終の章 《獣の国》8

 夫の鴻連の視線の先には弓も剣も持たずに狩の一員に加わる黒い異邦人、玄の姿があった。彼もまた今日の狩に参加するとのことだが、その身には防具どころか武器らしきものもない。ただの荷運び要員にしたってなにもないとは何事だろうか。燕洛はついと、東水に視線を向けた。彼はこちらに気づきどうしたのかと目を瞬かせる。どうやら彼にとって玄のそれは通常らしい。


「あぁ、あいつは弓がからっきしで、かといって剣はやり過ぎるから基本使わないそうだ。俺もあいつが剣を使うところは見たことがない」


 彼の妻、焔の方は弓が得意らしい。ならばいっそ彼が来るべきではなかろうかとも思ったが、赤い彼が狩に出るのは稀らしい。

 良く晴れた晴天の日だった。季節特有の寒さはあるが空は雲一つなく晴れ渡っている。よい狩日和、しかし今日の狩は食肉のそれではないと。


「東に行った森の中に蜘蛛のようなデカい魔獣がいた。あれを狩って防具と武器を造ろうと思ってな」


 そうして東へ突き進む狩りの集団は森の中を疾駆する。地面を駆け、木々の枝を足場に飛び上がり、時折声でお互いの位置を知らせ合いながら獲物や強敵がいないかを教え合う。その中に、玄の声も混ざる。彼は獣人族ではないはずなのに、それでも他の者たちと同じように獣の声を操っている。犬のような、しかし違うような、猫のようにも鳥のようにも。獣の声にはその者の種別としての特徴が強く出るはずなのに男の声はどの動物にも当てはまるようで当てはまらない。

もっと近くで聞けないものか。湧いたのは純然な興味であり、異邦人故なのかそれとも彼の特異性か。ただ気になって並走すれば、左の黄金と目が合った。左右で色の違う瞳、こちらの色だけ彼の対たる男と同じだった。彼だけ種族が半分違うのだろうか。


「どうかしたか?」

「貴方の獣の声は変わっていると思って」

「んん?あぁ、見様見真似でやっているからなぁ。多少聞きづらいかもしれん」


 そんなことはないと告げ、ありのままの感想を述べた。獣のようで、どの獣とも違う。その言葉に、男は驚いたように微かに目を見張った。しかしそれは一瞬で、ついでからりと笑う男は嘯く。


「俺も獣みたいなものさ。ただ・・・君たちとは違う」


 その真意を問う資格は、少なくとも今の立場の己にはないと燕洛は引き下がる。何故か、悲しみの匂いがした。どこか諦めたような、そんな匂いが一瞬彼から。

 東の森へはあっという間に。ここまで魔獣の妨害もなく、漸く集団が立ち止まったそこは大蜘蛛の巣の目の前だった。鬱蒼と茂る木々に掛けられた真白の糸は見た目に反して鋼のように硬く、同時に伸縮性もあるので並みの剣では断ち切れず、剛力を以てしても引きちぎれない。村の狩人であればほぼ近づかないだろう。四谷の狩人たちとて守人がいて漸く立ち向かう勇気が湧くような相手だ。


「さぁて、行ってくるか」

「一人で行くつもりか」

「着いて来たければ構わないが、俺の役目は追い立てるだけだ」


鴻連にそう声を掛けた玄は構わず蜘蛛の巣をかき分けて奥へ消えていく。夫は追わなかった。けれどいつでも戦闘を始められるようにと剣の柄に手を掛けている。

 東水に問えば、いつもの役回りであると彼は答えてくれた。玄が追い立てる獣を自分たちが狩る。彼らが訪れる前であれば絶対に手出しなどしなかった大型魔獣さえも彼らはそうして狩っているというのだ。それを可能にしているのは彼らの手にする魔導機の弩が関係しているのだろう。四谷村にあったそれでも、まして燕洛の知識にあるどの武器にも属しない形状をしていた。まるで翼を広げた大鳥のような形状は無骨なようでいて自然の美しさも感じられる。それは魔弾を撃つことができるらしく、都でもおいそれと手に入らない代物をいとも容易く作成してしまう玄と焔の技能と知識は計り知れない。

 玄が消えて幾許か時間が経過した。そして、自然の音を切り裂くそれは雄たけびだった。縄張りを荒らされた虫の怒りの匂い、草をかき分ける音、枝をへし折りながら直進しているのだろう獲物は随分とご立腹なようだった。それに反して、聞こえてくる男の声音はいっそ無邪気なほどに明るい。


「わっはっは!これはデカい!さぁ、武を示す時だ!!」


 軽やかな、同時に覇気すら纏った男の声が響くのとその巨体が薄闇の向こうから突進してきたのはほぼ同時だった。己が張り巡らせた糸の結界さえも強引に引きちぎり、そうして薄葉の合間から差し込む陽光に照らされる巨躯の蜘蛛。見上げるほどの巨体だった。太く長い八つの節足に支えられた胴体は茶色の毛に覆われて、やや小ぶりな頭部には三つの赤い目玉がぎょろりと動いて辺りを見回している。大人の頭など簡単に丸のみにしてかみ砕いてしまうような牙から涎が滴っている。地を踏む鋼の八つ足の先端は槍のように鋭利に尖り、挑発する玄を目掛けて振り下ろされた前足はいともたやすく樹を貫いた。


「立派な大蜘蛛ですね。四谷の狩人でさえおいそれとは手出しはしませんよ」

「こいつの体は使わない所がないからいいぞ?手足は武器、糸から衣が造れるし、体液は畑で使う虫よけの薬になる」

「糸から衣を造るなんてどういう、」


 意味かと、問いかける間もなく大蜘蛛の雄たけびが辺りを満たす。一気に高まる緊張感に夫は剣を抜いた。燕洛も拝借した弓を構え、周囲にいた狩人たちも動き出す。一方で玄は軽やかに地を蹴ると一本の樹の上に。丈夫な枝に腰を据えてこちらを見下ろしている。本当に彼は手出しをするつもりがないようだった。

 にらみ合いは一瞬。先に動いたのは大蜘蛛だった。口から迸る糸は獲物を絡めとろうと四方へ飛来し、それを寸分違わず見切った鴻連が身を捻りながら大蜘蛛の懐へ滑り込む。前足の付け根へ一閃、その刹那、彼の表情が微かに変わったのを見逃さなかった燕洛は、そうして訪れたその結果に自身も目を見開く。

 すっぱりと。鋼の足の一本が簡単に切り落とされた。痛みに悲鳴を上げる大蜘蛛は暴れ、呆けていた彼も咄嗟に身を翻して距離を取る。そうして、その手にした愛剣を唖然と見下ろしていた。彼の剣は狩人の館の長から賜ったものだ。都の職人が作り上げた逸品であり、そこらの武器よりは各段に切れ味も鋭い。が、その剣を以てしてもあそこまでの切断力はなかったはずだ。であるのに、彼が手にしたその剣は鋼の足を切り裂いたとは思えないほど鋭い光沢を放ち続けている。


「あ、言い忘れていた。君の剣は打ち直してある。何分損傷が酷くてな。俺と妻で直しておいた」

「打ち直し・・・先に言え!!なんだこれは本当に俺の剣か!?」

「元の素材も良かったからな。手を加えればその通り。しかしながら、お前も中々良い腕をしている。さすが守人と言った所か」


 なんてからりと笑うその人を凝視していた鴻連だったが、しかし今は戦闘中だとばかりに気を引き締めていた。燕洛はそんな夫を見届けて、自身も務めを果たすべく矢を番える。周囲では狩人たちが弩を駆使して蜘蛛を翻弄していた。射出される魔弾は適格に相手の体力を削っているのが見て取れる。動きが鈍り始めている、ならば自分はその手助けをするのみ。

 狙うは一点。引き絞る弓に全神経を集中させて、見据える獲物と目が合う感覚。ここだと本能が告げるままに放つ一矢は、吸い込まれるように獲物の目玉を打ち抜いた。


「ほぉ、的がでかいとはいえ一撃必中か。これは、焔とも良い勝負をしそうだ」


 関心したような玄の声を聞きながら放つ二本目は糸を放とうとしていた口の中に。牙で弾かれたが行動を中断させることには成功し、すかさず切り込んだ鴻連が大きな二本牙を砕き切った。鼓舞の雄たけびが木霊する、上がる熱量に自然と口角が吊り上がり、久しく感じていたなかった狩の熱に心臓が音を立てているのが自身にもはっきりと聞こえて来た。狩は命の糧を得る儀式、そこには必ず双方に命の取り合いがあり、より優れた命がその場を勝利する。それは己の強さを証明するのと同義であり、かつて野を駆る獣だった時の先祖の本能が呼び覚まされる。

 そうして交わされる数度の攻防の末、東水の放つ魔弾と鴻連の一閃が大蜘蛛の頭を潰した。頭部を失った巨躯は支える力を無くして地面に崩れ落ちる。静寂は一瞬、そうして辺りに満ちるのは勝利を称える狩人の声だった。


「お見事、やはり手練れがいると心強い。ブランクがあったとは思えん動きだったしなぁ。まぁ・・・獣の性というのは、そう簡単には消えんものか」


 熱に浮かされたような感覚はけれど聞こえる穏やかな声に引き戻される。はっとして見れば狩は終わっていた。つい熱くなっていた。久しぶりのきちんとした狩で気が昂り過ぎたらしい。夫はどうかと見遣れば、彼は東水に声をかけられて覚醒していた。随分と血色がよく、そんな男の様子に東水も苦笑している。


「獣化しそうな勢いだったぞ」

「す、すまない・・・久しぶりだったんだ。こんな狩は」

「それは俺たちもだよ。玄と焔がいなければ、俺たちはとうの昔に村ごと滅ぼされていたかもしれないからな」


 その視線は樹から降り立つ偉丈夫に向けられ、そうして自然と彼の周りに人が集まっていく。今の狩はどうだった、あそこが良かった。あの場面は危なかった、あそこはこうすればいい。軽やかな応酬は燕洛が知る狩終わりの一幕とよくよく似ていた。先輩の狩人に教えを乞い、それを指南して若人たちを育てていく。かつて四谷でその位置にいたのは自分たちだったけれど、ありし日に確かに感じていた充足感と穏やかな時間が目の前にある。その事実がなんだから嬉しくて、自然と頬が緩む感覚がしていれば、黒い男がこちらへ歩み寄って来る。


「良い腕をしている。俺の妻とも張り合えそうだ」

「・・・いずれ、勝負をしてみたいですね。きっと夫は、貴方との剣勝負を望むでしょう」

「その時は誠心誠意務めさせてもらおう。彼も中々によい剣士だ」


 ころりと笑う男は見た目は同年代だというに無垢な印象を抱かせた。存外年下か、年上だったとしてもそこまで差異はないかもしれない。なんて考えていれば、鴻連と東水がこちらに近づいてきた。夫はその手にした剣を見下ろし、そして視線を玄に映す。


「・・・恩に着る。今までの態度を、謝罪させてくれ」

「この国の者は本当に素直だなぁ。気にしなくていいさ、俺たちからしてみれば君たちはまだまだ若いのだから」

「わか・・・俺たちとそう変わらないだろう?」

「若作りをしているのさ。これでも五千歳は超えている」

「・・・・・・は?」

「本当だぞ。ともすれば俺たちのご先祖様よりずっと前からこいつらは存在してることになるからな・・・」


 とてもとても現実的じゃない数字に夫が間抜け声を上げた。燕洛としても聞き間違いだと思いたかった数字は、しかし遠い目をした東水によって否定される。曰く、彼らはそういう種族らしい。外の世界というものを知らない身としてもその数字が現実的ではないことは理解できた。それではまるで、永遠を生きると言われた神と同義ではなかろ

うかと。


「あ、貴方たちは一体・・・?」

「なぁに、ただの暇人さ。世界放浪を散歩感覚で決意するくらいには」


 言って豪快に笑い飛ばしていた男は。しかし、はたと動きを止めた。ぴたりと声を止め、くるりと視線をとある方向へ向ける。つられて見据える先に、しかし彼が目を留めるようなものはなかった。

どうした。問う東水の声に、男は視線を変えぬまま無言で彼に手を差し出した。出したというよりは、まるで何かを強請るように。


「剣を」

「ん?」

「剣を貸してくれ。早く」


 雰囲気が変わった。朗らかな匂いが一変、まるで狩前のように張り詰めた匂いを纏う男に東水は言われるがままに腰に挿していた剣を鞘ごと渡していた。色違いの相貌が燃えたように見えた。それは刹那の間に闘気を帯びて、玄は抜き放った刀身を。











投げた。






「お?」

「何を!?」


 不思議そうな声を上げたのは剣が放たれた方角いた仲間で、いきなり剣を放つという蛮行に鴻連が声を荒らげた。斜め上に向けて投擲された刃はあっという間に木々を超えて空の彼方に飛んでいく。構えなどほとんどなかった、ほぼ直立の状態から、腕と肩の動きだけでまるで矢のように投擲したのだ。


「・・・またか?」

「すまんすまん。聞いてしまったからには放っておけなくて」


 暫くして嘆息交じりに東水が玄に声を掛けた。男はからりと笑い、誰か着いてきてくれと言いながら走り出してしまった。追う影は二人、燕洛は逡巡の末に夫に目配せをして自身だけ飛び出した。

その速度は先ほど狩場に到達した時よりも明らかに速い。きっと仲間の中でも瞬足自慢が同行したのだろうが、その彼らが必死の形相で駆け抜けてなお玄の背中は徐々に遠ざかっていくのだ。ならばと、燕洛は二人を追い越しながら己が内に眠る獣を呼び覚ます。


「先に」

「頼む!!」


 全身が毛に覆われる感覚。四肢はより野を駆けるに特化した形状へ変体し、前のめりになると同時に背骨が伸びるような感覚のまま前足で地面を蹴る。視界はやや低くなったものの男を追うべく駆けだす足はより速くより強く。

 黒き猫獣となって仲間を追い越し森を駆る。それでようやっと玄の背中を視界に収めた時には、別の匂いをより鋭敏になった嗅覚が捉えていた。数人の狩人らしき人の匂い、血の匂いは濃いが恐怖や怒りに準ずるそれはない。むしろ困惑の香りが強く、その理由は止まった玄の隣に到達した時に判明した。


「おぉ。それが獣人族の獣化か。魔法的な変身とは違うな、一種の変体というべきか。狩の時にわざわざ靴を脱ぐのはその為か。完全な獣というより人に近い形をしているのは変体の影響か・・・」

「何を呑気に言っているんですか」

「普通に人語も出せるのか。ますます興味深い」


 この状況を前に玄は全く緊張感も無しに考察をしていた。燕洛とて事が事でなければ獣化などしなかった。この姿になるのはもの凄く体力を使い、それこそ狩の時に使うのは所謂奥の手だ。そうでもしなければ追いつけないほど速く速く走り抜けていった男が、そうして辿り着いた場所にある状況に目を向けながら燕洛は戦いの意志がないことを示す為に獣化を解く。


「失礼した。私は・・・水生村の狩人です。貴方たちは、これはどうされましたか?」

「・・・く、草譯くさわけ村の狩人だ。これは・・・正直、俺たちも状況を測り兼ねて・・・」


 名乗りを上げるのに少し躊躇ったのは己の所属をどうすべきか考えてしまったからだ。ここから遠く離れた四谷と名乗れば角が立つと咄嗟にそう名乗ったが、相手は疑う素振りはなく名乗りを上げてくれた。匂いで疑われるかもと思ったが、その判断ができないほど相手も、そしてその仲間も困惑しているのだろう。

 木々のない開けた場所だった。真昼日の太陽が差し込むその場所に、横たわる巨躯は赤黒い毛皮を纏った熊だった。この辺りの森では肉食獣の代表格であり、立ち上がれば成人の男二人分にもなる大きな体躯と丸太さえ一撃で両断する鋭利な爪、そして狙った獲物は絶対に逃がさない執念深さで有名であり、もしも実力のない者が相対すれば死ぬことを覚悟しろと言われるほどの魔獣だった。

 その魔獣が、絶命しているのだ。鏃を弾き並みの刃は通さない剛毛に覆われた胸を、深々と射貫く一本の剣によって。柄の意匠は見覚えしかなく、なんなら血の匂いに混じってするその直前の持ち主の匂いは隣にいる男のそれだった。


「すまんなぁ。苦戦している様が見えてしまって、つい横槍を入れてしまった。この場合は横剣か?」

「・・・見えたって、貴方・・・」


 先ほど自分たちがいたあの場所からここまでが一体どれほどの距離があったと思っての発言か。絶句し、そういえば東水が『またか』とぼやいていたのを思い出した。これが初めてではないのだろう。まさか本当に物理的に見えているはずがなく、玄は風に混じるわずかな匂いと音をあの場の誰よりも正確に探知したのだ。その上で、たった一投でこの大熊を。狙いも角度も、そこまで到達させるのに必要な腕力も。何もかもが規格外の一言に尽きた。これで、弓がまったく使えないとは嘘に決まっている。

 一人唖然としていれば、玄の言葉にすると草譯村の狩人たちはお互いに顔を見合わせて、やがて安堵したように笑い礼を述べて来た。玄は、嘘を吐いていない。匂いに虚偽が出ていないのだ。彼は明確な言葉を避けることで真偽が匂いに出ないようにしたのだろう。間違ってはいないが、大いに間違っている。まさかこんなことをこれまでしていたのかと勘ぐっていれば、そこで漸く仲間の二人が追い付いてきた。


「うぉお、またでけぇのを仕留めたなぁ・・・」

「どうすんだこれ。ここは境の狩場だろ?」


 それぞれの村に割り振られた狩場以外、いわば境界線の役目を果たしているのがどの村の狩場にも属さない境の狩場だ。そこは誰でも狩ができ、仮に同じ獲物を二つ以上の村で狩った場合は・・・止めを刺した狩人の所属する村に分配権利がある。この場合は間違いなく玄であり、周囲の視線が一点集中。


「うーむ・・・いらんと言うのは、狩った命に対する非礼だったか。かといってうちの備蓄はもう十分であるし・・・なら、こいつの爪だけくれ」

「つ、爪だけ!?肉や毛皮は・・・?」

「そちらにやるさ。気にせず持って行ってくれ。どれ・・・おぉ、立派なものだ。武器でもいいが、武器加工の道具にしてもよさそうだ」


 素っ頓狂な悲鳴を上げる狩人たちを他所に玄はさっさと解体作業を始めていた。水生の仲間たちに、あれはいつものことなのかと問えば、いつも通りだと苦笑された。

 狩とは命の糧を得る行為だ。まして相手が強敵ともなり、それを狩り取った狩人は英雄にもなる。獲物を分配する権利を得るのは当然で、大抵の場合はその成果はほとんど英雄の物になる。食用の肉はほとんど残らない、毛皮だって切れ端程度、骨が残れば良い方だ。

 こんな時世だからこそ猶更、肉も皮もほとんどもらえないだろうと覚悟したに違いない相手方は唖然としていた。よもや裏があるのではなかろうかと疑っているらしい数名が鼻をひくつかせているが、玄の匂いには裏がないことは明白だった。恐ろしいほどに男は誠実なのだ。その言葉にも心にも偽りがない。まるで子どものようだと、思わず零せば仲間たちに同意された。


「・・・助太刀と、慈悲に感謝する。この恩は必ず、どうか名を聞かせてくれないか?」

「水生の玄だ。あー・・・《黒の牙》という呼称の方が有名かもしれんが」


 別れ際にそう零した男の言葉に草譯村の狩人たちは一瞬固まって、からりと笑った玄が歩き出すと同時に大絶叫が木霊した。背後から聞こえる阿鼻叫喚に男はそれはもう楽し気にコロコロ笑っている。


「・・・え?あの・・・は?」

「ん?・・・あぁ、そういえば君たちには伝えていなかったな」


 そこではたと、燕洛も気づいて思わず立ち止まった。黒の牙、それはこの翠森に襲来した異邦の蛮族たちを狩って来た英雄の名ではなかろうかと。それは四谷を去る前に風の噂で聞いたのが始まりだった。たった一人で盗賊の巣窟を潰し、攫われた村人たちをわざわざ村まで送り届け、都を襲った盗賊王すら仕留めたというのは都からの早馬で知らされた吉報だったはずだ。

 常人ならざる力、死んでしまった番と腹の子の為にも墓を作ったという慈悲深き一面を持ちながら、敵には一切の容赦を見せず狩り尽くす。そのいでたちは、黒い髪と左右対称の瞳。片目は夜の帳色、もう片方は、王の黄金を宿していたと。

 そう伝え聞いた通りの姿をした、翠森の英雄は笑う。それは英雄と呼ぶにはどこか無垢な、やはり少年の気質を感じさせる穏やかな笑みで。


「はは!驚いたか?まぁ、俺には英雄なんて呼称は性に合わんから、好きに呼んでくれ」


 それは燕洛が思い描く英雄とはどこかかけ離れた、けれど、だからこそ彼なのだと納得してしまうような笑みだった。強き者こそが英雄になる。けれど、ただ力が強い者がその境地に至るわけではない。その真髄は、どれだけ他者を想えるか。どれだけ己を偽らないか。相手を想うとは難しいことだ。ましてそれが家族でもない他人ともなれば猶更で、権力を得た者というのは我欲に走りやすくなる。それでも玄は、一切の要求も見返りも求めなかった。己が狩った獲物をあっさり差し出してみせた。きっと、本当にただ、助けたかっただけ。


「・・・あれが、英雄なのですね」


 幼き頃に憧れた英雄は大きな獲物を携えて帰還してくる狩人の姿だった。けれど、この男を前にするとそれはただの自慢したがりの愚者にすら思えてくる。真の英雄は自称する者ではない。誰かがそう呼ぶからこそ、英雄なのだ。

 ついと吸い込む空気は森の香り。前を歩く英雄の匂いはこの森と同じ爽やかな香りがした。

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