第一、友人であるはずの私を飛び越して、その姉に何かを渡すのは、アン・フェアーではないか。二人して私に内緒で、どんな心を明かし合ったのだ。

 私はわざと大きな足音を立てて、階段を降りた。慌てて机の上を片付ける姉の方は見向きもせずに、本棚からある文芸雑誌を取り出す。それを、もう一回り大きい冊子の間に挟んで棚へと戻すと、素知らぬ顔で姉を振り返った。

「姉さん、『国民之友』知らん? 『舞姫』載っとるの」

 赤い顔をした姉は、両手を後ろに回したまま、知らないと答える。私は本棚を探すふりをしながら、あれは北条くんが好きなのだと、聞いたこともない作り話をこぼした。

「恋愛よりも仕事、社会的な名誉を重んじたいって、言っとった。僕はそこまで割り切れんわ。まあ、北条くんらしいといえば、らしいけんどのぅ」

 私の牽制は成功して、その夜、『舞姫』は本棚から消えていた。彼は長男で海軍に入るし、姉は長女で店を継ぐ。今となっては、少年期の恋愛くらい、家にとらわれずにすれば良いと思えるのだが、当時は悔しさと恥ずかしさが私を支配していた。結局、姉は手紙を遣らなかったようだった。


 期末試験はそこそこの手応えの内に終った。予想問題は多いに役立ち、彼は級友たちから昼食を振る舞われるらしく、終礼の後すぐに教室を出て行った。私は家へ帰り、素麺を食べると、連日の試験対策で溜まった眠気のために、すぐ部屋へ上って眠ってしまった。

 姉の声に目が覚めると、既に夕方だった。襖を開けたまま、私を見下ろす姉は、北条くん、とだけ言って、階下へ戻って行った。私はすぐに起きて後を追った。

 彼はラムネを三本持って来ていた。私は、姉に一つ渡してから、初めて彼を私の部屋へと通した。いつも勉強している店奥の座敷には、丁度、父の来客があった。私たちは、どの科目の試験が難しかったかを話しながら、少し温くなったラムネを飲んだ。

「海の話だけれどね」

 彼が突然切り出したので、私はあの約束のことだとは、一瞬気が付かなかった。竹島に行こうと誘われる。

「竹島って、蒲郡がまごおりの?」

「ああ、弁天さま。調べたら、あそこは鉄道で行くには一番行きやすい。朝に出れば、昼前には着くよ」

「ほいたら、弁当を持って行かまい、のぅ」

「うん。今度は僕も自分でやろう。握り飯」

 彼は手を丸く合わせ、握る真似をしてみせた。この仕草を見て、私は初めて彼が神社での話を肯定したように感じた。彼はいつもと変わらず明るい様子だった。

 私は、彼が私を選んだ、と仮定した。何の対象としてか、また何故私なのか、判然とはしないながらも、私とその他の級友とでは、期待される役割が違うと理解した。

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