終の章 《獣の国》9
「・・・五千歳?」
「あぁ、だいたい五千と三百歳くらいだ」
それがどうしたと返せば対面の男はパンを咥えたまま固まっていた。その膝に収まった赤穂だけは凄いねなんてころりと笑い、男の妻の膝上にいる璃空も無邪気に目を輝かせている。
まぁ色々あったが、鴻連夫夫はこの村に落ち着くことが決まった。四谷に戻るつもりもないと宣った鴻連は覚悟を決めたらしい。恩を返すと、義理堅い獣人族らしい答えに玄は穏やかに笑っていた。
彼らという腕の立つ狩人の仲間入りは水生村総出で喜び歓待した。翠森の最果て斑ということもあり四谷の狩人が訪れる機会も少なく、故に勉強になると若人たちはそれはもう喜んでいた。ただ、今はもう越冬の時期である。狩は暫くお休みで、この期間に内職の手ほどきをすることになったのだ。
そんな折だった。鴻連に何気なく聞かれた実年齢に焔は素直に答えたのは。男はフリーズしていたが、やがて口にしたままだったパンで呼吸困難に陥ったらしい。咳き込みながらそれを一度吐き出して、行儀が悪いと妻にも子どもにも叱られていた。
「は、あぁあ!!?ご、五千!?その見た目で!?」
「俺たちの種族はある一定の時期を過ぎると成長が止まる。なんなら俺たちよりずっと幼い見目をしながら齢一万を超える兄弟とている。個人差という奴だな」
「いちま・・・」
「焔さんには兄弟がいるの?」
「いるぞ。姉が三人に兄が五人」
「賑やかだな!」
などと笑う双子たちはパンの中に生クリームを詰めたものがお気に召したようで口の周りを真っ白にしている。チョコレートがあれば別の味も造れるのであるが、その原材料はさすがに手持ちにはなく、自生しているとすればここより暖かな気候をしているという蒼海だろうか。
「師匠ー。このパンさ、肉とか詰めたらもっと美味いんじゃないか?」
「ほぉ?ノーヒントでハンバーガーに辿り着いたか」
「絶対に美味しいやつだ!」
作ってくれと正吾にせがまれたが今は菓子パンの試食会であるのでそれは後日になった。そこで、漸く鴻連が覚醒した。なお妻の燕洛はそうそうに考えるのを止めたようで無言であんぱんを食べている。あんこの見た目の黒々しさに最初は引いていた彼であったが、滑らかなくちどけと甘みにすっかり気に入ったらしい。
「玄の言葉は冗談かと思いたかったが・・・もはや理解の範疇を超えている・・・外の世界の住人は皆そうなのか・・・?」
「まさか。俺たちの種族が特別なだけさ、お前たちと同じほどの寿命の種族もいれば、その半分程度の種族とている。たった三十年ばかりしか生きられない種族もいたな」
この閉ざされた世界では決して聞けない外の世界の話に、すると妻や双子だけでなく正吾も食いついてきた。もっと話を聞かせて欲しい、純然な好奇心に輝く瞳を前に焔はついと笑みを零す。ありし日に見た光景によく似ていた。顔ぶれは違えど、旅人の話というものはいつだって娯楽の一つみたいなものだからだ。誰だって自分が知らない世界を知りたがる。
午後の穏やかな風が縁側を吹き抜けた。自宅の前に植えられた小麦畑から豊かに実った穂の香りがする。その中にいる夫たる男と村の仲間たちの軽快な声は耳に心地よく、暖かな風景が五千の記憶を想起させてくれる。
「色んな国がある。それだけ多くの人が暮らし、お互いに思想や生き方も違う。お前たちがかつて肉と果物しか食さなかったように。草だけを喰らって生きる種族もいたほどだ」
「それは、ちょっと寂しいなぁ」
「それが彼らにとっての当たり前なのさ」
様々な国があった、様々な種族がいた。彼らは正しくこの箱庭の住人として彼ららしく生きていた。ただの人間であった時は決して見ることは叶わなかっただろう広い世界の景色は、長い長い人生を色鮮やかに彩る思い出ばかり。
「些細な喧嘩が理由で国交と閉ざした小人と長人の国、武勇と魔法の優位性を競い合う学園、永遠を生きる神々が集う円丘の楽園・・・お前たちは、神がこの世界にいることは?」
「・・・知ってはいる。外の世界には、俺たちの先祖をこの箱庭へ導いた神がいると」
それは親から子へ、子から孫へ。学び舎という機関を持たないこの国で口伝として語り継がれる箱庭の創生にして獣人族の始まりの物語。かつて先祖はただ野を駆けるだけの獣であった。かつて先祖に言葉はなく、かつて先祖に心はなく。あるのは生きる為の牙と爪と本能だけ。慈悲深い神の一柱によって三体の王なる獣と番を含めた六体の獣たちがこの箱庭に召し上げられて、それぞれ番に三つの縄張りを与えた。
豊かなる翠の森は白き狼獣の王に。宝石を閉じ込めた金の砂漠は鳥獣の王に。母なる蒼き海を望む密林は蛇獣の王に。
そうして分かたれた縄張りへ降り立つ番に、神はそうして己が艶姿と同じ美しい身体に、種族繁栄の為に雌雄どちらでも子を育むことを可能にした祝福を与え、そうして神はこの地を去った。いつでもここを見守っている、その証に己が爪と牙を石に変えて縄張りのあらゆる場所に解き放って。
「・・・まぁ、よくある創生神話だな。雌雄どちらでも子を産める
「男が好きだと何がいけないんだ?」
「一般的に、男は子を産めないのが当たり前だ。それでも男にどちらの機能を持つように肉体を与えたのだから男好き以外の何物でもないだろう」
彼らの常識からして男が子を産めるのは当たり前で、男同士のカップルも不思議はない。しかし外の世界では場所によっては禁忌とまで言われ、法律的に禁止されている国もあるそうだ。訪れたことはないが、そうでなくても忌避の眼で見られるのが多い。そう話せば、彼らは心底驚いたように目を見張っている。
「・・・それでも、お前たちはその生き方を貫いたのだろう?」
「当然。あれのいない世界で俺は生きられんからな。それでも世界が俺たちを拒むなら、それは世界の在り方が間違っている。そう思うことにした、母の受け売りだがな」
けれど、もう言い聞かせる必要もない。零せば、正吾はころりと笑って焔の胸の中に飛び込んで来た。ここにずっといてね、願うようなその声に男はもちろんだと頷いた。少なくとも彼らがその生を全うするまでは帰るつもりはないし、彼らの子々孫々をある程度見届けたらくらいにしか考えていなかった。それとて何千年先の話になるか。
ずるいと抗議する双子たちが正吾に混ざって飛び込んでくるのを受け止めた。彼らがこの村に属しておよぞ半月になるが、当初ここに来た時が嘘のように随分と血色も良くなった。この年代はこれからが成長期、バランスの良い食生活は彼らに多大なる恩恵をもたらすことだろうが、まだまだ小さな子どもたちは可愛らしいものだった。
「正吾!璃空!赤穂!そこは俺の特等席だぞ!?」
「子ども相手にムキになるな大バカ者」
そうしてやはり小麦畑から飛び出してくる玄に向かって焔は人差し指を差し向けた。命ずるままに放たれるは紫電の一矢、一撃必中と放たれたそれは寸分たがわぬ正確さでもって男の脳天に直撃した。通常であれば頭を貫通しているそれであるが、規格外の男にとっては殴られた程度の衝撃にしかならない。それでも痛み呻く夫に焔は鼻を鳴らして正座を指示した。
「 す わ れ 」
「うーむ、今日はやけに沸点が低いなぁ。さては、昨夜のを根に持っているのか?言っておくが誘ってきたのはお前、」
間髪入れずに鳴らす指先で風が渦巻いた。玄の足元で展開される風の魔法陣は人一人容易に吹き飛ばすほどの竜巻を呼び、喜んでいるのか叫んでいるのか分からない男の悲鳴を引きずりながら空の彼方へ舞い上がっていった。もう知らんと、焔はつい浮かびそうになった昨夜の情景を即座に抹消した。
「・・・すっげー!!魔法!?俺初めて見た!!」
「あれは、死ぬんじゃないか・・・?」
「あれはそう簡単にくたばらん」
そういえばそれらしい魔法を鴻連親子の前で使うのは初めてだった。小麦畑で空を見上げる仲間たちは慣れたとばかりに呆れ顔であるけれど。
無邪気に喜ぶ璃空と赤穂たちを抱えた夫夫たちは感心したような眼差しを焔に向ける。かつて彼らの暮らしていた四谷でも魔法を使える者というのは一握りであり、その多くは医術者や神官と言った特別な職種の者だけだそうだ。医術者の使うそれは怪我の治療、神官は狩人だけでは対処ができない強い魔獣を討伐するための攻撃的なそれであるそうだ。が、鴻連が言うには焔が使ったそれは己がかつて見た神官たちのそれを遥かに凌駕する威力があると。
「しかもあんな簡単に使えるなんて。それも普通か?」
「それなりに極めている自覚があるな。これでも世界最高峰の学園で主席入学と主席卒業をしている」
「がくえん・・・学舎か?」
「ここにあるのか?」
「いいや。ただ、蒼海では魔法使いを育成する場があると聞いたことがある」
三獣連合の南東の区域を統治する彼の国は最も魔法使いが多い国としても有名で、その育成の為の国営機関まであるという。一方で北の金砂は質の高い魔導機の生産技術に加えて強い戦士が多いのだという。砂ばかりの過酷な土地で生き残る為に武器やそれを扱う者の技能を高めようとした所以だろう。
「ほぅ・・・それは、興味が出て来たな。そろそろ他の国の様子も知りたいと思っていた所だ。四谷と王都に出向いた後はその二国へ行くのも悪くない」
「それなら俺は金砂に行くぞ?一つ試したい乗用魔導機もある」
「あ、玄さん帰って来た」
会話にひょっこり入り込む男は焔の背後から。覆いかぶさってくる男の顔が肩に乗せられて、焔は視線だけをそちらに向ける。同時に目が合って、からりと笑う男の眼差しはそれなりに反省したようだった。懲りはしないだろうが。まぁいいかと思えるくらいには自分もこの男には甘いことを自覚していた。
「なら俺は蒼海か」
「俺も行く!」
「俺も連れてって!」
「私も!」
「こらお前たち。いくら彼らが強いからと、足手まといになるかもしれないことをせがむものじゃない」
子どもを窘める鴻連は申し訳なさそうに眉をさげている。それには及ばないと、焔は笑って子どもたちにどちらに着いて行きたいかを問うた。赤穂は焔、璃空は玄に。正吾は迷いに迷った末に、焔がいいと答えた。
「蒼海の織物が見たいの!」
「俺はじょーよー魔導機!」
「師匠にも玄兄ちゃんにも着いて行きたいけど・・・もっと師匠から学びたいことがあるから、ごめん玄兄ちゃん!」
「フラれたな」
「フラれましたね」
「すまんな玄、俺がモテるあまりに」
「くっ・・・次は負けんぞ・・・!」
まったく以てくだらん茶番であるが。ついで笑いが起きるのは当然の道理であった。それはどこにでもあるような穏和な村の光景だった。たわわに穂を実らせた小麦畑からは村人たちの長閑な会話が聞こえてくる。川辺ではしゃぐ子どもの声がして、家屋の中でも内職をする大人や子どもたちの何気ない日常の会話もあった。己と彼が導き作り出した光景だと思えば、胸の中が暖かくなるような愛しさがこみ上げてくる。ここは護る場所だ、たとえとうに神がいなくなった世界であったとしても。神に成り代わろうなどという傲慢はない。ただ、この手の中に確かにあるこの景色だけは護りたかった。
故に、徐々に、ひっそりと。けれど確かに歩み寄って来る不穏な気配は排除しなければならない。この村を、この住人たちを・・・愛し子たちを。害する輩は決して見逃さない。
~~~~~~~~~~~
冴えた月の夜だった。薄雲が微かに揺蕩う深夜、時折雲が月を隠してはまた顔を出す。薄闇の中から聞こえる声は風の音ばかりだった。虫すらも眠りにつく真冬の夜は雪がほとんど降らないというこの地域でもしかし芯に響く寒さを纏う。
対が起き上がる気配で目が覚めた玄は、そうしてそのまま布団から出て行こうとしたその腕を掴み取った。どこへ、問う声に答えはなかった。掴んだ場所が燃え上がるような熱を纏う、燃やし尽くすつもりらしい。己の掌が熱と痛みを訴えてくるのをすっぱり無視してもう片方の手を相手の髪に伸ばした。今度は紫電が弾けた。指が炭化して少し触れれば崩れ落ちてしまいそうである。
「焔」
「・・・」
返事はなかった。どうやらほとんど呑まれているらしい。昨日の積極的な一夜を思えば、もしかしたらとは予感はしていた。この国で起きている出来事、数々の蛮行、何の罪のない民草が蹂躙され、そうしてこの一年近くになる生活で生まれた確かな庇護欲は・・・彼の内に宿る本質を目覚めさせた。まだ一線は超えていなかった。超えぬようにと、だから玄は外へ出向いて蛮族たちを一人で狩って殺していたのだ。決して彼を同行させなかったし、その詳細を語ることもしなかった。
それでも、相手はとうとうその一線を越えて来た。この村に忍び寄る悪なる魂が、彼が愛し子と定めたこの村の者たちに迫っている。それを彼が気づかないはずがないのだ。だって彼は正しく---。
「ほら、起きろ」
無理やり振り向かせた右手は真っ赤に爛れていた。まぁいいかと流して、勢いのままに寝台に押し倒せば輝く黄金が己を見上げていた。薄闇の中で光を称えたそれは烈火の怒りに燃えている。表情だけは抜け落ちているというに、その眼に宿る感情だけはその名のように熱く熱く。
このままずっと見ていたいという衝動は押し殺し、その喉元に躊躇いなく嚙みついた。血がにじむほど強く噛みつけば抑えつけた体が跳ねる感覚。何か来るという直感は、きっと彼の魔力と、もう一つの力の高まりだろう。己はそのどちらも分からないからだ。ただ感じるだけ、それでもその奔流は己を抹殺せんと放たれようとするそれだ。
「---お痛が過ぎるぞ」
故に、喰らい尽くす。彼の本質を、その心さえも押しつぶす傲慢不遜な性を。己の内なる獣が牙を剥く、目の前が真っ赤に染まる感覚はほんの一瞬で、食らいついた喉から溢れるその力を本能のままに呑み込んでいく。
組み敷いた体が、先ほどとは違う理由で跳ねた。抵抗はほとんどない、当然である。およそ五千年もかけてこの身に魂にとことん刻み付けて来たのだから。抗うな、足掻くな、ただただ差し出せと。
けれど己も、この味に酔いしれている。口腔を、腹を、胎を満たすそれは極上の甘露のように。唯一無二の魂が消えるまで喰らい尽くしてしまいたいとすら何度も誘惑され、けれど最後の理性で留めるという苦行の繰り返しだ。それでも止められない。彼と夜を過ごす度に喰っても喰っても飽きることは永遠にないだろうと思えるほどには。おかげで、彼を喰った次の日は何を食べても味が分からないのだけれども。
「・・・・・・しつ、こい・・・」
「んん?もう起きたのか。昨日のが効いたか?」
ややあって、漸く焔から声がした。名残惜しいと思いつつも、最後にひくつく喉を舐め上げたらまったく力の籠っていない平手が頭をすっぱ抜いた。体を起こして改めて見下ろせば、輝きを失ったいつもの穏やかな黄金が。けれど真昼日では決して見れないだろう色を宿していた。
炎の色をした髪が真白のシーツに散っている。それはありし日に追憶した姿と同じで、つい熱が上がるような感覚を覚えてしまう。
しかし、今は熱い一夜に耽っている場合ではないのだ。まったく以て残念極まりない話ではあるけれど。
「来たみたいだなぁ」
「・・・雑草共が」
「こらこら、また反転するぞ」
酷く鬱屈そうに顔を動かした焔が見つめる先にあるのは格子窓だった。月明かりが差し込むその場所に玄も視線を向けて、すんと鳴らせば鼻腔を撫でるそれは森の香りだけではなかった。血の匂い、腐敗臭、そして邪なる魂の気配も。
視線を戻す。焔は常の村人たちに見せている穏やかな眼差しを完全に無くし、その表情は憤怒とも憎悪とも着かない感情に歪んでいた。これを子どもたちどころか村人が見たら恐怖していただろう。彼のもう一つの本性は正しく彼であり、玄としてはその顔すらも愛しいと思えるのだから自分も大概イカレているのかも。
「俺の名を広めていた成果が出たようだな。集まってくれれば処理がしやすい」
いつか誰かが呼び出したのかは知らないが、己はこの国では《黒の牙》などと呼ばれ英雄扱いらしい。それを利用しようと言い出したのは焔だった。その名を広め、人を救い、そうして所属を告げれば立ちどころに噂は広まるだろう。それは必ずしも獣人族だけではなく・・・この国に潜む盗賊たちの耳にも。彼らからすれば《黒の牙》は排斥対象だ。自分たちの縄張りを荒らす不届き者を放っておくなどしないだろう。ましてその居所が分かっているとなれば、潰しに来るのは火を見るより明らかである。そして相手が只者でないとも知っているならば、総力をあげてくるかもと。
「片付けてくる」
「・・・俺も行く」
「行けるのか?」
寝台からのっそりと起き上がる彼は床に足を着けて立ちあがった。結構喰らったつもりであったが、昨夜にある程度ガス抜きをしたおかげがわりとしっかりしている。起き上がりながらかけてくれた治癒魔法は一瞬で両手を治してくれた。けれどいつも以上に面倒くさがりが発動されているようだった。凍える夜だというのに寝巻一枚で外に出ようとした男に外套を被せようとして、これでいいと彼が引っ掴んだのは今まで自分たちが寝ていたシーツである。それを頭からすっぽりと、適当に体に巻き付けて髪すら結ばずシーツに巻き込んでそのままだ。
「威厳もへったくれもないだろう」
「雑草に威厳など示す必要性を感じない」
「・・・あまり汚してくれるなよ」
「お前が俺を守ればいいだけの話だ」
そんな言葉を軽く言ってのける彼はそのまま外に出て行ってしまう。まったく本当に、彼は時折無自覚でこちらを喜ばせる言葉を平然と宣ってくるのだから質が悪い。そんな所は昔も変わらない。玄はついと息を吐き、自身は戸口に掛けられた黒い外套を引っかけると外に出た。
冷えた空気が頬を撫でる。風に揺れる小麦畑は今は月光によって銀色に輝いていた。まるで雪原を彷彿とさせるその中を、赤と白を纏う美丈夫が佇んでいる。
ただ巻き付けただけのシーツは風に浚われ簡単に解けていた。はためく白と揺れる赤のコントラストは煽情的に。夜を歩くには容易く、しかし視界を確保するには些か頼りないはずの月光は、まるで彼という存在を照らす照明のように今だけは輝いて見えた。
あぁ、また。ひどくひどく、この世界が愛おしく、同時に憎らしく感じる瞬間だった。このひどく美しい世界に、しかし彼と己以外が在ることがひどく憎らしくなる。何もかも己らだけを残して消えればいい。神すら滅んだその世界で彼と永遠に在り続けたい。この美しい世界を永遠に。
「玄」
呼ぶ声に意識が引き戻される。左目が微かに熱を持っていた。瞬きをした視界に映るのは彼と月光と小麦畑。二度三度と瞬きをしても、その景色は変わらない。
「・・・あぁ、行く」
破滅を夢見る獣の見せる幻影は間違いなく己の願いなれど、それは彼が望まない。なら、それは己の望みではないのだ。彼の望みは己が望み。彼が望まざることは己の望まざること。そう生きると決めたかつての誓いを違えるな。
寝ていろ。内なる獣に言い聞かせ、こうも言った。もしも、もしも彼がその破滅を望んだその時こそ、と。
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