第3話 急

 それが生じたのは、学年が変わって5月の半ばになった頃だった。

 史奈が例の短編小説コンテストで受賞したのだ。大賞ではなかったが、話題になるには十分だった。

 その日、裕士は皆に囲まれている史奈を見つけた。

「すごいじゃん! 最年少受賞者だって!」

「山瀬さん、本当に才能あったんだ」

「いいな~私も何か書こうかな。書き方、教えてくれる?」

 彼女は慣れない状況に戸惑っているように見えた。

「山瀬――」

「あ、中谷君、ちょっと――」

 彼が声を掛けようとしたが、それは途中で遮られた。


 ――自分とは違うんだな。山瀬は「本物」なんだ。


 それは短い時間だったが、彼にそう思わせるのには十分だった。

 彼女は「主役」になれる。自分とは違う……そんな考えが彼の頭にこびりついた。


 それから、文芸部は一気に持ち直した。

 入部希望者が幾人も現れ、顧問や部長も頻繁に部室に現れるようになった。

 もはや廃部寸前の頃とは大違いで、部室は活気に満ち溢れていた。

 しかし、裕士と史奈の隔たりは大きくなっていった。

 彼女の方は今まで通り接しようとしていたが、彼は距離を置くようになった。

「中谷君、また私の書いたのを読んでくれる?」

「他の奴に当たってくれ。読みたい奴は山程居るだろ?」

「でも……」

 こんな風に、簡単に会話が途切れてしまう。

 史奈の方も元々内気な性格で積極的ではなかったとはいえ、大きな原因は裕士の方にあった。


 ――彼女は自分とは「違う」。


 そんな意識が心のどこかに滞っているのだ。

 彼自身、自分のコンプレックスが原因だと気付いていたが、それで素直になれるかというと話は別だった。意識しないようにと考える度に、かえって意識してしまうのだった。

 空は良く晴れていた。雨一滴降りそうになかった。


 9年後、裕士は平凡なサラリーマンとして独り暮らししながら働いていた。

 夜、独りきりの安アパートの部屋に、キーボードを打つ音が響いていた。

 彼は相変わらず、自分の読んだ本の感想を書き続けて、それを公開し続けていた。それは感想というより、社会人になったせいかより客観的な書評に近くなっていた。

 それだけが彼女との唯一の絆――彼女が勧めてくれたことを続けることだけが、彼女との接点のような気がしていた。

 あの後間もなく、彼は文芸部を辞めた。部員も増えたことだしもう廃部の心配はないだろうというのが表向きの理由だったが、本当は史奈と関わるのが辛くなったからだった。

 彼女もそれを察してか、引き留めようとはしなかった。彼にはそれがありがたかった。

 今は良くても、近いうちに「脇役」の自分は捨てられる。それならいっそのこと――根底にはそんな気持ちがあった。

 それ以降、お互いに何の連絡もしなかった。もうその方が良い。そう思っていたのかもしれないが、今となっては確かめる気にもならないことだった。


 ある日、彼の元に1件の連絡があった。

 ネット上の小さなニュースサイトで、彼に指定した本の本格的な書評を書いてみないかというものだった。

 最初詐欺かと思ったが、確認してみると本物だった。どうやら彼が今まで書いた感想を見て依頼してきたらしかった。

 彼は小遣い稼ぎと暇つぶしにはなるだろうと思って引き受けたが、意外にも評価してくれる人がそれなりに居て、一部の人間には評価されるサイトになっていった。

 そんな時、彼はある依頼を見て目を見開いた。


「もう、会うことはないと思ってた」

 史奈は喫茶店で裕士と向き合うとそう言った。

 あの時、彼に書評の依頼があったのは史奈の本だった。彼女はプロになってからもペンネームは使わず本名のままだったから、すぐに分かった。あの賞の後、プロになった史奈が出版社から本を出していることは知っていたが、なんとなく避けていたものだった。

 彼が書いた書評がサイトに載ると、彼女から連絡があったのだ。是非会いたい。会って話がしたいとのことだった。

「山瀬は今では、ベストセラー作家だからな」

 彼女はあれ以降、出す本出す本が全て売れてとんとん拍子に有名になっていった。未だに冴えないサラリーマンをしながら、小さなサイトで書評を書いている彼とは大違いだ。

「ううん……昔と変わってないわ」

 そう言うと、彼女の表情が少し曇った。

「どうかしたのか?」

「うん、ちょっとね。あれ以来、ずっと私を避けてたでしょう?」

 その声に非難する意味は含まれていなかった。むしろどこか寂しげだった。

「いや、そんなことは――」

「嘘。ずっと分かってた。でも、あなたがそうするのなら、無理に関わらない方がお互いのためだと思ってた……」

 沈黙。気まずい空気が流れる。

「ああ、確かにそうだ。怖かった……そのうち『脇役』の自分なんか相手にされなくなるんじゃないかって……」

「そんなことないわ。中谷君は中谷君だよ」

 そう言うと少し笑った。彼女の笑顔は昔のままだった。

 そうだ、変わったのは自分の方だ――彼はそう自覚した。

「結局、俺の方が勝手に避けてたんだな」

 そうぽつりと言った。

 また沈黙。

「私、旦那と別れたの」

 今度は彼女の方がぽつりと言った。

「え?」

「だから、離婚したの。結婚するまで財産目当てだって気付かなくて、結婚したら私に暴力を振るうようになって…………離婚するなら、慰謝料をよこせって……」

「本の名前変わってなかったけどな」

「ああ、それは編集の人が旧姓のままの方が良いって……実際には、その間には1冊しか書かなかったけど。毎晩遊び歩いて、帰ってくると暴力を振るって……とてもじゃないけど、そんなにも書ける状況じゃなかったわ」

「酷い男だ。俺が居たら殴ってやったのに」

 自然と彼の口からそう出た。

「そう……居てくれたら、良かったのにね」

 彼女の目尻には涙が浮かんでいた。

「今までずっと放っておいて済まなかった」

 何を言っているんだろう。自分は彼女にとって彼氏でもなんでもないのに――彼は言ってから疑問に思ったが、訂正する気にはなれなかった。

「うん、酷いわ……また会いたいって、ずっと思ってた。まだ誰も評価してくれなかった頃、あなたが読んで感想を言ってくれるのが嬉しかった……」

 彼女は泣きながら笑っていた。


 ――一緒に居よう。いつまで続くかは分からないが。


 彼はそう決心した。

「でも、こうしてまた会えた」

 彼はそっと彼女の手を握ったが、彼女は拒まなかった。

「今度は、居なくなったりしないでね」

 彼女の目から涙がこぼれた。

「ああ、そうだな」


 空は良く晴れていた。

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△▼それでも空は泣いてくれない△▼ 異端者 @itansya

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