終の章 《獣の国》6
赤が、見えた。炎のように鮮やかな赤だった。ひもじくて、いたくて、寒くて、目の前がどんどん真っ暗になっていく中で・・・突然あの赤が目の前に現れた。綺麗な綺麗な赤色だった、父の持つ赤よりも明るくて鮮やかな色。それにとっても暖かい匂いがして、この赤なら信じても大丈夫だと思えた。助けて、家族を。そうしたらその赤は笑って手を伸ばしてくれた。その手を掴みとったらなぜか体が軽くなったような感覚がして・・・目の前が真っ白に染まった。
「・・・・・・あ・・・」
最初に感じたのは柔らかさと暖かさ、鳥の羽毛の匂い、微かに花の香りがする。からだ全体を包み込んでいるのは綿毛のように柔らかな布だった。恐る恐る眼を開ければ徐々にはっきりしてきた視界に白い布が映る。思わずその布をつかんだら今まで触れたことがないような柔らかさでとても暖かいのだ。布団なのだろう、ゆっくりと身を起こした時に・・・隣で母が寝ていることに気がついた。
「は・・・ぅえ・・・!」
思わず出た声はがらがらだった。いきなり大声を出そうとしたせいか喉が引き連れるように痛くて、それでも慌てて母の体に触れたらそこにたしかな暖かさがあった。生きている、それが分かっただけで嬉しくて涙が出そうになった。見渡せばすぐそばに父も兄もいる。家族揃って寝床につけるなんて何時以来だっただろうか。もしかしたら夢なのかもしれない、けれどすぐに違うと理解できたのは家族と自分の身に巻かれた包帯があったから。誰かが手当てをしてくれたのだ。おまけに綺麗な寝巻きと布団まで。泥だらけだったはずの体も綺麗になっている。
ここはどこだろうか。そんな疑問が湧いて辺りを見回した。かつて住んでいた家とどこか似た、けれど違うのだと分かる室内だった。閉じられた窓の、その隙間から微かに日光が差し込んでいる。灯りのない室内は灰暗く家族以外の姿はない。ないのではあるが・・・隣から物音が規則的に聞こえている。
かたんかたん、小気味良い音が響いてきている。それほど大きな音ではないもののすぐ隣の部屋にいる。誰かがいる、助けてくれた人・・・顔は見えなかったけれどあの赤の人に違いない。そう確信できたのはこの部屋に微かに残った覚えのある暖かい匂い。
家族が起きるまで待つべきかもしれない。それでも、せめてまずはあの赤の人にお礼を言いたかった。ここがどこかなんてまだわからない、けれど悪い匂いはしなかった。この部屋に満ちる暖かい匂いは穏やかで優しかったから。母を起こさないようにと慎重に布団から抜け出して、立ち上がろうとしたけれど足に力が入らなくて・・・這いずって引き戸まで移動して、扉に手をかけて渾身の力で引いた。
ゆっくりと開かれた扉の向こうから暖かな日差しが差し込んだ。その明るさに思わず眼が眩む。その向こう側が見たい一心で必死に眼を凝らした。そうして最初に眼に飛び込んできたのは・・・あの時、暗闇に差し込んだ炎の如き鮮やかな赤。
広い広い部屋だった。その赤を持つ人はこちらに背を向けて不思議なことをしている。天井にまで届くような木組みに何本もの糸が張られている。あの規則的な音が響く度に糸が微かに揺れて、赤い人は木組みに腰かけてなにか作業をしているのだ。その人が手を動かす度に心地よい音が響いてくる。微かに頭が揺れる度に頭上で束ねた赤髪が靡いていた、窓から差し込む日光を受けて赤みを変える不思議な髪。あぁこの人だと、そう分かった途端に力が抜けて頭から床に崩れ落ちてしまった。
「っ!起きていたのか」
響いた音に赤い人が気づいて振り向いた。綺麗な人だった、母とも父とも違う綺麗な男の人の顔立ち。彼はその眼を大きく見開いてすぐにこちらに来てくれて、体を気遣うようにそっと抱き起こしてくれた。
「すまない、集中しすぎて気づけなかった。どこか痛いところはあるか?」
心配そうに見つめてくれるその人の瞳は光の色をしていた。キラキラと輝くそれは夜空に浮かぶ星と同じ。なんていう色なのだろう。ただそれが気になってじっと見つめていたらその人が額に触れてきた。
「熱はないな・・・何か飲めるか?」
「・・・・・・・・・み、ず・・・」
水が欲しい。そんな言葉さえ今の喉は紡げなかった。それでも赤の人は理解してくれて、彼は先程まで自分が座っていた場所に下ろしてくれると足早に隣の部屋に入っていった。ふかふかの座布団だった、ずっとあの人が座っていたから暖かくて匂いもする。そうして赤の人はすぐに戻ってきてくれて、その手には水の入った器となにかが入った別の器。
「ゆっくりでいいから、慌てずにな」
背中を支えられて器を口許まで運んでくれた。微かに傾けられた器から冷たい水が口の中に入ってくる、それほどの量が入ってきているわけではないのに全部飲み干せなくて口の端からこぼれてしまう。噎せないように少しずつ、その度に彼は濡れた口許や頬を優しく拭ってくれた。
「よくできたな。こっちは食べれるか?」
ただ水を飲んだだけなのにその人は誉めてくれた。穏やかに笑った彼がそうして見せてくれたのはもう一つの器の中身。すりつぶされた林檎、久しぶりに嗅いだ甘い匂いに忘れていた空腹感が甦る。思わずこくりと頷けば彼は匙で少しだけ掬って差し出してくれた。
「・・・・・・・・・あ、まい・・・!」
今まで食べたどの果実よりも甘い気がした。林檎の味と一緒に驚くほどの甘味が口に広がる。もっととねだれば彼はすぐに掬ってくれて、食べれば食べるほどに夢中になってしまう。
「思ったよりも元気だな」
「あ・・・ごめん、なさ・・・」
「いいや違う。責めたわけじゃない、元気でいてくれた方が俺も嬉しい」
だからもっと食べろ。そうして笑ってくれる赤い人の眼差しは穏やかだった。その顔立ちはまったく違うのに母とよく似ている。近くに子どもはいないみたいだったけれど、もしかしたらこの人も母親なのかもしれない。
「・・・・・・ごちそう、さま・・・」
「どういたしまして。お腹は膨れたか?」
「・・・あり、がとう・・・!」
久しぶりに食べた食事はとっても美味しくて、器の中身をすべて平らげてしまった。お腹の中が暖かい、久しく感じていなかった満たされた感覚に嬉しくて涙が出てしまう。赤の人はなにも言わずに優しく拭ってくれて、その優しさに涙が止まらなかった。よく頑張った、もう大丈夫。そう声をかけてくれて何度も何度も頭を撫でてくれた。
そうして彼はこちらが落ち着くまで頭を撫でてくれて、すると彼は肩にかけてくれた羽織をくれた。人肌の温もり、赤の人の暖かな匂いに包まれてつい頬が緩んでしまう。
「俺は焔という、君の名は?」
「・・・あ、こう・・・」
赤の人の名は炎を意味する名前だった。その名と同じ鮮やかな赤い髪、きっと自分はこの赤に導かれたのだと思った。赤い炎が助けてくれたのだ。
「・・・母上、たちは・・・だいじょうぶ、ですか・・・?」
「あぁ。君が俺に教えてくれたおかげでな。全員無事だよ、じきに眼が覚めるだろう・・・赤穂、君も家族と一緒にまずは体を休めるべきだ」
母たちの手当てをしてくれたのは焔だった。そうして彼は寝室まで連れていくと言ってくれたけれど、今はまだ眠れる気にはなれなくて首を振った。寝た方がいいことは自分でもよくわかっている、けれど頭がさえてしまって眠れないかもしれない。それにずっと気になるものもあったのだ。
「・・・これは、なんですか・・・?」
「ん?あぁ、機織機という。布を作る道具だ」
見るかと聞かれて頷けば焔は抱えて機械の前に座らせてくれた。先程見えなかった彼の手元、機械の上と下に糸が張られて手前の方では布が出来上がっている。白色の布に赤と黄の紋様が施されていて、そのそばには赤と黄、白の糸が括られた糸巻きがある。
「この糸巻きをこうやって間に通して・・・糸をきちんと張るように手繰り寄せるんだ」
彼は糸巻きを上下の糸の間に通すと奥の方にあった取っ手を掴み手前に引く。かたんかたん、小気味良い音は通した糸を布の一部としてきちんと束ねるようにする行為だったのだ。彼は手慣れた手つきで糸巻きを走らせては糸を紡ぎ、布地に描かれていくのは赤と黄の紅葉だと分かった。
「きれい・・・」
「やってみるか?」
すると焔は糸巻きを持たせてくれて、やり方を丁寧に教えてくれた。初めてのことでもあり、手が上手く動かなくて彼のようにスムーズにはいかなかった。それでも焔はゆっくりゆっくり、ほんの数ミリ、ほんの数センチずつ紡がれていくそれに胸が高まっていく。
「すごい・・・たのしい・・・」
「・・・赤穂、君はなんの獣人だ?」
ふとそんなことを聞かれて自然と答えていた。母と同じ猫である、そう告げたら彼は穏やかに笑って頭を撫でてくれた。彼は何の獣人なのだろう、けれど焔の顔立ちは獣人族とは違う気がする。けれど悪い匂いは少しもしなくて、お日様みたいな暖かくて優しい匂いしかしない。まるで母に包まれているような感覚だった。母は手ずから弓を教えてくれた、その時と同じ暖かさについうつらうつらしてしまう。
「・・・眠いか?」
「むぅ・・・ちょっと・・・」
くすりと笑うような振動が背中に伝わって、するとそのまま彼に抱き上げられた。隣の寝室まで連れていかれて母の隣に寝かされる。母の温もり、その胸に体を寄せれば懐かしい匂いがした。
「お休み、よい夢を」
優しく頭を撫でられて意識がどんどん沈んでいく。ここは暖かい場所、母も父も兄もいる。もうひもじい思いも痛い思いもしなくて済むのだと、ただ微睡みに身を委ねて眼を閉じた。
~~~~~~~~~~
家に帰るとやけに上機嫌な焔がいた。鼻唄混じりに機織りをする彼は紅葉柄とは別の絵柄をいれている。まだ何の形かは判断しがたいのだが、紅葉に使っている赤よりも深い色をしていた。
「猫の柄をな。これは赤穂と母の浴衣にする」
「・・・起きてきたのか?」
娘の方がな。なんて笑って話す焔は随分と少女のことが気に入った様子だった。元よりその布地は焔が自身の浴衣を作る為にと織っていたものだった。彼が自分用につくっていたものだから彼がどうしようと彼の勝手ではある。
「父親と息子の方は妻の髪色で織り込むか。ただ何の獣人かわからんからな、とりあえず葵の模様で作っておくか」
猫の色は父と娘の髪色と同じく深い赤色だった。それであえて娘には同じ髪色を送り、妻に夫の色を贈るというのはなんとも焔らしい。その妻の髪色は紺青色、息子も同じ色であったから父と息子の分も仕立ててあげなければ。
「異邦人だからと拒絶されるかと思ったが、娘の方は素直だったぞ。まぁだからと言って他の三人が友好的かどうかはわからんがな」
「・・・彼らの容態は?」
彼らを救出して三日が経った。村に戻って改めて診察したところによると傷がひどかったのはやはり夫と妻の二人。どういった経緯かまで定かではないものの見立てでは数週間前からあのような状態だったと推測できた。傷跡や憔悴状況から鑑みるにここ一週間近くはなにも食べ物を口にしていない。その前からも十分な食事を摂っていなかったのだろう、それでも彼らがぎりぎり持ちこたえていたのは近くに水場があったからだ。人は一週間くらいなら水だけでも生きられる。両親たちは生きる為に必死に狩りをしていたはずだ、あの傷だらけの体が何よりの証拠・・・その疲労が蓄積し、完全に動けなくなってしまったところで子どもたちが動いたのだ。もし赤穂の勇気ある行動がなければ今ごろどうなっていたことか。
「一番酷かった父親も順調に回復している。彼ら獣人は元々体が丈夫で回復力が高い・・・医術者が少ないのも納得できる」
それはこの村で生活していても感じていたことではあるが、彼らは身体能力も高く体が丈夫だった。ちょっとした擦り傷だったなら一日で回復してしまう。念のためにとこの家で療養させてはいたが、回復は順調だというので大丈夫だろう。なんて話をしていたら外から阿尋の声が。
「こんにちは、彼らは?」
「さっき娘が起きてきた。林檎を一個丸々平らげるくらいには元気だったぞ」
じきに他の三人も目覚めるだろう。その言葉に阿尋は安堵したように胸を撫で下ろしていた。阿尋曰く、鴻連夫夫は四谷村周辺では名の知れた狩人だったそうだ。彼らの息子と娘も幼いときからかりの技術を仕込まれていたようで二年前に水生村が食料不足に貧した時には彼ら四人が狩ってきた獲物のおかげで救われたそうだ。だからこそ解せないのだと阿尋は怪訝そうな眼差しを寝室に向けている。
「彼らほどの実力者を四谷村が故意に追い出すなんて考えられないんだ。そりゃ、元々四谷村は腕のよい狩人が揃ってはいたけれど・・・特に鴻連は突出していた。この食料不足に彼ほどの狩人を追い出すなんてむしろ損害しかないだろうに・・・」
「確かに気になるところではあるな・・・誰か四谷村に詳しいのは?」
すると阿尋は李淵の夫を呼んでくると言って出ていった。曰く彼はあの村の出身らしく、李淵と結婚する直前までそこに住んでいたそうなのだ。李淵の夫、
そうして現れた彼は四谷村のことを懇切丁寧に教えてくれて、彼もまた鴻連のことは知っていたそうなのだ。しかし彼もまた鴻連ほどの狩人を四谷村が追い出すとは考えにくいと唸っている。
「あそこは村というよりも街みたいなもんでな、都が商業で栄える都市なら四谷村は狩人のおかげで栄えた街だ。都の認定狩人たちが居住を多く構えていて・・・腕の良い狩人であればあるほどに重宝される」
四谷村には狩人の館なる施設が存在し、そこは危険魔獣の討伐といった依頼を狩人向けに発令し、狩人たちはその依頼をこなすことで報酬をもらって生計を立てている。狩人の館で依頼を受けることができるのは認定狩人だけであり、鴻連もまた認定狩人だったはずだと連雀は語る。
「認定狩人・・・普通の狩人と区別するのに《守人》なんて呼ばれているんだが、彼らは普通の狩人とは訳が違うんだぞ?選ばれるだけでも名誉があるし、称号があるだけで都にもすんなり入れる。都の非常時には兵士として徴兵されるっていう決まりがあるが・・・とにかく、そんな守人を追い出すなんてよほどのことでもないと・・・」
「・・・夫か妻が、罪を犯したとしたら?」
かつて東水に教えてもらった追放者なるものたちの存在が頭を過った。罪を犯し集落を追われれば二度と人の輪の中では暮らせない。その指摘に連雀も阿尋も否定はしきれないと表情を曇らせた。例えば鴻連たちが追い出されたなり自主的に出たなりと考えたとして・・・どうして今まで誰にも救いを求めなかったのか。腕が立つ狩人であったから村にいくまでもないと考えていたとしても、せめて子どもたちだけはと考えないはずがない。どこで魔獣に襲われるかわからない外よりも結界石がある集落の方が安全であるはずで。それでもああなるまでそれをしなかったのは・・・集落にいくことができない大きな理由があったから。
「・・・憶測の域を出ない話だな。ここで俺たちだけで結論付けるわけにもいくまいよ。阿尋、連雀、ここで話したことは他言無用で頼む」
もちろん家族にも。焔がそう念押しすれば二人は心得たと頷いてくれた。彼らのことを何を知らないままに憶測だけで決めつけるわけにはいかない。たとえば本当に罪人だったとしてもせめて全回復するまではここにいさせてもいいはずだし、潔白であるなら追い出す理由もないのだ。不確定な噂を広めるわけにもいかない、そうして阿尋たちが出ていくのを見送った玄は一度焔に視線を向けてから寝室の扉を見つめた。
「・・・人は殺していないだろう。彼らの魂には人の怨恨がこびりついていないからな」
「あぁ、奴らは間違いなくそちらの方面では白だよ。仮に口減らしの為だったとしたら・・・冬を越したらすぐにでも四谷村にいくべきかもしれん」
狩人たちが多くいる四谷村がそんな状況ともなれば翠森全体でも似たようなことが起きているはずなのだ。ここ水生村はもといとなり村ではそのような状況には陥っていないことはわかっている。しかし四谷村は都のすぐそばだという、国の中枢に近いそこでさえその有り様となれば事態は思った以上に深刻なのかもしれない。
「まったく、こういう時に動くべき国のトップは何をしているのやら・・・その辺りの話も鴻連たちから聞ければいいが」
焔もまたその眼差しを寝室に向けていた。彼らの事情はなにもわからない、けれど救いたいと思ってしまうのは性なのかもしれない。人が良すぎるのかも、しかしそれができる力を持ちながら何もしないのは信念に反する。かつてそれができなかったから、だからせめて今は救える命は救いたかったのだ。
~~~~~~~~~~
長い長い夢を見ていたような気がする。まだ幸せだった頃のかつての日常。仲間と一緒に狩りをして、成果をあげて、家に帰れば家族がいた。笑って出迎えてくれる妻と子どもたち、時にはその家族と共に狩りにでることもあった。何もかも順調だった。この地が漸く安住の地になるのだと思っていた・・・あの、野蛮な異邦人たちが現れるまでは。
意識がはっきりしたのと、眼を開けたのは同時だった。即座に右腕で周囲を探ったのは癖のようなもので、その手に慣れた武器の感触が当たったことに安堵する。知らない天井、家でもなければあの穴蔵でもない。布団の感触も匂いもなにもかも覚えのないものだった。徐々に思い出される最後の記憶、狩りで傷を負ってしまった妻を抱えて命からがら逃げ延びて・・・子どもたちを隠していた穴蔵のそばまで戻ってきた辺りまでは思い出せた。あれからどれくらい時間が経ったのか、どうして己はここにいるのか。この不景気にいったいどこの物好きが手を差しのべたとでもいうのか。疑問ばかりが沸き起こり、そこではたと妻と子どもたちの存在を思い出した。
「・・・!
長く寝ていたせいか上手く動かない体を叱咤して身を起こせばすぐとなりに妻と息子が眠っていた。娘の姿だけがない、彼女だけ別の場所にいるのか・・・そもそもここにいないのか。一気に胸を満たす不安と恐怖のままに鴻連は飛び起きようとして、しかし足腰に力が入らず無様に崩れ落ちた。
「っ・・・!?」
自分の状態が信じられず布団に顔を突っ伏した状態でしばらく固まってしまった。今までこんなことはなかった、毎日狩りに勤しみ訓練だって怠ったことはない。だというのに、己の身は己の意思のままに動いてくれなかった。相当弱っている、己だけじゃない、妻や子どもたちもそのはずだ。何よりも守らなければならない家族に、それを強いたのは己の不甲斐なさが原因だった。それを思うと悔しくて憎らしくて、握りしめた拳を布団に叩きつけた。
「・・・・・・鴻・・・?」
静かな室内に響く、くぐもったその声は愛しい妻の声だった。一気に意識が現実に引き戻されて慌てて体を起こして隣をみやれば、ぼんやりとした眼差しの
「燕・・・すまない・・・俺が、俺が不甲斐ないばかりに・・・!!」
「・・・大丈夫、貴方と離れる怖さに比べたらどうということもない。それより僕こそ、足手まといになってしまってすまなかった」
あの時の狩りのことをいっているのか、妻は申し訳なさそうに呟いて背中を撫でで来る。彼が悪いことなどなにもないのだ、すべては己が招いてしまったこと。あの時せめて妻と子どもたちだけでも残すことができれば、しかしそれは彼ら自身が一番望まないだろうということもわかっていた。離れたくなかった、けれど巻き込んでしまった罪悪感が消えることはなかった。
「・・・父ちゃん・・・母ちゃん・・・?」
間に挟まっていた璃空が眼を覚ました。眠そうに眼を擦るその様子はかつて四谷村で暮らしていたときを彷彿とさせる。しかしその体は随分と痩せて小柄になっているようにさえ見えた。追放されてからまともな食事はほとんど与えられず、記憶が途切れる直前の一週間などは獲物一匹狩ることすらできなかったのだ。小さな頬を妻と撫で、そして改めて部屋を見渡すがやはり娘の赤穂だけがいない。
「・・・鴻、隣に・・・」
「・・・俺が見てくる。君たちはここに」
壁の向こうから微かに物音がしていた。誰かがいる、微かに会話も聞こえるが内容までは聞き取れなかった。しかしその声の一つが赤穂によく似ている。もう一つは男、記憶の限りその声に覚えはなかった。
一瞬剣を持っていくべきか考えて、しかしそれは相手を刺激する可能性があると止めた。仮に相手にこちらを害する気があったのであれば武器をそばに置くこともなければこんな手厚い治療をしてくれるはずもない。妻も息子も、そして己の身にも丁寧に包帯が巻かれ体も清潔にされている。おまけにみたこともない上質な布団と寝巻き・・・都の医術者に救われたのかもしれない。ただ一つ気がかりなのは、記憶の限りでは都へ向かって進んだ覚えがないということ。
引き戸に手をかけて音をたてないように慎重に引いた。周囲が見渡せるだけの隙間だけ開けてその向こう側を覗きみれば、広々とした室内のその奥に人影があった。こちらに背を向けている男。何やら不思議な木組みに腰かけて作業をしている。男が微かに身を動かす度に、かたんかたんと小気味良い音が響いている。男の声に答えるように赤穂の楽しげな声が聞こえてきた、姿は見えないがおそらく男に抱え込まれるようにされているのだろう。
男の匂いにやはり覚えはなかった。しかし人見知りしがちな赤穂が心を開いているというのが意外で、その声は久しく聞いていない喜色に満ちた明るい声音。男の背を流れる髪は鮮やかな赤色だった、橙に近いその髪はまるで炎を彷彿とさせる。
「だいぶ上手くなったな。君には才能があるよ」
「本当?私、今までずっと弓の練習しかしたことがなかったから・・・これも楽しいわ。でも、弓もしたい・・・」
「生きる為に必要なことだからな。これからは自分の好きなことをすればいいさ、機織りでも弓でも何でも。もう少し元気になったらこの村で作っているものをすべて紹介しよう」
からころ笑う赤穂の声。彼らが何をしているのかつい気になって戸口に身を乗り出そうとしたら音が立ってしまった。息を飲んだ時にはもう遅く、男の首が微かに背後を振り替えるように傾いた。しかしこの位置からはその顔が見えなくて、すると男は抱き込んでいた赤穂を解放している。
「家族が起きたみたいだぞ。見に行くといい」
木組みから下ろされた娘はすぐにこちらに気づいて驚いたように眼を見張っていた。赤穂と、その名を呼ぶよりも速く彼女は駆け出して引き戸を勢い良く開け放ったかと思えば抱きついてきた。
「父上・・・!!」
「赤穂!怪我は!?体は大丈夫か・・・?」
涙目でこちらを見上げる娘の、その顔色が最後見たときとは比べようもないほど血色が良かったことに驚いた。痩せこけていた頬もかつての様相を取り戻しつつあり、こうして走ることができるまで回復している。この子は肉が苦手だった、それこそ無理矢理飲み込んでもすぐに吐き出してしまうことさえあったほどに。故に誰よりも速く憔悴してしまった娘が、しかしともすれば四谷村に住んでいた時よりも元気な姿をしている。
「母上!璃空!」
赤穂はそのまま寝室へ駆け込むと燕洛と璃空にも抱きついた。彼らは娘との再開を喜びつつ、妻は娘の体を検分して驚いたように眼を見張って鴻連に眼を向けた。鴻連もまた信じられない心地で、その答えはあの男が知っているのだろうと視線を移す。赤髪の男はこちらに振り返っていた、しかしその顔は白い面布に覆われている。先程まであんなものは身に付けていなかったはずだ。赤穂に顔をみられているだろうにどうして隠すのかが分からず思わず眉を寄せてしまう。
「全員眼が覚めたか。調子は?」
「・・・妻も息子も問題ない。治療していただき感謝する。が・・・何故顔を隠す」
「今の段階で見られたら誤解を招きかねんだろうからな。お前の顔見知りをつれてくるから少し待っていろ」
言って立ち上がった男を呼び止めた。せめてここがどこなのかを教えてほしかったのだ。四谷村ではないことはわかっている、しかし都にしてはどうも雰囲気が違う。
「水生村だ。俺はここで医術者をしている」
「水生・・・顔見知りとは、東水のことか?」
そうだと告げた男はそのまま部屋を出ていってしまった。先程赤穂とは親しげに会話をしていたというのに随分と素っ気ない。初対面であるから当然なのかもしれないが、医術者というのは穏やかで親しげな性格の者が多いのでどうも違和感が否めない。水生村には水生の東水と名の知れた狩人がいたはず。彼とは二年前に不思議な縁で巡り会って共に狩りをしたことがあった。彼が来てくれるというなら安心できる。妻たちの輪のなかに戻れば赤穂が興奮したように色々なことを教えてくれた。
「あのね、一週間前に焔兄さんたちが私たちを見つけてくれたの。私はもっと前に起きて、兄さんは美味しい食べ物をたくさん食べさせてくれたわ」
あの赤髪の名は焔というらしい。彼は寝ている己らの看病や赤穂の世話をここ一週間ずっとしてくれていたそうなのだ。焔の顔は見たか、その質問に娘はしかと頷いている。
「綺麗な人よ。とある人の妻だって言ってた。きらきらの綺麗な目だったの」
娘の話を聞く限りでは怪しい様子はないというのに、何がどう誤解を招くというのだろう。医術者が怪我人を助けるのは自然なことではあるし、かつての知り合いの顔を思い浮かべてはみたが因縁がある相手もいないしあんな鮮やかな赤髪を忘れるはずもなかった。
「失礼するよ、水生の東水だ」
部屋の外から懐かしい声がして、その後すぐに男が入って来た。かつて共に狩りを仲間の姿がそこにあり、彼はこちらの姿を認めると穏やかな笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
「漸く目覚めたか。俺のことは覚えているだろうか?」
「お前ほど腕の立つ狩人を忘れるわけないだろう?久しいな東水、家族共々助けてもらって感謝する」
「俺は大したことはしてないよ、治療したのは焔だ」
東水は随分と親しげに名を口にしていた。医術者というのは神官と同じくらい特別な存在でどこに行っても敬われる者だ。社会的地位も高く、辺境の村であったとしてもおいそれと医術者の家のなかに立ち入ることは禁忌とされているというのに。家主の断りもなく上がり込んでいいのかと聞けば、東水は苦笑混じりに答えてくれた。
「彼は医術者ではあるが、なんというか型破りでね。敬われるのは好かんと言うし、急患なら土足でも上がって来いなんていう男だよ。治療の代金も見返りも一切求めない・・・だからその辺りは安心して良いと思う」
見返りを求めないだなんて、それでは奴はただの趣味か慈善活動で医術者をしているのだろうか。都はもとい小さな村の医術者でさえ治療には相応の金銭か食料を請求するというのに。中には地位を盾に法外な要求を叩きつける輩だっている。なにか裏があるのではなかろうか、しかし東水は信頼しているとばかりに裏はないと首を振る。
「人の命に値段なんてない、焔の言葉だよ。怪我人や病人を医術者が治療するのは当然の義務であり、そこに見返りを求めようとする奴はもはや医術者ではなく商売人だと」
生活費程度の安い報酬を要求するならともかく、己の贅沢の為に患者に代価を求めるのは間違いだとあの焔という男は語ったそうだ。そうして男は、特に生活に困っているわけではないから代価は一切求めないのだと。まさに絵に描いたような理想像だった。そんな者がいるわけがないというのに、昔馴染みは真実だと譲らない。
「彼の人となりを知れば理解できるよ。彼と彼の夫は不思議な人だからね・・・今から彼らのことを話す。だから・・・君たちのことも教えてくれないか?」
どうしてあの場所にいたのか、四谷村で何があったのか。そう問いかける彼の眼差しは真摯であった。ここまでしてもらったからには黙って出ていくわけにもいかないだろう。長い話になると告げれば東水は承知したとばかりにその場に座り込んだ。
「・・・実は・・・」
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