終の章 《獣の国》10

 真夜中は魔獣の時間だった。たとえ結界に囲まれた安全な村中であっても、人は夜を出歩かない。人は闇という存在を本能的に恐れる、一方魔獣は夜の闇を好んで徘徊する。魔獣は闇の眷族、人は光の民。人には人の時間があるように、魔獣には魔獣の時間が存在する。真夜中は魔獣の時間だった。彼らの時間を邪魔することは、闇の眷族である彼らの怒りを買うことになるかもしれない。だから村人も狩人ですら夜は出ず家で一夜を明かすのだ。

 真夜中の森の中に響く音は風の音、草を踏みしめる大勢の足音、枝を無造作に折り、眼にした果実を捥ぎ取って口にして、そして捨てる音。捨てられた果実が後方の誰かに踏み潰されたようだ。ぶちゃりと、やけに大きな水音が響く。まるで頭が潰れたみたいな音だなと、思のは己が半分だけとはいえ吸血鬼の血が故か。


「あまり音を立てるなよ」

「平気だろ。なんの為の防音魔法だと思ってるんだ」


 咎める声は先頭から、応える声は後方から。同意し鼓舞する声が辺りに響いたところで先頭の男は諦めたように嘆息した。

 歩む足元はこの周囲にしか聞こえていない。総勢にして五十になる仲間たちの中にいる最も優秀な魔法使いがそれを成しているのだ。その者はこの箱庭の世界で最も優れた者たちだけが集う学び舎でそれなりの成績を収めていたらしい。らしいと言うのも、当時禁術に手を出したが為に追放処分になったそうだ。そうでなければ奴隷商人だとやっていないと酒の席で愚痴をこぼしていた気がする。

 集う仲間は、しかし仲間と呼べるほど強固な繋がりはない。ただ、同じ目的の為に行動している。先頭の男とて別にリーダーというわけではなく、ただこの中で一番腕が立つからという程度だ。蜥蜴人リザート族の男は亜人ならではの強靭な肉体と絶命するほどの重傷でなければ何度でも再生できる種族としての能力を買われ、この奴隷商人仲間に加わったのは五十年ほど前だった。一番の年長でもある彼に大体仲間は従うが、いざという時は見捨てることくらいはする程度の繋がりしかないのも事実。相手もそれを分かっている、そう確信できるくらいにはお互いがお互いを信頼しているようで、していない。


「・・・ん?」


 ふと、先頭の男が止まった。右手が上がる、止まれの合図に数人が数歩前に出てから止まった。統制が取れていないことがバレバレであり、それを認めたのだろう・・・木に背中を預けて佇む黒衣の影から苦笑の息が漏れた。


「まさに寄せ集めという感じだなぁ。俺を殺す気があるのか?」


 からりと笑う声は存外に若い印象を抱かせた。わずかな月光さえも拾う視覚がその姿を正確に捉え、そうしてこの国で《黒の牙》などと称えられているそのいでたちを観察する。

 最初に抱いた感想は、若い、だった。典型的な人族の姿は見た目にして三十代前半、およそ百年ほど生きるという人族の中でも若い部類に入るだろう。よもや異種族のハーフではなかろうかと、尖った耳や鱗や瞳孔の違いはないかとつぶさに観察しても男からは異種族と断定できる特徴は見いだせない。ただ、頭から被った外套のせいで顔の左側が良く見えない。黒い髪に黒い瞳、堀の深い顔立ちはアスガルドの系列を彷彿とさせ、少なくとも高天の円丘系列であるこの国の人間ではない。


「お前が黒の牙か」

「そうらしい。俺がそう名乗ったわけではないが、この歳になって英雄と言われてもむず痒くて」


 先頭の男が警戒を露わに声を掛けたのに対し黒の牙だと頷いた相手はどこまでものんびりと返してみせる。木から背中を離した、体の正面をこちら側に向けて、そうして歩み出す男の全貌が月光に晒される。

 黒衣の下は戦士の肉体をしていた。緩やかな衣の上からでも分かる鍛え抜かれた鋼の肉体はいっそアスガルドの戦士と言われても納得できるほどに完成形だった。誰かが口笛を吹いた。奴隷であれば高値が付くと零す者もいれば、人族であるなら惜しいと落胆する者も。亜人か、ハーフであってもそこそこの値が着くはずだ。それこそもしも、神族の血が一滴でも入っていればその価値は爆上がりする。そう思わせるほど男は美しかったのだ。同じ性であると分かっていても魅了される。そういうモノこそ、奴隷としては高く高く売れるのだ。


「一応聞くが、俺を殺しに来たんだよな?」

「・・・そのつもりだったが、気が変わった。お前は十分に商品になる」


 これはよほどの無能でなければ生け捕りを選択するのは必定だった。蜥蜴人リザート族の男が背中の武器を抜き放てば周囲で仲間も各々武器を構えている。自分は魔法攻撃専門だと、背中の杖を抜き放った。

 その時だった。手に慣れたはずの柄を持った時、ぬるりと。生温かい何かが触れて手が滑ったのは。


「は?」


 からんと零れ落ちるそれを拾おうと伸ばした手に、赤が見えた。先ほどの果実の果汁だろうか、確かアレも血のような真っ赤な色をしていた。吸血鬼の性なのかつい赤いモノは食べたくなるのだ。けれどあまりおいしくなくて食べかけは捨てた。それを誰かが踏んだのだ。それが飛び散ったのか。











けれど、この鼻腔を撫でる豊潤な香りは。この手に纏わりつく魅力的な赤は。この魂に本能に焼き付いているものと同じ。






「ダメだぞ?食べ物を粗末にするのは」


 男の声がする。見上げれば、男は何かを食べていた。しゃりしゃりと音を立てて食しているのは真っ赤な果実。自分が先ほど捨てたそれとよくよく似ているような気がした。

 振り返れと本能が告げた。見なければ、見たくない。けれど、見て確かめないといけなかった。あれが、あの男が食べる果実が、


「・・・・・・ひ・・・」


 光の影響なのか、最初は黒い影が広がっているようにしか見えなかった。しかしすぐに慣れた視界が拾ったその色は、赤だった。赤が飛び散っていた。草に花に木に、まるで水風船が爆散したかのように綺麗な円状の赤い飛沫が広がっている。丁度、己が歩んだその道筋に、仲間が、最も優れた魔法士がいたはずのその場所に。死体どころか肉の欠片も骨の一つも残っていなかった。綺麗に潰されたのだ、あの、潰れるような、音。


「ほら、君たちのような輩がよくするだろう。捨てた果実を踏み潰す。これとて立派な命なんだ。だから、果実の気持ちを味わってみれば少しはありがたみが分かるだろうとな」


 しゃくりと音を立てて果実がかじり取られた。一体こいつが何を言っているのか分からなかった。さも当然のように、人を果実と同じように潰すだなんて。それを実行したことよりも、それをしようと考えた思考の方がより恐ろしかった。ましてそこに感情がない。復讐や憤怒によって仇敵に同じ痛みを味合わせようとする人間ならごまんといるが、男のそれはなんらその意味合いを持っていないと分かるのだ。だってその目は声はどこまでも穏やかなのだから。

 男の異常性に空気が張り詰める。すでに一人殺されているのだ。それを今の今まで誰にも気取らせることなく。力は異常にある、人間一人を肉片骨片残さず潰すだけの剛力を思えば触れられたらアウトくらいに考えなければ。


「ぎ、ぎゃぁああ!!!」


その時だった。静寂と緊張感を破るそれは断末魔だった。この薄闇にあるはずのない光が瞬いた。それは赤、しかし血のような深い赤ではない。眼を焼くほどの眩い炎の赤だった。

 広がる動揺、仲間の一人が火だるまに包まれていた。悶え苦しみながら暴れまわり、それはまるで狂ったように踊っているようにも見えた。やがて一層強く熱を持った炎はあっという間にその体を炭化させるとぼろぼろと崩れ去ってしまった。完全に崩れ去るその瞬間まで悲鳴が聞こえていた。あり得ない、炭化するほどの熱に当てられ生きていられるはずなどない。少なくとも燃え尽きた彼はただの人族だ。魔法的防御も何もできないはず。それでも生きていた。のだ。だってあれだけ激しい炎を纏って暴れていたというのに、周囲の樹はおろか足元の草一本すら延焼を引き起こしていない。


「っ!?奴は一人じゃない!!魔法士の仲間がいるぞ!!」


 蜥蜴人リザート族の怒号が響く。周囲を見渡す者、とうに腰が抜けて立ちあがることすらできず震える者、あまりの恐怖に発狂し、そうして逃げ出した一人を赤き業火が包み込んだ。そのまま半狂乱になった火だるまの男が近くの仲間に突撃して、そうして二人もろとも絶叫を響かせながら灰となって崩れていく。

 何が起きているのだろう。少なくともこれは想定していたどの現象にも当てはまらない。黒の牙を狩るつもりだった。生け捕りならよし、殺しても村を襲って、相手が強ければ逃げる算段とてしていたはずだ。であるのに、攻撃をすることもできず、挙句逃げようとすれば炎が迫る。それを行使している魔法士の姿は未だ見えぬまま、別の場所で四人目が燃えた。


「おぉ。焼くで思い出した。パイ系に挑戦するのも悪くないなぁ。焔、最初は何にしようか」

「アップルパイ」

「本当に好きだなぁ」


 別の声がした。それは黒衣の男とは対極の場所から、あらゆる感情を宿した視線の数々が、こちらに向けられた。否・・・己の背後、今の今までそこにいたと言わんばかりに佇んでいる。その気配の主に向けられているのだ。

 冷汗が伝う。背後にいるのは、人ではない。亜人族でも、今まで自分が見て来たどの種族とも一線を画した存在だった。血の気配が、違うのだ。そもそもの格が違うとばかりに、背後の存在から漂うそれは劇薬のごとき悍ましさと、甘露のごとき甘さを孕んでいる。


「吸血鬼、ハーフと言ったところか。まぁ、だからどうしたという話になるが」


響く声は背筋が凍るほどに美しい声をしていた。男の声だ、年代は黒衣の男とそう変わらないだろう。衣擦れの音がやけに近くに聞こえたのは、背後から伸ばされたその腕が存外に顔の近くにあったから。細くはないが、骨太いとは言えない男の腕。滑らかな動きで伸ばされたその指先は細く白く、それはまるで女の手のようにも。


「ほむら・・・?・・・!!!ま、まさか、あんたは玄か!?」


その時だった。あの蜥蜴人リザートの男の声がして、彼は驚き目を見開くと黒衣の男を振り仰いでいた。玄、それは彼の名前なのだろう。呼ばれた男の方はといえば微かに驚いたように片眉を上げている。


「んん?はて、俺はいつ名乗りを上げたか」

「お、俺だ!!蜥蜴人リザートの、東の沼地の!昔あんたに世話になった!!」


 必死な形相でまくしたてる男に対し、玄と呼ばれた黒衣の男は逡巡するような素振りをした。その仕草で、顔を覆っていたフードがずれた。影からでも見える、その瞳の色彩に誰からともなく悲鳴を上げた。

 それは黄金だった。黄色でも、ましてそれに準ずる黄色系統のそれではない。紛うことなき黄金の虹彩は、この箱庭の世界ではただ一つの種族しか持つことを許されない奇跡の色。


 「し、神族しんぞく・・・!!!」


 箱庭の創造主、この世界に様々種族を昇華し永遠を生きる存在。神族は様々姿を持つとされるが、唯一絶対に瞳は黄金を持つと言うのだ。あえて隠す神もいるが、他の種族が神を真似て瞳に黄金を宿すことはない。禁忌であるからだ、その色を持つことが赦されているのは神とその一族のみ。


「・・・あぁ、お前はあの時の・・・んん?確か、お前あの時も人族を襲っていなかったか?」

「そ、それは村が食糧不足で仕方なかったと話しただろう!?い、今だって仕方なく・・・!!」


 しどろもどろに話す男に黒衣の男は訝し気に眉をひそめていく。大嘘だった、あいつは村の生活が嫌になったから外へ出たと宣っていたのに。あれではまるで命乞いだった。実際にそうなのだろう。なにせ、相手は間違いなく神族なのだ。その証が虹彩に出るほどの血が濃いともなれば、もはやこの戦いは

 がたがたと震える相手に何を思ったのだろう。黒衣の男が一歩踏み出した。それに対し蜥蜴人リザートの彼は二歩下がった。


「何故逃げる?」

「た、頼む・・・い、命だけは・・・」


一歩進んで、今度は三歩下がる。その距離は縮まるどころか広がる一方だった。周囲はもはや音さえ聞こえない。あまりの恐怖に声も出ないのだろう。逃げられる者もいないはずだ。体力の問題ではない、気力の問題だった。誰もが察しているのだ。もはや、不可能であると。

 なぜならば、神族という存在はどこまで言っても神でしかない。


「逃げても仕方がないだろう。お前はすでに、俺たちの慈悲を無駄にしたのだから」

「あ」


 伸ばされる腕が伸びたように見えたのは、黒衣の男が一瞬にしてその距離を縮めたからだろうか。無骨な掌が蜥蜴の頭を鷲掴む。そのまま、まるで叩きつけるように下方へ力が込められた腕によってその身は呆気なくひしゃげて潰れた。ぶちゃり、響く音は先ほどよりもずっと大きく生々しく聞こえた。かろうじて肉片が残ったのは男が手にした頭の断片だけだった。それ以外は、足も胴体も腕も首も、何一つ跡形も残らずぺっちゃんこ。


、お前はもう俺のことなど何とも思っていない証だ。神は、人に乞われてこそ神なんだ。己のことを想ってくれない人を、どうして神が見逃すと?」

「そも、態度からなっていない。命が惜しくば地に額を擦り付けて許しを乞うのが道理だろうに。これだけのことをしでかして、再びの慈悲を乞うなど愚の骨頂」


 まるで諭すように穏やかな声をした黒衣の男とは対照的に背後の声は冷めきっていた。怒りを通り越して呆れさえ滲ませた声は、届けるべき相手がすでに死していることすらどうでもいいとばかりに抑揚がない。

 分かっていた。神に、人の道理など何一つ通用しないことなど。気まぐれに種族を創造し、思いつきで終焉を引き起こし、成り行きで世界大戦すら引き起こす。そういう存在で、奴らにとって人の営みなどただの娯楽に過ぎない。奴らにとって他の種族は玩具と同じなのだ。己の為に遊んでくれる玩具は大事に、不良品はゴミ箱に。それと同じで、それ以上でも以下でもない。

 神族とは、きっと人ではない姿をしているのだと思っていた。ハーフすら見たことはなく、神族の血を引いた存在をたった一人だけ知っていた。吸血鬼の不滅なる王、その人もまた黄金の瞳をしていた。彼の王は、他とは一線を画した美貌と強大な魔力を抱えているという。

 かつてその王に仕えてみたいと抱いた夢は半ばにして崩れ去ったが・・・その王は、こんな綺麗な顔をしていたのだろうか。決死の覚悟で振り仰ぐ背後の存在は、両の目に神なる黄金を宿した美しい男だった。


「・・・・・・・・・綺麗・・・」


 口から滑り落ちた言葉は無意識だった。そう言わなければいけない強迫観念じみた感覚さえ覚え、しかしそれ以上の言葉をかける術を持たなかった。清廉されたナイフのように鋭い瞳、高く通った鼻梁との配置は絶妙で、薄い唇は月明りさえも弾くほど艶めかしく。その頬にはシミの一片も気配もなく、未踏破の雪原の如き真白を称えながら人肌の温もりがあることを示すように淡い朱を指している。

 そして何よりも、その赤がこの心を捕らえていた。月光に映える赤い髪は業火の如き紅と、灯の如き橙と、鮮血の如き赤を宿している。その身を包む白衣と混ざり合って風の中で踊る様はまるで炎が舞っているかのようだった。


「問う、最後に言い残すことは?」


 赤き神の黄金がこちらを見下ろしている。神が、己を見ているのだ。孤高にして不滅、完全無敵の存在が、吸血鬼にもなれなかった半端者な己だけを見つめている。そう認知した瞬間、背筋を駆け抜ける痺れは快感か恐怖か。いずれにしても、今この瞬間だけは、この神の眼はただ己がモノ。

 神が聞いているのだ。答えなければ。最初で最後の慈悲を賜っているのだ。視界のあちこちで赤が舞っている。それは神の赤き髪か、それとも断末魔を響かせる業火の焔か。

 そんなことも、もはやどうでもいい。


「・・・・・・殺してください、貴方様の御手で」

「よき、その願いを叶えよう」


 その神と同じ赤い赤い業火が最後の一人を焼き尽くす。彼が最期に見たのは、赤い炎の中でうっそりと笑う悍ましいほど美しい男神の姿だった。それはまるで、何もかも思い通りにいって満足したような、そんな顔。






~~~~~~~~~~






「お前、最後に魅了の魔法を使っただろう」

「何を言う、俺ほど美しい男に殺されるんだ。これ以上の誉があるとでも?」

「どう見ても正気じゃない目をしていたが?」

「なんだ、妬いたか?」

「当たり前だろう。俺以外の男がお前に惚れるなど許せる業じゃない。一瞬で灰にして、俺が手を出す暇もなかったじゃないか」

「最後のアレはどちらにしても俺が殺るつもりだった」

「何故?」

「子どもの時のお前によく似ていたから、笑えば同じ顔をするのかと思ってな」

「・・・で?」

「まっっっっったく似ていなかった」

「だろうな」

「俺の睡眠時間を無駄にして。せめてこの森の肥料くらいにはなってもらうぞ」

「ここらで実った果実は当分口にしたくはないがなぁ」


 夜明けを告げる太陽が東の山から顔を出そうとするその間際、二人の神の会話はどこまでものんびりと響き渡った。それは彼らにとっては当たり前で、人にとってはただ無慈悲に。

 ここは箱庭、神と人とが混在する永遠の楽園。そこには神が当たり前に住まい、そして当たり前に慈悲と裁きを行使する。隣近所に当たり前に神が住んでいることもあるが、必ずしもそれは対等な関係にあらず。神を想う人は愛し子に、想わぬ人は咎人に。それが神の道理であり、絶対の理であるのだから。


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箱庭放浪記 紅沢みあい @akairo1015

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