終の章 《獣の国》4
ここで獣人族の生活習慣についておさらいする。まず前提として、彼らは《時刻》というものを意識していない。だが一分が六十秒だとか一時間がどのくらいだとか、そういった感覚は知っている。村に時計はないが、都の純陽には民衆向けの大時計があるとか。
まずは起床時間、時計がないのでおおよそでしかないが彼らはだいたい7時前後には起床し各々家庭で支度を整える。感覚的には朝日が昇って村に差し込み始めたらというような感じで、子どもや狩人でない大人は近くの森で果物を採取し、それを朝食にして次は狩人たちが狩りに出る。
昼、彼らには昼食を取るという習慣がない。残された子どもと大人たちは果物を保存用に干したり、弓矢の製作や道具の修理と言った作業をして時間を潰す。
夕方、狩人たちは太陽が山に沈む前に村に戻り門前広場にたき火を起こしてその場で獲物を解体し、焼くもしくは煮て村人たちに夕食を振る舞う。夕食後は村の川、もしくは泉で身を清めるがこの行為は毎日ではなく三日に一度の頻度だそうだ。
夜、夕食を終えて月が山から顔を出し始めたころに彼らは自宅に戻り、狩人は狩猟道具の整備をしてから先に就寝した家族と共に寝所に入る。番などは夜の営みになだれ込む場合もあるだろうが。その例外を除いた就寝時刻はおよそ9時と思われた。この村における生活習慣はこんなものであり、都に住んでいたという者の話では翠森はもとい、三獣連合全体における民衆の暮らしはだいたいこんなものだと言っていた。もちろんあくまで民衆であり、例えば商人や兵士、王侯貴族などは多少は異なるだろうと思われる。
と言った内容を、試作第一号である和紙に書き留めた玄が最初に抱いた感想は・・・もったいない。彼らの一日のサイクルは外の世界でも辺境では特に珍しいことではないものの、それこそ昼や夜の時間の使い方が大雑把で空き時間がかなりあるのだ。朝食を終えた8時から狩人たちが帰ってくる17時もしくは18時の間、十時間近くあるその時間を残された村人は一時間もあれば終わるような作業に費やしている。実際にその工程を見させてもらったが、手慣れた村人などはさっさと終わらせて子どもの世話や家屋の掃除、それをするならまだいいが何もせずにぼんやりと時間を潰し川で釣りをしたりと言った具合に無駄な時間を過ごしているのだ。それが悪いというわけではないが、例えばこれが外の世界での村であったなら畑仕事をしたり少しでも稼ぎを増やすために内職をしたり・・・彼らはそれこそ一分の暇さえ惜しいとばかりに働いている。が、この村はもとい獣人族は少しでも生活を豊かにしようという意識が低いのだ。彼らの生活は人種というよりも獣種に近く、狩猟以外でとことん発展していないのは、それが必要でない環境であったからだ。よく言えば無欲、悪く言えば向上心がない。
「・・・民衆が憧憬を抱く対象は王侯貴族だ。誰もが知る有名人に、少しでも近づきたいという向上心が民衆の心を揺さぶる。王族と同じくらい美しい服を、王族が食べるような美味い食事を、それが生活習慣を改善し皆が皆少しでもより良い暮らしを求めて・・・それが技術革新や進化につながる。が・・・この三獣連合には、そういった傾向がほぼ見受けられん」
まさに根っからの狩猟民族、目の前に情報提供者である阿尋がいるので言いはしないがこれでは人の形をした獣だ。必要がなかった、それも要因だろうがもっと大きいのが外界と断絶された辺境国家であるからだろうと思われた。彼らは外の世界を知らない、それこそ大陸とつながっている西の山は越えれば二度と戻ってこれないなんて言い伝えがあって好き好んで出ていく物好きはそうはいない。外界の情報が一切入ってこないのでその暮らしぶりが分からない、自分たちがいかに原始的な生活をしているのかが分からないのだ。人のふり見て我がふり直せなんて言葉があるが、人のふりさえ分からなければ我が身など変えようとさえ思わない。
「・・・一応聞くが、王侯貴族の暮らしを知ってたりするか?」
「さすがに王族や貴族の暮らしは・・・亡くなった私の母が、代々医術者様を輩出している御家に奉公に出ていたんだ。そのご縁で当時の子息様と兄弟のように仲良くさせていただいて、他の一般家庭よりは豊かな暮らしはしていたけれど・・・」
その時の生活習慣はこうだ。まず食事、果物は都の朝市で売られているものを買い付けるスタイルでその果物は近隣の村や都の住人たちが持ち寄ったものらしい。昼の時間の潰し方は医術者の家系ということでその子息殿は勉学に励み、阿尋自身は母の手伝いとして屋敷の掃除といった給仕のような仕事をしていたそうだ。夕食は夕市で売られる獲物を、これらは都で狩りを生業としている狩人たちが捕った獲物が並んでいる。そうしてそこでは毎日水浴びができて、しかも家に専用の水浴び場があるそうだ。
「・・・まぁ、一般家庭よりは贅沢ではあるな」
「私も毎日屋敷にいたわけないから。そうでない日はこの村と変わらない生活だったよ」
ただし村と都の違いは、都はお金さえあれば生活には事欠かないということだ。この国の貨幣は三獣連合共通の文銭と両紙幣。お金があれば食事は市場で買う、もしくは大衆食堂で(ただし出てくるのは焼くか煮るの二択の肉もしくは魚)。水浴び場も大衆用が存在し、衣服や狩猟道具だって店に行けば簡単に手に入る。聞く限りでは確かに都は村よりは豊かな暮らしぶりであり、どこの世界も金持ちが王族の住まう都に住める。
しかし所詮はその程度、多少は豊かであってもその詳細は贅沢であるとは言い難い。
「・・・当時は、私はとても恵まれていたのだと思っていた。けれども・・・この家を見ると、随分と原始的な生活だったのだと痛感させられるよ」
「今は思いつくものを手当たり次第と言った感じだからなぁ」
嘆息する阿尋の視線につられて視線を回せば、家の中に随分と物が増えたと改めて感じた。貰ったこの家を改修し、それこそ最初は獣人族のことは何もわからなかったので己らの暮らし易さだけを考えて色々作った。設備はもとい家具や小物、機能などまったくない飾りから来客用のお泊り道具まで揃えた次第だ。彼らが野菜を知らないという衝撃的な事実を知った辺りからはこうして阿尋を初めとした村人たちから獣人族のことを教わって、この半年をかけて村人の生活スタイルを変える段階に至る前準備が整った。
「野菜の栽培が軌道に乗った、これで村の食糧事情は改善できるだろう。つまり・・・毎日狩に出る必要もなくなる」
「それは皆も納得しているんだ。でも・・・じゃあ何をしようってことになる。収穫や種植え以外での普段の畑仕事にそれほど人数はいらないのだろう?」
単に野菜の存在と素晴らしさを知ってもらいたいと始めた野菜作りは思いのほか好評で、村人全員が毎日腹いっぱいにできるようになってからは毎日狩猟に行く必要がなくなった。一番反発があると思われた狩人たちからはむしろ好評であり、一日の大半を狩に費やしていた彼らにとって家族との時間が増えることは狩猟よりも重要だそうだ。その狩人たちには現在進行形で野菜の栽培方法を伝授しており、目標としては彼らだけで村全体の畑の管理ができるようになること。
「君たちや子どもには、所謂内職をしてもらおうかと思っている」
「ないしょく・・・外界では、お金を稼ぐ行為のことですよね?」
「あぁ。と言っても今は稼ぐための内職じゃない。君たちの生活をより豊かにするための内職だ」
もちろん全員ではなく、正吾のように畑仕事をしたがる者もいるだろうからあくまで希望制にしようと考えていた。狩人たちも希望者がいれば内職作業に従事させようとも。これはあらゆる作業に言えることではあるが、仕事というのは嫌々やるよりも興味と好奇心がある方が上手くいくし大成する。好奇心が探求心を呼び、そこから進化が生まれ技術革新にも繋がるからだ。
「君たちの生活に直結し、かつ極めれば豊かになり、この村の生活に見合うもの・・・いろいろ考えたが、“織物”がいいと思うんだ」
「おりもの?」
織物、布を作り、それを衣服や小物、調度品に仕立てる裁縫作業だ。試行錯誤を重ねて行き着いたのは外界の村人と似たような内職で、しかしながらこれが一番生活に直結しており村の環境に適している。
そうした説明をしたら、すると阿尋は驚いたように目を見張っている。気に入らないか、そう聞けばそうではないと首を振っていた。
「むしろ興味しかないよ。ただ・・・てっきり、調味料作りかと思っていたから。今は君たちが二人だけでしているだろう?」
「あぁ・・・興味を持ってくれるのは嬉しいが、あれは知識と経験がなければかなり難しいんだ。もちろん追々は伝授したいが、今はまだ早すぎるだろうからな」
それに調味料のほとんどは焔によるスゴ技(魔法)で瞬間製造されたものがほとんどだった。味噌や醤油などは本来一年以上かけて作られるものだし、それこそ料理酒は数年かかる場合もある(なおこの国には娯楽の為の酒もないのでその製造も早期的に確立しようと考察している)。今は薄味派であることもあるのでそれほど量が必要ないということもあるので暫くは問題なく、そもそもまだ調味料作りに欠かせない設備がない。阿尋も納得したと頷いてくれた。
「君たちの衣服は麻と綿、あとは動物や魔獣の毛皮・・・それらの品質改善と、もう一つ新たな素材で布を作ってもらいたい」
三獣連合における布地はほとんどが蒼海から輸入されたものだ。もちろんすべてではなく、この翠森にも麻や綿花から布地を作る技術はある。しかしながらここの部分でも外界と比べるとその品質はかなり低く、衣服よりも狩りで使う鎧の方が製鉄工程などそれなりに確立されていた。といってもその鎧も己らから見てみればまだまだと言った感じではあるが。
「いくつか作ってあってな。君を呼んだのは、獣人族の好みやタブーを先に知っておきたいと思ったからな」
「色や柄の、と言ったことかな?」
獣人族の作る衣服は品質こそ低いものの刺繍や染色と言ったアレンジが加えられている。衣服というのは国や土地によっては好まれる色、一般市民が入れてはいけない柄、それこそ王侯貴族にしか許されない染色や刺繍も存在する。獣人族の服装は国ごとの環境に合わせて少しずつ違うものの、この翠森は比較的温暖な気候が一年中続き、その私服は高天の円丘と似たような形態の和装が多い。狩人などは軽装の上に鎧を着こむと言った具合で、水生村を見た感じでは禁止されている柄や色はない様子だった。それでも念のためにと都に住んでいた阿尋に助言をと考えて呼び出した次第だった。
「この国で作られる衣服は綿花が一般的だよ。麻は取れなくもないけれど、妖紋蛾の餌になっているので採取が難しい・・・それに今は蒼海との国交が途絶えてる。都の様子も分からないからなんともいえないけど、ここ最近商人が村に来ないのを見るに、まだ交易は回復していないのだろうね」
盗賊襲来による被害は人的被害だけでなく、国ごとの貿易にも影響を及ぼしていた。この水生村にもっとも近い国である金砂からは魔導機を、蒼海からは衣服、そして翠森はそれらと引き換えに豊かな自然からもたらされる食糧を提供していた。しかしその交易は数年前から断絶、玄はこの国中の盗賊を探し出しては殲滅しているが蒼海と金砂まではまだ行っていない。噂では二国は翠森との国境砦を閉ざして自国の防衛に努めた故に盗賊による被害は被っていないとか。あくまで噂でしかないのでなんとも言えないが。とにかく今は目の前のことをどうにかしようとその思考を中断する。
「まずは新しい素材で作った完成版からだ。染色も刺繍もしていないただの反物だ」
そうして玄は脇に置いていた風呂敷を手繰り寄せて結び目を解く。この日の為に徹夜・・・はしていないが、とにかくせっせと作ったそれを阿尋の前に差し出す。黒い風呂敷が解かれれ、そうして姿を現したそれは窓格子から差し込む陽光を受けて煌めいていた。あえて窓際に腰かけてよかったと内心ほくそ笑みながら青年の様子を窺えば、彼は思った通りこれでもかと目を見開いて固まっていた。
「・・・これが、布・・・?まるで水のような光沢・・・魔法で造ったとかではない、よね?」
「一から十まで手作りさ。二か月くらい前に俺が持ち帰ってきた繭を覚えているか?」
然りと頷いた彼に、これがその繭から出来ている絹という布だと説明したらぎょっとしていた。妖紋蛾という魔獣はとにかく大きくて、成虫は馬二頭分くらいの大きさにもなり、それでも気性は穏やかな魔獣だった。人に危害は加えないものの麻を主食としており、故にこの国では麻の衣服を作るのは難しい。その魔獣の繭からとれる絹は大人50人分の衣が作れるだけの量があり、さらに魔獣ということもあって普通の蚕からとれる繭よりも丈夫だ。
「ただし妖紋蛾を取り尽くすわけにもいかんからな、メインは綿の衣服。こっちは祝い事や礼服として仕立てるようにした方がいい。綿糸の加工については焔が改善案を作ってくれてな」
この村でも品質の良い綿が作れるようにと焔が製糸における改善案を考えてくれたのだ。そうして出来あがった試作品を取り出して、阿尋に感触を確かめてもらえば彼は満足げに頷いている。
「絹とは感触が違うけれど、今まで私たちは着ていたものと比べたら圧倒的に違う」
「柄はどうだ?」
「こんなにはっきりと色が出せるなんて・・・模様も綺麗だよ。翠森は植物の柄が特に好まれるんだ」
安直に森があるからと植物柄を中心に染色したのであるが、阿尋は柄の違うそれを手に取っては感心したように笑ってくれた。続けて教えてくれたところによると、王侯貴族専用の色というものはないらしく結婚や葬式と言った冠婚葬祭での決まり以外は特に問題はないとのことだ。柄に関しても何を描いても大丈夫だそうで、ただし唯一・・・王家の紋章は王族にしか許されていない。豊かさと幸福を表す黄金の四つ葉、四つ葉事態は問題ないがそれを刺繍や染色する際に黄色を使うことはならない。
「黄色?金糸ではなく?」
「金色の糸なんてみたことも聞いたことも・・・君たちなら作れそうだけれども、金に一番近いのは黄色だから」
鎧などに金を溶かして装飾することはできても金の糸を作る技術はこの国にはないそうだ。そういえばふと、金糸を作ってそれで刺繍をしたことを思い出した。阿尋の周りにある綿布の中から記憶の物を探し出すと、そこに編まれた刺繍は黄金の目を持った赤い鳥。
「金色!?まさかと思ったけど本当に・・・!!」
「これはまずいか?結構気に入っていたんだが・・・タブーだというなら目だけ変えるが・・・」
金は採れる量が少なかったので金糸も多くは作れず、その色を眺めて思い浮かんだのが焔の顔。彼の瞳と同じ色、ならばとそれを目に使い、赤い大鳥は彼の姿をイメージして刺繍したのだ。一番の力作であるし、彼をイメージしたものを変えたくはなかった。すると阿尋は角度を変えて大鳥を眺めながら、大丈夫だろうと頷いてくれた。
「あくまで王家の紋章がという話だからね、色は問題ないよ・・・本当に金色だ・・・」
「・・・焔火と正吾の衣に、同じ鳥を刺繍しようか?」
大鳥ではなく小鳥の。そう提案したら阿尋は心底嬉しそうに笑って是非と言ってくれた。あの兄妹は鳥の獣人だった、元よりこの村全員に絹の衣を贈ろうと焔と話していたので柄が決まってよかったと思う。
「そろそろ焔たちが帰ってくる、まずは製糸の勉強からだな」
「よろしくお願いします、師匠様」
なんて茶目っぽく笑う阿尋の顔は綺麗で、東水が心底この笑顔に惚れたのだと惚気ていたのを思い出した。彼らのまっすぐな笑顔は見ているだけでも穏やかになる、外界を知らぬが故の純粋な心。そんな表情を見るたびに頑張ろうと、彼らの為になろうという気持ちになれた。
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獣人族には風呂に入る習慣がない。今は“なかった”と改めるべきかもしれない。かつて水生村における体を清める行為というのは水浴びが基本であり、夏でも冷たい水は冬は殊更冷たく入るのはかなり渋るだろう。さらに彼らは石鹸なんていうものも知らず、水で汚れを洗い流し匂いは花から採れる香油を使っていたそうだ。その香油も高価であるので使えるのは都に住んでいる富裕層ばかり・・・辺境の村人は香油を水で薄めたものを時折使うだけ。ただの水洗いでもほとんどの汚れを落とすことはできるものの、やはりこびりついた汗や皮脂、匂いだって気になる物は気になるのだ。
「昼間から湯浴みなんて超贅沢!いまのあたしたちって、都のお金持ちより良い暮らしじゃない?」
「そうだねぇ。水を沸かして体を浸からせるのがこんなに心地よいだなんて・・・」
満足げな吐息をついて湯を楽しんでいるのは水生村の奥御一行だ。男が生まれやすい種族ということもありその男女比は7対3、一応全員水浴着を着用しているので全裸というわけではないが見目麗しい男女が真昼間から混浴、ある意味眼福ではあるがそれを口にすると爺臭いなどと言われかねないと思い焔は口をつぐんだ。
「体も髪もこんなに艶々!もう水洗いだけじゃ満足できないわぁ」
「気に入っていただけて何よりだ。ただし使いすぎには気を付けてくれ、今はまだ数がないからな」
今回初めて洗髪剤、つまりシャンプーとリンスを投入していた。この温泉を掘り起こした当初は体を洗うための洗剤をとりあえず製造し、ある程度彼らに風呂の素晴らしさを理解してもらったうえでトドメの最終兵器。頭皮から根こそぎ洗浄できて、おまけに艶々の仕上がりになるとあって彼らは頗る喜んでくれたのだ。
水浴びから湯浴みへと習慣を変えたことで肉体精神面共に大きく変化していた。昼間は仕事に励み、その汗と疲れを癒すために風呂に入る。暖かい湯の快感は体を温め休めるだけじゃなく明日の気力にもつながったのだ。ちなみに今日は洗髪剤の初お披露目ということで村人全員で真昼から湯に入っている。
山の傾斜を利用して石の囲いで作った湯船から下の湯船へ自然とお湯が流れるようにしていた。最初は男女で分けるつもりで上下二つに分けたのであるが、彼らは水浴びでも水浴着を着用し男女で分けることは意識していなかった。源泉の湧き出る上の
「指先で頭をこするんだ。毛穴から汚れを根こそぎ掘り起こすみたいに」
「目が痛いんだが!?」
「目を閉じるんだよ父さん!」
大小の大人や子どもが並んで頭を洗っている様子はなんとも微笑ましい気分にさせてくれた。子どもよりも大人が苦戦している様がまた可笑しくて、叫ぶ東水を窘める正吾はけらけらと楽しそうに笑っていた。他の子どもたちも、己の父や兄たちに教えたり髪を洗ってあげたり・・・小さな村ならではの、朗らかで暖かい輪がそこにあった。
「はぁ・・・それにしても、玄兄さんってとってもハンサムよねぇ。見てよあの上半身!贅肉なんてまるでないじゃない」
「あぁ分かる分かる。俺の旦那もでかい方だと思ってたけど、玄と並ぶと華奢に見えちまう・・・あの腕なんてもう丸太だよ丸太」
眼下を眺めていた焔の隣に女と李淵が寄り添ってきた。彼女らが一様に褒めたたえる玄は、確かにあの中でも突出した身体つきをしているように見えた。筋肉の筋が浮き出た太い首、肩幅は大きく腕は丸太のように太い。綺麗な逆三角形を描く上半身の筋肉は岩壁の如き威圧感を醸している。上半身と下半身を繋ぐ腰は大きく、そこから伸びる足はしなやかにも見えながら筋肉が程よくついていた。
それは他の奥たちも同意見らしく、玄の話題が出たことで彼らは色めきだってこちらに近付いてきた。
「本当にハンサムよねぇ。あれで髪がもっと長ければ完璧よ、今でもかっこいいけれど」
「焔頑張って伸ばさせろ」
「だが断る!これ以上あいつのファンを増やすのは気に食わん」
俺の夫だからな。憮然と言い放てば奥たちは抗議の声を上げていたが、李淵は意味深なにやにやとした笑みを浮かべていたので頭を小突いてやった。獣人族にとって髪は大事なもの、その名は転じて《神》となりその髪が美しく長いほど神の寵愛が深いとされている。それこそ結婚相手を選ぶ基準に髪が入るほどに重要視されているのだ。それを切ることができるのは修行を受けた神官らしく、整える行為以外で髪を切ることはあり得ないそうだ。確かに村人たちは老若男女問わず髪が長く、どんなに短くても肩甲骨辺りはあるのだ。一房だけ伸ばしている玄のあの髪型は、村長曰くセーフらしい。
「焔兄さんはこんなに長くて綺麗なのに、あたしこんなに鮮やかな赤毛があるなんて初めて知ったわよ」
「・・・あれが、長い方が良いというから伸ばしていただけだ」
最初は肩くらいの長さだったそれは、この月日で身長を越える長さになっていた。改めてみるとその月日の長さを思わずにはいられず、蘇るのはこれまで彼と尋ねた数々の土地の思い出。原始的な生活を強いられた時は髪を切ることさえ億劫になって、それでなんとなく伸ばしていたこれを・・・ある時彼がこのままがいいのだと言ったのだ。焔の赤、灯火の色、これは道標・・・どんなことがあっても見つけられるように。そう告げた彼の、祈るようで縋るような眼差しは今でも鮮明に蘇る。
「・・・あ!そういえば、兄さんたちの馴れ初め聞いたことなかったわよね?」
「あぁ確かに!この際だから教えて頂戴!」
ふと、どうしてそこに至ったのか定かではないが奥の一人がそんな言葉を発して彼らは色めきだった。キラキラ、否ギラギラとした鋭い眼差しで一斉に見つめられて思わず苦笑してしまう。どこの世界でも恋バナというのは好まれるものなのだろう、その議題が己らでなければ尚良かったが。
「五千歳の爺共の馴れ初めなんて聞きたいか?」
「見た目ほとんど一緒のくせに何言ってんだか。いいから話せって!どこで知り合ったよ?」
話すまでは逃がさないとばかりに両脇を固められて、逃げることは容易いがそれでは後が怖そうだと観念するしかなかった。岩に体を預けた向きから湯船の方に向き直り彼らと相対する、話す気になったのだと伝わって彼らはそわそわとした様子でこちらの言葉を待っていた。
「運命的な出会いを想像していたのであれば申し訳ないが、どこにでもあるような普通の物語だ。同じ村に生まれて、幼少期は兄弟のように育った。同じ夢を追いかけて、村をでて都に出て・・・そこで最初に変わったのは、俺だったかもしれん」
かつて人であった時、何も知らない無知であった時。ただ我武者羅に夢を追いかけて、その夢が叶うのだと当然のように信じていた・・・稚拙で愚かな過去。最初はただ一人だけを追いかけているつもりだった、いつだって隣にいてくれた彼を己は見ようともせず、むしろ隣にいるのが当たり前だと思いあがっていた。己には才能が、いつか英雄になれる未来がある。そんなバカげた妄想を馬鹿みたいに信じ切っていた。
「ある時、あいつの才能に、玄の強さに気がついた。あれはどんな逆境にあってもその志は揺るがなかった、どれだけ強大な力を前にしても決して怖気づくこともしなかった・・・本当の天才はあいつだったと、気づくのに随分と時間がかかった」
彼には才能があった。それは見た目ではっきりと分かる才能ではなかったのだ。彼の周りにはいつも誰かがいた、己ではない誰かが。みな一様に彼を慕い心からの敬愛を示していた。それに彼は応えていただけ、たったそれだけのことでも彼は多くの人の魅了し、惹きつけ、誰もが彼を上に立つ者だと認めていた。そんなことにも気づかなかった当時の己は彼が隣にいるのは自分に着いてきているからだと勘違いしていた。実際はまったくの逆、己もまた彼に魅せられた一人でしかなかったのだ。
それが微かに変わったきっかけは、今でもなんであったかは思いだせない。けれどある時から彼を意識し始めていた。友ではなく、男として。あの環境で男同士は珍しくはないものの世間的に認められたものではなかった。環境による気の迷いだと最初は思っていたのに、意識すればするほどに彼が気になって仕方がなかった。彼の一挙一動を目で追いかけていたこともあった、何気ない所作に胸が高まったことさえも、己以外の誰かと楽し気に会話する姿には嫉妬さえ覚えた。
・・・そうして過ごすうちに、気づいてしまったのだ。彼の真の才能に、彼の真価に。才能があるのは己ではなく彼であることに。己は彼の才能に魅せられただけの、凡人だったことに。
「・・・・・・ただ、怒りは湧かなかった。嫉妬も、憎悪もない・・・ただ、嬉しかったんだ」
これも運命の女神がくれた贈物。この広い世界で同じ場所に同じような時に生まれ、兄弟のように共に歩むことができたのも、同じ夢を追いかけられる誉を賜ったのも。彼に恋に落ちるのもまた運命だったのだと。彼には才能が、王たる資格が、かつて追いかけた英雄さえも超える逸材だった。そんな彼と共に、隣に在れるかもしれない。そう考えただけで体は歓喜に打ち震えた。
「それからは若さの勢いのままに告白して・・・一回で受けれ入れてくれたさ。本当にあれには感謝してもしきれん」
「玄兄さんはどうして焔兄さんの告白を一発で受けいれてくれたの?」
「・・・あれも、同じ思いを抱いていたそうだ」
それは兄弟同士の酒の席での話だったと思う。普段は恋バナなんて甘ったるい話をしない彼が、酔いが回ったのか兄や姉たちにそれはもう締まりのない顔で自慢していたのだ。焔には才能が、人を引き付ける魅力がある。姿の美しさはもとい動作や仕草、何気ないところも彼の美しさを引き立て周囲を魅了していたのだと。女や男が近寄っていくたびにそれはそれはもう気が気でなかったし、嫉妬もしたのだと。顔を真っ赤にして語る彼の言葉に焔自身も赤面したのは今となっては懐かしい思い出だった。
「両片思い、切っ掛けがなければ永遠に成就しなかった。俺の世界じゃ同性愛は嗜好であっても認められたものではなかったからな。今の俺があるのは・・・俺たちを救いあげてくれた、母と父のおかげだ」
浮かぶのは美しい女神と気高き神獣。神々の住まう世界であっても同性同士は広く認められていなかった。それでもあの二人は受け入れてくれた。はんなりと笑う母は自由に生きる姿こそが美しいのだと、不敵に笑う父は愛を否定するならそれは世界が間違っているのだと。法律上は息子、兄弟同士であるはずの己らの関係を祝福してくれた。それは兄弟たちも同じで、彼らは皆自由で大らかで、我らが母と父の名の元にありのままの姿を受け入れてくれた。
「・・・・・・いつか、顔を見せに行かないとな」
「まだ帰らないでくれよ。せめて俺たちが成仏してから」
「縁起でもないことを言うな。当分は帰らんから安心しろ」
獣人族の平均寿命はおよそ三百年、永遠を生きる己らとはいつか別れが訪れる。それでも今はまだ考えなくてもいいはずだと、茶目っぽく笑う李淵の頭を小突いてやった。ふとそこで段下の湯船を見ろしたら何やら大人と子どもたちが水かけっこをして遊んでいた。ちなみに玄は子ども陣営に加担している。姿も年齢も十二分に大人だというのに無邪気に笑う様は子どもたちとほとんど同じだった。
「普段は聖人君主たる男が、時折見せる無邪気な笑顔・・・あれはやばいわ、奥がいると分かっても結婚したくなる」
「絶対に、やらんぞ」
うっとりとした眼差しで段下を見下ろす奥たちの、その眼差しはどちらかというと捕食者のそれだった。あれは昔から人妻によくモテる。容姿の男らしさもさることながら、あれは天然で人を誑し込むプロなのだ。そのたびにひっついてくる人妻たちをどれだけ苦労して追い払っているかなどあの男は知りもしないだろう。
だがしかし今回は頼もしい味方たちがいる。たまたまこちらを見上げたらしい李淵の夫と目があったので、まずは隣でうっとりと頬づえをついた李淵を指さして、そのまま彼の視線を追わせるように段下の玄へ。己の奥が自分ではなく玄に釘付けになっている事実を知った彼はその目にさらに闘志を宿した。
「総員!玄に集中砲火!全力で奴を沈めないと奥が取られるぞ!!」
その言葉に夫たちがこちらへ一斉に向いた。そうして自身の奥たちが玄へ熱い視線を送っていることに気付いて・・・刹那の間に闘志を燃やす。玄はと言えば子どもたちとそろって首を傾げているが。本当にあれは鈍感がすぎる。
「玄、その場の男を全員沈めたら・・・今晩、なんでもしてやるぞ」
「あっはっは!じゃあ俺らはその逆で、玄を沈められたら何でもしてやるぞ~」
せっかくだからと盛り上がる提案をすれば面白がって李淵もそんな提案を投げかけてくれた。他の奥たちも乗ったとばかりに妖艶に微笑んで、ある者は自身の夫を誘うように囲いから身を乗り出して手招きまでしている。年長の番たちは子どもたちを湯船から上がらせてそそくさと退出し、残ったのは目をぎらつかせた若い夫たちと玄だけ。
静寂は一瞬、そうして始まった取っ組み合いは割と激しかった。と言っても玄が飛びかかってくる男たちを端から投げ飛ばし張り倒しをしているだけだが。見目麗しく若々しい男たちが半裸で取っ組み合うさまを奥たちは黄色い声援を送って見守っていた。世界が世界なら眼福物の光景に焔は皆と一緒になって笑った。
言うまでもないだろうが、夫たち(玄以外)は全員逆上せてリタイア。見事に勝利を勝ち取った夫が夜の営みに何を要求したのかは割愛させてもらう。
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